闇打つ笛、花粥の夜警
月が雲に隠れた夜半、院田の粥所は炊き残りの甘い香りを漂わせていた。日中に剣を交えた平家の祐国と源氏の高義が同じ鍋の番を買って出て、薪をくべながら互いの腕の傷を見せ合う。近くの木立には僧兵が錫杖を抱え、山賊崩れの若者が弓を構えて夜風を見張る。加藤清光は折れた木刀を笛に持ち替え、竹林の影を巡回していた。
笛の音は低く、闇に潜む鳥を驚かせないほどの細さ。音色に混じる香は木蓮ではなく萩の花を炊いた小さな香炉の匂いだった。梅と木蓮が狙われたのなら、次は別の花を焚き、香りで敵を惑わせる。香炉を腰に下げ、笛の孔を押さえる指が夜気で冷えるたび、清光は都の闇を思った。胸も歌も香も、誰かの恨みを呼ぶ。けれど折れぬ心で吹く笛は、剣より遠くまで届くはずだ。
粥所の灯が一瞬揺れた。屋根の上で瓦が小さく転がる音。笛の音を止め、清光は竹林の影から飛び出す。月が雲を割り、瓦の際に黒い影を映した。影が油壺を振りかざす瞬間、僧兵の錫杖が鳴り、高義の矢が弧を描いて影の袖を射貫く。影は呻き、油壺を落として跳ね上がった瓦に足を取られた。清光は木刀を構え屋根に跳び上がる。折れた刃でも十分だった。影の腕を払うと袖が裂け、紅い梅紋が夜露に光った。藤原顕房の印。影は短刀で応じようとしたが、笛を持った左手が袖口を掴みねじる。瓦が割れ、影は屋根を滑り落ちた。
地面で影は転げ、袖を押さえて立ち上がる。「梅粥も木蓮粥も、都を腐らせる泥粥!」 叫びと同時に再び短刀が振り上がるが、祐国と高義が左右から踏み込み、刀の腹で影の手首を叩いた。短刀が落ち、影は蹲る。山賊崩れが縄を投げ、僧兵が経を唱えながら縛り上げる。影の顔は痩せた男、顕房の門弟だと名乗った。
灯の下に引き据えると、顕房の命で粥所を焼いて粥歌を根絶やしにする手筈だと白状した。平家と源氏の兵が顔を見合わせ、怒りより先に呆れたような笑いが漏れる。梅粥一椀で刀を抜き、花びら一枚で火を放つ――それほど歌と香が都に響いた証でもある。
清光は折れた木刀を地に突き、男に問う。「粥が憎いか、胸が憎いか、歌が憎いか」 男は震えながら答えた。「ぺたが……胸の浅さを誇るその声が、御家人の誉を奪う」 心の深さを語ることが、誰かの誇りを揺らした。清光は深く息を吸い、夜空に向けて笛を当てた。低い音が冷たく澄み、粥所の灯を揺らす風を乗り、院田の畦を渡って春の京へ滲んでいく。祐国も高義も耳を傾け、僧兵は錫杖の鈴を小さく鳴らした。
音が止むと、清光は男の縄を僧兵に任せ、祐国と高義に向き直る。「胸で器を測る者に器の深さを示すのが粥鍋の務めだ。剣で示せば刀傷が残る。笛で示せば香が残る」 二人は同時に頷き、折れた木刀の刃こぼれに手を重ねた。
深夜、捕えた男は検非違使へ引き渡され、顕房の旧邸に追手が走る。夜明け前、斎子姫と小夜が粥所を訪れ、残った粥で椀を満たした。萩の香が薄紫の湯気となり、空の端で雲がほころぶ。姫は椀を掲げて微笑む。「笛の音で香が生きましたね」 小夜が続けた。「お腹より胸より、耳に染みました」 清光は木刀を肩に上げ、まだ暗い空を見上げる。「次の花を探そう。都の器が満ちるまで」
春風は笛の余韻を抱いて院田を撫で、梅と木蓮と萩の香を混ぜ合わせた。
(第6話につづく)
次回予告
第6話「香に咲く疑雲、女房講の夜更け」
梅・木蓮・萩と香りを替え粥鍋を守った清光。しかし女房講の中に潜む密偵が、院田と御所を繋ぐ花香の秘密を盗み出す。香を奪われれば舌と心は再び凍る――夜更けの女房講で、胸を越えた旗と香りの攻防戦が続く




