第十一記録【ミッドナイト・フライト】
「行こうか。送ってあげる」
拒否権なんて、最初から設定されていなかった。
レオさんは私の手首を掴んだまま、優雅に、しかし絶対的な力で歩き出した。
連れて行かれた先は、地下三階。
一般社員は立ち入り禁止の、役員専用VIP駐車場だ。
薄暗いコンクリートの空間に、空調の低い唸りだけが響いている。
冷たい空気が肌を刺す。
まるでダンジョンの最下層みたいだ。
「……これに乗って」
レオさんが足を止めた。
彼が示したスペースに鎮座していたのは、車というよりは「銀色の翼を持つ猛獣」だった。
流線型のボディは、水銀を流したように滑らかで、攻撃的な輝きを放っている。
地面を擦るほど低い車高。
巨大なリアウイング。
うわー……。
私はドン引きした。
バットモービル? それとも宇宙船?
公道を走っていいデザインじゃない。段差で絶対にお腹擦るやつだ。
ピピッ。
電子音が鳴り、運転席と助手席のドアが、翼のように天へ向かって跳ね上がった。
ガルウィングだ。昭和のスーパーカーブームかよ。
「ど、どうも……」
気後れしながら近づこうとした時、ポケットの中でスマホが震えた。
直之だ。GPSで私の動きを感知したに違いない。
ヤバい。ここで連絡しとかないと、直之が武装して追いかけてくる。
私は足を止めた。
「あ、あの! すみません、お手洗いに行きたくて……! すぐ戻りますから!」
「ん? あぁ、いいよ。あっちにある」
レオさんは不思議そうにしながらも、奥の通路を指差した。
私は小走りで角を曲がり、彼の視角から外れた瞬間にスマホを取り出した。
高速フリック入力。
『緊急クエスト発生。王子様に拉致られた。敵意判定なし。たぶん送ってもらうだけ。追跡不要。先に帰還せよ』
送信完了。
ふぅ。これで直之の暴走は防げるはずだ。
戻ると、レオさんは車のボディに寄りかかり、絵になるポーズで待っていた。
「お待たせしました……」
「ううん。さ、乗って」
彼はエスコートするように手を差し伸べ、私を低い助手席へと押し込んだ。
最高級の本革シートが体を包み込む。
目の前には、コックピットのような複雑な計器類が並んでいる。
バサッ。
重厚な音を立ててドアが閉まる。
完全な密室。外界の音が遮断され、静寂が満ちる。
レオさんが運転席に乗り込み、私の方へ身を乗り出した。
「ベルト、してね」
カチャリ。
彼の顔が近づき、シートベルトを締めてくれる。
甘いコロンの香りが、狭い車内に充満する。
「舌、噛まないように」
彼は悪戯っぽく微笑み、エンジンスタートボタンを押した。
ドゥルンッ!!!!
腹の底に響くような、猛獣の咆哮。
背中から振動が伝わってくる。
……帰りたい。お家帰ってネトゲしたい。
私の願いも虚しく、銀色の猛獣は地下駐車場を滑り出した。
首都高速都心環状線。
金曜の夜の首都高は、光の川のようだった。
流れるテールランプの赤。
ビルの窓明かり。
それらが凄まじい速度で後方へと吹っ飛んでいく。
速い。速すぎる。
メーターを見るのが怖い。
でも、車内は恐ろしいほど静かだった。
風切り音すらしない。
流れているのは、レオさんがかけたスローテンポなジャズだけ。
「……綺麗な夜景だね」
レオさんがハンドルを握りながら、ポツリと言った。
横顔を見る。
街灯の光が、彼の整った顔立ちに明暗を描いている。
何を考えているのか読めない、能面のような横顔。
「そ、そうですね……」
「僕さ。君の噂、聞いてるよ」
ドキッ。
心臓が跳ねた。
「う、噂……ですか?」
「うん。いろいろね」
彼は視線を前に向けたまま、歌うように言った。
「開発部でジャージ着て歩き回ってたとか」
ブフォッ!
「あと、資材置き場で作業員と一緒にちくわ食べてたとか」
グハッ!
致命傷。オーバーキルだ。
黒歴史が、最悪の形でバレている。
社内ネットワーク、早すぎない!?
「ふふっ。面白いね、君」
レオさんがクスクスと笑う。
「そ、それは……あの、えっと……」
言い訳が見つからない。
穴があったら入りたい。今すぐこの車から緊急脱出したい。
レオさんは一瞬だけこちらを向き、ヘーゼルの瞳で私を射抜いた。
「でも、今の君は……完璧な『お嬢様』の顔をしてる」
視線が、私の服装から、メイク、そして表情へと舐めるように動く。
「清楚で、弱気で、世間知らずなお嬢様。……ねぇ、どっちが本当の君?」
試されている。
彼の瞳の奥に、冷たい光が見えた。
嘘を見抜こうとする、鑑定士のような目。
私は膝の上で拳を握りしめた。
正直に言うべきか?
いや、ダメだ。
ここで「実は廃人ゲーマーでコミュ障です」なんて言ったら、パパのミッション(婿探し)が失敗する。
私は震える声で、精一杯の虚勢を張った。
「……どっちも、私です」
「ふーん」
レオさんは興味なさそうに相槌を打ち、また前を向いた。
「嘘つきなんだ」
彼は楽しそうに笑った。
その笑顔は、砂糖菓子のように甘くて、そして氷のように冷たかった。
目が離せない。
毒だとわかっていても惹かれてしまう、危険な引力。
車は高速を降り、人気の少ないベイエリアへと入っていった。
倉庫街の突端。
海風が吹き、対岸のコンビナートの明かりが揺れている。
プシュン……。
エンジンが切られた。
ジャズも止まり、車内は波音だけが聞こえる完全な密室になった。
「……」
沈黙。
気まずい。
何を話せばいいの?
「夜景綺麗ですね」はさっき使ったし。
カチャ。
音がした。
レオさんがシートベルトを外したのだ。
そして、身を乗り出してきた。
「えっ」
逃げ場のない助手席。
彼の顔が近づいてくる。
シートに背中を押し付けられ、私は身動きが取れない。
彼の長い指が伸びてきて、私の頬を優しく撫でた。
「ん……」
冷たい指先。
背筋がゾクゾクする。
レオさんは私の目を覗き込み、とろけるような声で囁いた。
「ねぇ。……キスしてもいい?」
「えっ!?」
ド直球。変化球なしのストレート。
私の脳内会議場は大パニックに陥った。
は!? キス!? 今!? ここで!?
選択肢! 選択肢どこ!?
『A:受ける』『B:逃げる』『C:気絶する』!?
無理無理無理! 男性経験値ゼロだよ!?
チュートリアル飛ばしていきなりラスボス戦!?
『いきなさーい!』
不意に、後部座席から明菜の声が響いた。
振り返ると、彼女はチアリーダーのような格好をして、ポンポンを振っていた。
『ジュリアス・シーザーは言ったわ。「賽は投げられた」ってね! もう後戻りはできないのよ! 流れに身を任せなさい! 女は度胸よ茉莉子! いけいけー! 押せ押せー! 今夜は朝まで帰りませーん!』
無責任な!
でも、拒否する言葉が出てこない。
レオさんの顔が、さらに近づく。
瞳が、夜の海のように深く、暗く、私を映している。
獲物を捕らえた蛇のような、逃れられない視線。
……あ、だめだ。吸い込まれる。
私は覚悟を決めた。
いや、諦めたのかもしれない。
彼のペースに巻き込まれるしかない。
【スキル発動:うるうるチュルチュルな瞳】
私は上目遣いで彼を見つめ、潤んだ瞳で同意を示した。
まな板の上の鯉。
どうぞ召し上がれ。
唇が触れるか触れないかの距離。
彼の体温。
甘い吐息。
高級なコロンの香りが、脳を麻痺させる。
私はギュッと目を閉じた。
思考停止。
流されるまま――。
……。
…………。
来ない。
唇の感触がない。
ピタリと、気配が止まっている。
……え?
恐る恐る、目を開けた。
そこには。
絶対零度の冷徹な目で見下ろす、レオさんの顔があった。
「……なーんてね」
「えっ」
彼はパッと私から離れ、シートに戻った。
そして、悪戯っぽく、しかし底冷えする声で笑った。
「そんなに簡単に許しちゃダメだよ、お姫様。……つまんないから」
「……」
時が止まった。
恥ずかしさで、全身の血液が沸騰しそうだ。
弄ばれた。
試された。
そして、「つまらない」と切り捨てられた。
彼はエンジンをかけ、何事もなかったかのようにハンドルを切った。
BGMのジャズが、嘲笑うかのように軽快に流れ出した。
その後は、本当に何事もなかったかのように、自宅の前まで送られた。
車内は沈黙。
私は一度も彼の方を見ることができなかった。
「……ありがとうございました」
蚊の鳴くような声で礼を言い、車を降りる。
早く逃げたい。
部屋に帰って布団被って叫びたい。
その時。
ウィーン、と窓が開いた。
レオさんが顔を出し、ニカっとウインクをした。
「楽しかったよ。茉莉子ちゃん」
彼はスマホを取り出し、QRコードを突きつけてきた。
「はい、これ。連絡先。……拒否権はないからね?」
私は震える手で読み込んだ。
今週四人目の連絡先ゲット。
でも、一番嬉しくない。
「じゃあね。また遊ぼう、嘘つき同士」
ブロロロロ……!
銀色のテールランプが、夜の闇に溶けていく。
私はその場にへたり込んだ。
足に力が入らない。
心臓が痛い。
ムカつく。性格悪い。最悪だ。
あんな男、こっちから願い下げだ。
でも。
……なんで、ドキドキしてるのよ。
悔しいけど、あのキス寸前の瞬間。
そして、突き放された瞬間の、あの寂しそうな目が。
脳裏に焼き付いて離れない。
『はい、完敗〜』
明菜が門柱の上に座り、やれやれと肩をすくめた。
『手も足も出なかったわね。赤子の手を捻るようだったわ』
「……うるさい」
明菜は空中にカードを並べた。
【THE MOON(月)】の逆位置。
【THE MAGICIAN(魔術師)】の逆位置。
『彼は鏡よ』
明菜が静かに言った。
『アンタの「演技」を見抜いて、それを反射してるだけ。 アンタが嘘をつく限り、彼も嘘で返してくる。 合わせ鏡の迷宮ね……攻略するには、その仮面を無理やり剥がすか…… それとも、彼をも騙し切る「真実の嘘」をつくか』
明菜はカードを消し、私を見下ろした。
『難易度ルナティック。……覚悟しなさい?』
私はヨロヨロと立ち上がった。
スマホの画面を見る。
新しく追加された「桐生レオ」の名前。
私は備考欄に書き込んだ。
桐生レオ → 【甘い毒を持つ嘘つき王子(取扱注意/性格S)】
これで四人。
残るは一人。
平和の象徴、あの「無自覚ワンコ」だけだ。
「……疲れた。寝る」
私は重い扉を開け、逃げ込むように屋敷の中へと消えた。
長い、長い一週間が、ようやく終わろうとしていた。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子(ハンドルネーム:キス待ち顔の敗北者)
・職業:手玉に取られるお嬢様
現在のステータス
・精神力:瀕死(HP1。「なーんてね」のクリティカルヒットで即死判定)
・羞恥心:限界突破(バグって計測不能)
新規獲得アイテム
・【レオの連絡先】:猛毒エンチャント付きのレアアイテム。所持しているだけでSAN値が削れる。
・【黒歴史(キス未遂)】:一生消えないデジタルタトゥー並みのトラウマ記憶。
【明菜の分析ログ】
アンタ……。「まな板の上の鯉」の方がまだ活きがいいわよ?
あそこで目を閉じて待機とか、恋愛シミュレーションゲームのやりすぎね。見てるこっちが赤面したわ。
カエサルは言ったわ。「経験はすべての教師である」って。
今のアンタは、自分が「嘘つき」だってことを骨の髄まで教え込まれたわけ。
ま、あの男は「鏡」よ。
アンタが仮面を被り続ける限り、永遠に虚像とダンスすることになるわ。……お疲れ様♡




