表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

十五のきみに、五十のあなたへ

作者: 織田三郎

その電話が最初にかかって来たのは、五月最後の日曜日だった。


その日、急遽引き受けた夜勤が明け、早朝に帰宅した私はすぐに熱いシャワーを浴びベッドに潜り込むと、そのまま死んだように眠り込んでしまった。


だからだろう。


枕元の携帯電話から聞こえてくるけたたましいほどの着信音にもまったく気付くことがなく、体はピクリとも反応しなかったのだ。


しばらくしてようやく意識の中にその耳障りな音が入ってくると、私は目を閉じたまま徐に携帯電話を手に取り、ゆっくりと上半身を起こしていった。


(誰だろう?

 休みに電話をかけてくる相手なんて、一人もいないはずなのに・・・)


不思議に思いながら携帯電話を右耳にかざすと、まだ半分寝ている状態で私は口を開いた。


『もしもし』


なぜか、反応はなかった。


目をこすりながら、もう一度同じ言葉を繰り返す。


『もしもし?』


やはり、反応は無い。


(携帯でも、いたずら電話がかかってくるものなんだな・・・)


私は寝ぼけた頭でそう思い、げんなりした気分で早々に電源を切ろうとした。


だが、その時だった。


『あの・・・』


ぼそっと、つぶやくような声が微かに聞こえた。


『誰だ?

いたずらなら、他の電話にしてくれ!』


それだけ言うと、私は再度携帯のOFFボタンに右手の親指を乗せた。


『あのぉー』


今度は相手の声が、はっきりと聞こえた。


不審を抱きつつ、私はもう一度携帯を右耳にかざした。


するとー。


『佐脇、孝介さんですか?』


その相手は、なぜか私の名前をはっきりと口にしたではないか。


一瞬、無意識に身構える。


『君は・・・誰だ?』


『佐脇・・・です。

孝介です』


『はい?』


『あの、中学三年の佐脇孝介です』


『・・・えっ?』


これが彼、つまり十五才の自分と交わした最初の会話だったのだー。



最初は、タチの悪い冗談だと思っていた。


子供の悪ふざけが、たまたま巧妙に行われただけだ、と。


そりゃ、そうだろう。


突然電話をかけてきた相手にいきなり、僕は過去のあなたですと言われて、はいそうですかと信じる者など、どこの世界にもいやしない。


いくら鈍感な私でも、そこまでバカではないのだ。


私は左手で頭を搔きむしりながら、四角い壁かけ時計を見た。


あと五分で、正午になろうとしている。


頭が混乱していた。


強制的に電話を切る事も考えたが、取り敢えずこのまま話を続けてみることにしたのだった。


『えーと。

 佐脇・・・くん、だね?』


明らかに声が上ずっているのが、自分でも分かる。


『はい』


間違いなく、彼の声のほうが落ち着いているのも分かる。


我ながら、なんだか恥ずかしく思った。


『君は、中学生の私だと言ったよね?』


『はい』


『それを証明できる、確かな証拠があると、君は自信を持って言えるのかな?』


私は、いたって現実的な手法をもって彼に迫った。


嘘をついている者にとって、この一言はグサリとくるはずだからだ。


(さてと。

 これで、このバカバカしいやり取りを終わりにしようか)


ところが、だった。


私がそう思った瞬間、彼はこう言ったのだ。


『ええ、あります』


『えっ?』


私の予想に反して、彼の声は力強く、そして自信に満ち溢れていた。


『あるって・・・何が?』


『手紙です』


『手紙?』


『ええ、あなたからの手紙です』


一体何を言ってるんだ、この少年はと思った。


だいたい、手紙なんか誰にも書いてなんかいない。


そもそも私は手紙を書く習慣など、微塵も持ち合わせていないのだ。


(手紙、手紙・・・)


頭の中で、この二文字がグルグルと勢いよく回っていた。


『読んでみましょうか?』


唐突に、彼が言った。


取り敢えず私はその意見を受け入れ、彼が読み上げる手紙の一言一句に神経を集中させていった。


十五才の、佐脇孝介君へ。

突然ですが、君の青春と、人生を劇的に変えてみたいと思っています。

むろん、初恋もです。

嘘ではありません。

とにかく一度、連絡をください。

電話番号はこちらです。

090ーXXXXーXXXX


五十才の、佐脇孝介よりー。


『どうです、思い出せましたか?』


彼の問いかけには答えず、私はしばらく無言のままでいた。


確かに、その手紙の内容には覚えがある。


でも、いつ?


どこで?


まだ目覚めきっていない頭をフル回転させ、私は記憶をたどった。


『あっ!』


私は急にベッドから立ち上がると、部屋の隅に置いてあるゴミ箱の前に行き、それを手に掴むや中にあるもの全部をその場に放り出していた。


(無い・・・)


三日前にくしゃくしゃに丸めて捨てた、あの手紙が無い。


(どういう事なんだ?

 他に捨てる所なんか無いし、ゴミ箱にも触れていない・・・)


もはや、なにがなにやら訳が分からなくなっていた。


ただ一つ確実に分かっていることは、今その手紙はなぜかこの少年が持っているということだけだ。


『佐脇・・・君』


出来るだけ冷静さを装いながら、私は彼の名を呼んだ。


『すまないが、少し時間をくれないか?

三十分でいい。

一人で頭の中を整理したいんだ』


私がそう言うと、分かりましたと言って彼は電話を切った。


ふうー、と大きくため息が出た。


頭の中が、ひどく混乱している。


とにかく、熱いコーヒーを飲むことにした。


あとのことは、それから考えればいい。


そう思った私は下のキッチンへ行きヤカンに水を入れると、それを火のついたコンロの上にそっと静かに置いていったー。



二杯目のコーヒーを飲み終える頃にはようやく気分も落ち着き、頭の回転も幾分か正常さを取り戻していた。


部屋に戻り窓を開けると、まだ湿気を含んでいない初夏の風が心地よく吹いていた。


空は、爽やかに晴れている。


私は携帯電話を手に取り、再びベッドに腰を下ろすと壁にもたれて目を閉じた。


極めて限られた時間の中で様々な考えが頭の中を駆け巡った結果、取り敢えず私は一つの結論を出すに至った。


それは、今の状況を現実として捉えることだった。


非現実的なことに意味も無く 、なぜ? 、を追求したところで、結局のところ意識の混乱を増長させるだけだ。


部屋のゴミ箱の中にあるはずの手紙が突然消え、それを今は彼、つまり過去の自分であるというあの少年が持っている。


これは、明らかに事実なのだ。


だとすれば、それをそのまま受け入れた方が話は進めやすいし、その方が気持ちも楽になって都合がいい。


携帯電話が鳴った。


きっかり三十分、彼からだった。


『佐脇さん?』


『ああ。

待たせて悪かったね』


声は上ずっていないので一安心する。


『色々考え悩んだ結果、君の話を信じることにしたよ。

君が、過去の自分である事も含めてね』


電話の向こうから、 良かったという小さな声が聞こえきた。


『僕も手紙を読んだ時、最初は信じられなかったんです。

そんな事がある訳ないって。

電話番号だって、見た事も無いものだったし。

だから電話をかけるかどうか、すごく迷ってしまって・・・』


彼の話によると、あの手紙が届いたのは一昨日の事だそうだ。


だとすると、捨てらた手紙はすぐに姿を消し、明くる日には彼の家に届けられた事になる。


しかも、洒落た封筒に入れられていたというから、思わず笑ってしまう。


まったく何がどうなっているのか、世の中ご丁寧でおせっかいな奴がいるものだ。


彼も最初は手紙に書かれている事など、全く信じていなかったという。


きっと、誰かのいたずらだろうと。


まぁ、普通の人間なら誰でもそう考える。


しかし、どうしても手紙の内容が気になってしまい、迷った挙句に思い切って電話をかける事に決めたそうだった。


『もちろん、最初から電話が繋がるとは思っていませんでした。

だから佐脇さんが出た時は、心臓が飛び出るほどびっくりしたんですよ』


私にはとても冷静で落ち着いた感じに思えたが、彼はとんでもないと言って強く否定した。


『電話中ずっと緊張してて、手の平は汗でいっぱいでした。

でも佐脇さんの声を聞いた瞬間、なぜかあなたの事を他人とは思えなかったんです。

理由は上手く言えませんが、でもその時はっきりとそう思ったんです。

だから、手紙の事も素直に信じる事が出来たんです』


過去の自分に、思わず凄いなと感心してしまった。


物事に対する柔軟性、瞬発性、そして素直な考え方等々。


若いと言う事は、実に素晴らしい。


年を重ねていくごとに頭の働きは瞬発性を失い鈍くなっていき、何かを決断するにも必要以上に時間と労力がかかるようになっていく。


自分にもこんな時があったんだと思うと、なんだか信じられない気持ちになった。


ところで、彼から面白い話を聞いた。


今、彼は家の近くのバス停横にある、電話ボックスから話をしているという。


私も憶えがある非常にさびれた電話ボックスで、中で人が話をしている姿を少なくとも当時の私は見た事が無かった。


おまけにここからバスを利用する人もほとんどいないので、こっそり電話をするにはもってこいの場所だった。


彼もそれを知っていたので、ここから私に電話をかけようと受話器を取ったところ、突然おかしな声が聞こえてきたのだという。


それは録音された女性のアナウンスのようなもので、内容はこうだった。


料金は無料です。

ただし、ご利用時間は一日一時間とさせていただきますー。


と、いうものだった。


彼は不審に思い、持って来た小銭の中から十円玉10枚を電話機に入れ、私の携帯に電話をかけて来た。


いったん私が話を切った時、受話器を元に戻すと十円玉は全部戻ってきたという。


二度目も同じように女性の声が聞こえて来て、今度は残り時間を告げられたらしい。


『今、電話機にお金を入れずに話をしているんですよ。

凄いと思いませんか? 佐脇さん』


『ああ、確かに凄い事だ』


おそらく彼は自分の家から電話をかけていたとしても、同じように女性の声を聞いていただろう。


こうも立て続けに理解不能な出来事が起きると、もはや驚く気にもなれない。


ただ、私と彼との間で何かが起きている事だけは確かなようだ。


さて、彼の通話時間が残り少なくなってきた。


そこで私達は今後も電話でのやり取りを続ける事を前提に、いくつかのルールを取り決めた。


まずは、お互いを名前で呼び合う事。


次に、話はあらかじめ決めておいた時間帯でする事。


具体的に言えば、平日は午後八時から九時まで、休日は基本的に臨機応変に。


あと、無理をしてまで電話をかけない事。


そして、決めた事は必ず厳守する事。


『佐脇さん・・・じゃない、孝介さん。

最後に、一つ聞いていいですか?』


『うん、 何だい?』


『どうして、あんな手紙を書いたんですか?』


私は思わず、うっと言葉を詰まらせてしまった。


適当にごまかそうと思った瞬間、カシャンという音と共に電話は強制的に切られてしまった。


そう、タイムオーバーだったー。



その夜、ベッドに横たわり、孝介が最後に言った言葉を思い返していた。


『どうして、あんな手紙を書いたんですか?』


確かに、素朴に思う疑問だ。


もちろん、理由は・・・ある。


事の発端は、出来れば死ぬまで会いたくなかった女性を偶然見かけてしまった事だった。


瀬村 直。


私が十三才の時から、ずっと想いを持ち続けている女性だ。


手紙を書くきっかけを話す前に、彼女について少し語っておきたい。


瀬村 直と初めて出会ったのは、中学の入学式の時だった。


田名部第一小学校出身の私と、第二小学校出身の彼女はこの日から同じ中学に通う事になり、同じ教室のクラスメートとなった。


最初のひと月は新しい学校や授業の雰囲気に慣れるのに頭がいっぱいで、すぐ近くにいる彼女の魅力に何一つ気づく事がなかった。


それから何度か話を交わしていくうちに、私は次第に彼女の事が気になりはじめていった。


そう、これが私の初恋の始まりだったのだ。


整った目鼻立ちの美人顔に、おっとりとした口調。


肩まで伸びた髪をいつもポニーテールのようにしていた彼女は、今の若者の言葉を借りると、私にとってまさにどストライクのタイプと言えた。


私は、すっかり彼女に魅了されてしまった。


その後、私達は偶然同じ卓球部に入部する事になったのだが、教室以外でも彼女と同じ空間を共有出来る事に、当時の私はすっかり舞い上がっていたのだった。


授業中のきりっとした表情、部活で髪をなびかせながら楽しくラケットを振る姿・・・


そんな彼女を見るたびに日々想いが募っていったのだが、結局は何も無いまま三年間の中学校生活はあっという間に終わりを告げてしまったのだ。


告白するチャンスは、何度かあった。


けれどもそれを活かす事が出来ず、きちんと想いを伝えられないまま彼女はこの町一番の進学校に、私はこの町一番の最低校にそれぞれ進学して行く事になった。


彼女との接点は完全に途切れたわけだが、それでも私の想いは決して変わる事は無かった。


中学を卒業してから、一度だけ瀬村 直を見た事がある。


それは、高校一年の秋のこと。


彼女の通う高校の、学園祭の日だった。


一人でこっそりと瀬村 直の様子を伺いに行った私は、校内の一角の出店で同級生達と一緒にフランクフルトを焼いている彼女の姿を見つけた。


思わず、胸の鼓動が高鳴った。


私は緊張感を抑えつつ、その出店に近付こうとした。


ところが・・・


同級生達とお揃いのエプロンを身につけ、とびっきりの笑顔で学祭を楽しんでいる彼女を見た時、私はどうしようもない敗北感のようなものを感じてしまったのだ。


上手く言えないがそれはとても惨めな気持ちで、彼女はもう手の届かない世界に行ってしまい自分だけがポツリと取り残されたような、そんな感じだと言えば分かってもらえるだろうか。


私は思わず逃げるようにして、その場から走り去っていた。


そして、強くこう思っていた。


こんな気持ちになるのは、二度とご免だ・・・と。


そんな思いの中、この日を最後に私は彼女への想いを固く閉ざしてしまっていく。


心のどこかに、初恋への未練を残したまま・・・



さて、三日前の話だ。


その日の夕方、定時に仕事を終えた私は、町の郊外にある大手スーパーで買い物をするべく愛車の原付きバイクを走らせた。


いつもなら家の近くの地元スーパーで買い物は済ませるのだが、今朝の朝刊に挟まれていたこのスーパーのチラシにビールの安売り情報が載っていたのだ。


さすがに大手らしく他店には真似出来ない値段設定で、移動中商品が売り切れていない事を祈りつつ、私はいつもより少し愛車のスピードを上げていた。


スーパーの駐輪場にバイクを止め、足早に食品売り場へと向かった私は欲しかった銘柄のビールがまだ残っていた事にほっと胸を撫で下ろし、早々に二箱をカートに乗せた。


ついでにビールのつまみでもと思い、惣菜コーナーで適当に品定めをしていると、近くの飲料水コーナーで商品を手に取って見ている一人の女性が目に入ってきた。


(えっ?)


直感的に、嫌な予感がした。


恐る恐るその女性に気付かれないように近づき、そっと横顔を見た瞬間、私は思わず声を失いその場に立ちすくんでしまった。


そう、その女性は初恋の人、瀬村直だったのである。


信じられなかった。


夢ではないのかと思った。


十六歳の時以来、実に三十四年ぶりの再会だった。


私は顔を伏せ、すぐにその場から離れると、違う商品のコーナーからチラチラと横目を使って彼女の姿を観察し始めた。


久しぶりに見る彼女の顔付きは年齢を重ねた分いくらか丸みを帯びていたものの、相変わらずの美形で、髪形はロングからショートヘアに変わっていた。


髪の先端を少しだけ内向きに巻いているそのヘアスタイルは、年相応に今の彼女にとてもよく似合っていた。


周りに怪しまれないように用心しながら彼女に見入っていると、一人の男性が彼女の側に近寄って来た。


年は私と同じくらい、中肉中背で眼鏡をかけ髪を少し七三分けにしているその男性からは、私には無い品の良さのようなものが感じられた。


多分、赤だろうか・・・


手に持っていたワインをカゴの中に入れながら、隣りの彼女に優しく語りかけるその男性の様子を見て、私は瞬時に悟った。


彼女の、ご主人だろう・・・と。


彼の話に笑みを浮かべながら応えている彼女の幸せそうな顔を見た時、私はそこから逃げるように立ち去り、急かすようにレジを済ませ店内を出た。


ビール二箱を抱え急ぎ駐輪場まで戻ると、それを単車の足もとに雑に置いてすぐにエンジンをスタートさせた。


もはや、何を考えていたのか覚えちゃいない。


とにかく、一刻も早く家に帰りたかった。


ただ、それだけだった。


帰宅するなり私は浴室に向い、熱いシャワーをいつもより長い時間浴びた。


少し気持ちが落ち着くと、単車の足もとにビールを置いたままにしている事を思い出した。


外へ出ると辺りはすでに薄暗く、西の空に目をやると辛うじて赤みが残っていた。


ほてった身体に、夜風が気持ち良かった。


家の中に戻ると私はビール箱をキッチンのテーブルに置き、冷蔵庫から冷えたビールを一本取り出し、それを一気に飲み干した。


それからの私は、もう止まらなかった。


この日のビールを飲むペースは、おそらくこれまでにないくらいの速さだっただろう。


テーブルの上は、あっという間に空缶でいっぱいになっていった。


時々両手で頭を抱えながらため息をつき、そしてまたビールを飲んだ。


やってはいけない飲み方の、典型的な例だ。


だけど、そんな事はどうでもよかった。


今日だけは、ただひたすら飲みたかった。


瀬村 直の幸せそうな顔を思い浮かべるたびに、今の自分がどうしようもないほど無様な人間に思えてしまい、得体の知れない何ものかによって引き起こされる感情の混乱はもはや底無しの状態だった。


(あの時と同じだ・・・)


十六歳の秋、彼女が通う高校の学園祭で感じた、あの思い。


敗北感、さみしさ、情けなさ。


そして、今の自分に対する怒り、後悔、絶望感ー。


二度と味わいたくなかったはずなのに、今、あの時以上の苦しみに苛まれている。


どのくらい飲んだのか、もはや本数など数えていなかった。


さんざん飲み尽くした後、ふらふらの状態で二階の部屋へ行った私は、そのまま勢いよくベットの上に倒れ込んでしまった。


ベットに寝ているのに、自分の体が浮いている感覚に襲われ、天井がぐるぐると回っていた。


酔った頭の中を、幾つかの言葉が生き物のように行ったり来たりしていた。


青春・・・人生・・・やり直し・・・


何度同じ言葉が、ボケた頭を過ぎっただろうか。


不意にベットから起き上がった私は、ふらつきながら近くの机に移動すると、抽出しの中から色のあせた古いレポート用紙一枚と長さが半分のえんぴつをそれぞれ取り出していった。


そして、書いたのだ。


十五歳の自分に向けて、あの手紙を。


ただの・・・そう、ただの悪ふざけに過ぎなかった。


他意も何もない。


おそらく酔って普通の状態ではなかったので、あんな手紙が書けたのだろう。


今にして思えば、何でもよかったのだと思う。


手紙でも他のものでも、ボロボロになった自分の感情の吐け口でさえあれば・・・


それから私は浴室へ行き、再度シャワーを浴びた。


一度目よりも、さらに長い時間をかけて。


部屋へ戻った後、私は真っ先に机の上の手紙を両手で丸めてゴミ箱に捨てた。


我ながら子供じみたものを書いてしまったと、少しまともになった頭でそう思いながら。


こんなものを書いて人生が変わるのなら、誰も苦労なんかしない。


瀬村 直は、自分の知らないところで幸せに暮らしている。


あの男性と共に、これからもずっと・・・


そして私はこれまで同様、この先死ぬまでポンコツな人生を送るのだ。


これが現実だ。


変えようのない、シビアな現実なのだ。


私は言いようのない脱力感に襲われながら、布団の中に潜り込んだ。


すぐに、眠気がやって来た。


瞼が完全に閉じる前に、改めて思った。


もう、こんな思いをするのは二度とご免だ、とー。


これが、三日前の出来事だ。


この後の事は、今さら話す事はないだろう。


こうして私は、過去の自分と繋がる事になったのだが・・・


(んっ?

 ちょっと、待てよ・・・)


まさに突然、ある考えが私の頭をかすめたのだ。


それは、こういうものだった。


過去と繋がっている今ならば、過去を修正出来るのではないか?


もしかすると、過去の自分を変えれば、瀬村 直との初恋も叶うかも知れない。


もしかすると過去の自分を変えれば、人生そのものを変えられるかも知れない、と。


突如として現れた、この非現実的願望。


それは私の中で急速に肥大化し、あっという間に意識の中心に成長してしまった。


(そうだ、これは全てをやり直せるチャンスなのだ!

 やってみよう!

 きっと、上手くいくはずだ!!)


もはや巨大な妄想と化した自らの感情に駆り立てられるように、私は十五歳の自分を巻き込みながら、この無謀な作戦に挑戦して行く事になる・・・



明くる日の夜ー。


帰宅して簡単に食事を済ませた私はいつもより早くシャワーを浴びると、両手なべに水と氷と何本かのビールを入れ、それを持って部屋へと上がった。


窓の外から風と共に、潮の香りを微かに感じた。


海が近いので、風向きによってはもっと強く感じる日もある。


星は見られなかった。


私はベットに腰をかけ、携帯電話を傍らに置くと、まずはとばかりに1本目の缶ビールを開けた。


午後八時まで、あと五分。


孝介から電話がかかってくるはずだ。


少し緊張はしているものの、気持ちの整理はついている。


自分なりに作戦も考えた。


あとは、彼をやる気にさせるだけだ。


いくら私が音頭をとっても、実際に行動するのは彼なのだ。


瀬村 直に全ての神経を集中させ、彼女の心を射止めるために全力を挙げさせねばならない。


携帯の着信音が鳴った。


『孝介さん、僕です』


『ああ』


お互い短い言葉を交わした後、すぐに彼から例の手紙について質問があった。


昨夜の会話が尻切れとんぼになっていたので仕方ない。


どうして、あんな手紙を書いたのか?


再度聞かれた私は、酔った勢いで書いたものだから特に意味はないとだけ伝え、それ以外は一切話さなかった。


(これでいいだろう。

 そんな事は、適当にごまかしておけばいい)


さて、次に彼が質問してきたのが、携帯電話の番号についてだった。


昨夜彼が言っていた通り、最初に見た時は本当にこれが電話番号なのかと疑ったそうだが、なるほどそれは無理もない事だ。


私は携帯電話の説明をして、今ではほとんどの人がそれを使っている事を話した。


彼は何度もすごいと言って、携帯電話に興味をよせていた。


ただし、スマートフォンだのインターネットだの、さらに詳しい事は伏せておく事にした。


説明しても、余計にややこしくなるだけだからだ。


それから彼は少し間を置き、最大の関心事である未来ついて聞いてきた。


いよいよ来たかと、内心思った。


進学、恋愛、仕事、結婚・・・


少々興奮気味の彼から、矢継ぎ早に質問が飛び出してきた。


未来の自分と繋がっているのだ、知りたい気持ちはよく分かる。


しかし、それらの質問は全て想定内の事。


私には、最初から彼の要望に応えるつもりなどまったくなかった。


そう、真実を話す気など、微塵もないと言う事だ。


当たり前じゃないか。


過去の自分に、君はロクでもない大人になり、ポンコツな人生を送るのだ、なんてことを誰が言えるものか。


たとえそれが、事実であったとしてもだ。


おっと、いけない。


すっかり、彼のペースで話が進んでいる。


強引だが、ここら辺りで流れを変えよう。


『孝介、どこから電話をかけているんだ?』


『昨日と同じ、電話ボックスからです』


『そこで、電話をかけている人を見た事があるか?』


『いえ、一度もないです』


『だろうな。

見かけたら、ぜひ教えてくれ』


どうでもいい話だ。


とにかく、本題に移ろう。


『孝介、大事な話があるから聞いてほしいんだ』


『はい?』


手に持っていた缶ビールを、イッキに飲み干した。


『孝介、君には好きな女の子がいるはずだ。

ずばり瀬村 直、そうだろ?』


えっ、と言って彼は言葉を詰まらせた。


『どうして、彼女の事を?』


『簡単な話だ。

君は、俺だからだ』


『あっ、そっか。

 それは、そうですね』


思わず二人で苦笑いする。


『だけど君はこの二年間ずっと彼女を好きでいるのに、未だに告白出来ずにいる。

このままでは、あっという間に卒業だ。

今ここで気持ちを伝えないと、一生後悔する事になるぞ。

そこで、俺が恋のアドバイザーになって、君をサポートしてやる。

二人で、瀬村 直の心を射止めようじゃないか』


えー、という声が受話器を伝って私の耳に響いた。


それは純粋な驚きというよりは、明らかに迷惑感丸出しのものだった。


『いいですよ、そんなの〜』


『何がいいんだ、孝介。

一人じゃ、絶対告白しないだろうが。

それが分かってるから、俺が協力するって言ってるんじゃないか。

悪いようにはしない。

俺の事を信用してみないか?』


『でも、どうせ僕なんか相手にされませんよ、きっと』


彼の声が、一気にトーンダウンしたのが分かる。


当時の私は、いつもこうだった。


自信のない事には、必ずこの言葉を使って逃げて来た。


どうせ、僕なんか・・・


この言葉ほど自分を卑屈にし、他人を不快にさせるものもない。


まあ、彼もいずれはそれに気付く時がやって来るのだが・・・


それはさて置きー。


私はやれやれと思いながらも、どうにか彼の尻を叩き続けた。


『どうせなんて言葉を使うんじゃない。

もっと自分に自信を持つんだ、孝介』


『そう言われても、どんな自信を持てばいいんですか?

勉強もスポーツも、中途半端に平均値をうろついている僕ですよ。

他に、なにか特技があるわけでもないし・・・

それに、三年から彼女とは別々のクラスになって、部活以外に接点がないんです。

その部活も、あと少しで終わってしまうし・・・』


『なるほど、君の言い分もよく分かる。

なにせ、俺は経験者だからね。

だから、支障のない程度に教えていくよ。

このあとの君と、瀬村 直との関わりを』


『本当ですか?』


彼の声に、ハリが出てきたのが分かった。


『いいか、孝介。

これから秋までに、何度かのチャンスが訪れる。

俺がその都度君にアドバイスをするから、それに沿って行動してほしいんだ。

少ないチャンスをものにしていくためにね』


『上手くいくでしょうか?』


『それは、君しだいだ。

瀬村 直への想いが本物かどうか、全てはそれにかかってると思う。

好きなんだろ?

瀬村の事が』


『・・・好き、です』


『よし、その気持ちがあれば充分だ。

あとは、行動あるのみ。

 いいな、孝介』


『・・・はい、やってみます』


どこか頼りないが、取り敢えず彼も腹をくくったようだ。


さてさて、兎にも角にもこれで準備は整った。


この瞬間、十五歳の自分と五十歳の自分が、初恋の人の心を掴むためにペアを組んだのだ。


さあ、作戦を実行していこう。


最初のチャンスは、十日後に迫った市内卓球大会だ。


この中学最後の公式大会で、どれだけ成果を上げられるか?


全ては、彼の肩にかかっているー。



ある時期をもって、私は奇跡というものをまったく信じなくなった。


ついでに言うと、神仏なるものも、きれいさっぱりと捨てた。


理由はいずれ話す時が来るので省かせてもらうが、要はそんなものを信じたって何の意味もない事に気づいてしまったという事だ。


それは、今でも変わらない。


ただ、それ以前にたった一度だけ、奇跡と思われる出来事があった。


それが、市内全中学校卓球大会。


そう、今日彼が出場した、中学最後の公式大会における男子シングル戦がそれだ。


それまでの二年間大した戦績など一つも残していなかった私が、なぜかこの日は初戦突破を皮きりに、あれよあれよという間に決勝戦まで勝ち進んでいったのだ。


まさに、奇跡!!


仲間達が啞然とするのも当然だった。


結果はフルセットの末に負けはしたが、全力を出し切った満足感と、味わった事のない充実感を私はこの時全身で感じたのであった。


冴えなかった中学校生活で、唯一残るいい思い出だ。


まっ、卓球の話はこれぐらいにして、肝心の話をしよう。


それは、決勝戦前の休憩時間だったと思う。


外の空気を吸うため体育館の表に出た私は、なぜかそこに瀬村 直がいる事に気が付いた。


しかも、周りには誰もいない一人きりでだ。


理由は、分からない。


しかし、間違いなく彼女は私の目の前に立っていた。


この瞬間、本能的に思った。


これは、滅多にないチャンスだ。


もしかすると、自分の想いを伝えられるかもしれない!


そう思った私は、意を決して彼女に近づいて行った。


5メートル、3メートル、1メートル・・・


『おーい、佐脇』


その瞬間、顧問の先生が大声で私の名前を呼んだ。


『決勝戦の準備が出来たらしい。

いますぐ、会場に戻れ』


やれやれ、何と言う間の悪さだ。


結局急いで会場内に戻る事になり、大きなチャンスを逃してしまう事となった。


幾つかある、後悔のひとつである。


そこで事の次第をひと通り孝介に話した後で、私は念を押すように彼に言った。


『いいな、孝介。

外に出たら、真っ先に彼女の所に行って話しかけるんだぞ。

そして、こう言うんだ。

君のために頑張る、絶対優勝して見せる、ってね』


『無理ですよ、そんなの。

ただでさえ口下手な僕が、そんな器用なセリフを言える訳ないじゃないですか。

それに、やっぱり決勝戦は負けてしまうんでしょう?

だったら、やっぱり意味が無いですよ』


『バカだな、君は。

女心が、まるで分かっていない。

いいか、こういう場合は試合の結果なんかどっちでもいいんだ。

要は自分のために頑張ってくれた事自体が、女の子にとっては嬉しい事なんだよ。

実際に君は、決勝戦で素晴らしい試合をする事になる。

だから、その前に俺が教えたセリフを言っておけば効果はテキメンという訳だ。

彼女は頭のいい子だから、きっと君の想いを察してくれると思う』


それでも彼の反応はイマイチだったので、ダメ押しでこの言葉を口にする。


『俺の意見に沿って、行動するって約束しただろ?』


彼の口調が、瞬時に変わったのが分かる。


まさに脅迫だな、これは。


それにしても、女心だなんてよく言えたもんだ。


それが分からないから、今だに独り身なのに・・・


まあいい。


取り敢えず結果やいかに、だ。


そう思い、いつものようにビールを飲みながら彼からの電話を待っていた。


の、だが・・・


『上手くいかなかったって、どう言う事だ?』


予想外の彼の言葉に、思わず缶ビールを落としそうになった。


『ちょっと、タイミングを逃してしまって・・・』


『それで、何も言えなかったと言うのか?』


『ええ、まあ・・・』


ハア〜、まったく・・・


せっかく事の成り行きを教えておいたのに、これでは意味がない。


想いを伝える事が出来なければ、何にもならないじゃないか。


それになんだろう、彼が妙にサバサバしているのも気に入らない。


よし、ここはひとつ喝を入れておこう。


何事も、最初が大切だ。


そう思い、話を切り出そうとした瞬間・・・


『違ってましたよ、孝介さん』


そう言われて、私は出鼻をくじかれてしまった。


『 違うって、何がだ?』


『ですから、孝介さんの話と違うところがあったんです。

実は、瀬村の方から僕に話しかけて来たんですよ』


『 えっ!

 それは、どう言う事だ?』


『体育館の外に出ると、確かに瀬村は一人でいました。

それで孝介さんに言われた通り、すぐに彼女の所に行こうとしたんです。

そしたら、何と向こうが先にこっちに近づいて来たんですよ。

もう、頭が真っ白になってしまって。

そこでドギマギしてたら、彼女の方から僕に声をかけてくれたんです。

決勝戦ってすごいね、佐脇君。

絶対優勝してね、って。

どうです、驚きでしょ?

だから僕の方から話しかけるタイミングを、完全に無くしてしまったんです。

でも、メチャクチャ嬉しかったですね。

その後の決勝戦も、彼女が応援してくれているって思うと俄然力が入って。

負けはしたけど、少しはいい所を見せれたんじゃないかなぁ。

あれっ、もしもし孝介さん、聞いてます?』


『ああ、聞いてる・・・』


と、思う・・・


(これはいったい、どう言う事だ?

 彼女の方から、近づいて来た?

 彼女の方から、声をかけて来た?

 そんなバカな・・・)


経験した事とまるで違うことに、私は大いなる戸惑いを隠せずにいた。


三十五年も経っているので、もしかして記憶違いでもおこしたのだろうか?


それとも、ネガティヴな感情が記憶をもねじ曲げてしまったのだろうか?


いいや、違う!


それは、絶対にあり得ない。


もし孝介の言った通りだとしたら、そんな大切な事を私が忘れるはずがない。


だけど、彼が嘘をついているとも思えない。


うーん、どう理解したらいいのか・・・


とにかく、だ。


こう言う時は、目の前の事に神経を集中させるのが一番だ。


瀬村 直の行動はさておき、結局孝介が彼女に想いを告げられなかった事は事実だからだ。


よって今回の作戦は、失敗という事になる。


『今日の事は、もういい。

次はちゃんと告白出来るように、また頑張ればいいさ』


『はい。

 次は、もっと頑張ります!』


どこか浮かれた様子の彼は、そう言って電話を切った。


さて、と。


次なる作戦は、と・・・


いや、今夜はもういいだろう。


明日考えて、仕切り直せばいい。


ぬるくなった残りのビールを一気に飲み干し、少し早いが私は眠る事にしたー。



さあ、気分を変えて取り掛かろう。


次なる作戦は、地元恒例の夏祭りだ。


私がかつて住んでいた町では毎年七月の半ばに、中学校のすぐ近くにある八幡神社で祭りが行われていた。


規模は小さいものの夜店も出て、毎回多くの参拝客で賑わう夏のイベントの一つになっていた。


ただ、この日の私は祭りには参加せず、一人で神社の裏山にある城山公園へと向かった。


ここは名前の通り、その昔中世の山城があった場所で、頂上の本丸跡が小さな公園になっている。


公園と言っても遊具などは無く、古びた木製のベンチがひとつあるだけの殺風景な場所だったが、ここからは海や町を一望する事が出来たので、私にとってお気に入りの場所の一つになっていた。


ちなみに山と言っても少し高い丘のような場所で、本殿の脇から石段が設けられていたので楽に頂上まで上る事が出来た。


私は駆け足で頂上まで上り、夕刻の海を眺めるため公園の先端に立っていた。


うっすらと汗ばんだ額に、涼しい夏の風が気持ちよかった。


陽がゆっくりと沈む中、海の色がオレンジ色から赤色へと変わっていくのがはっきりと見える。


ふと参拝道に目を向けると、掲げられた提灯にはすでに灯りがともされていた。


その灯りが境内に向かう人々を優しく照らし、夜店には子供達が大勢集まって来ていた。


いよいよ、祭りが本番をむかえていたのだった。


と、その時だ。


『佐脇君?』


その声に、私は思わず振り返った。


『えっ!』


相手の顔を見た瞬間、私は言葉を失った。


そう、公園の入り口に立っていたのは瀬村 直だったのだ。


『偶然ね。

まさか、あなたがいるとは思わなかった』


そう言って、彼女は私のすぐ隣まで歩み寄って来た。


そして両手を広げ、大きく深呼吸をすると、真っ直ぐ海の方に視線を向けていた。


隣にいた私がこの時どんな様子だったかは、想像するに難しくないだろう。


それから私達は近い訳でも離れている訳でもない微妙な距離間を保ちつつ、お互い黙ったまま暮れゆく海を眺めていた。


どれくらいそうしてたのかは、まるで覚えていない。


ただ、とんでもなく長い時間に感じられたのは確かだ。


チラリと、横目で彼女を見た。


白いTシャツに、ブルージーンズ。


制服姿ではないラフないでたちの彼女も、とても魅力的だった。


風が吹くたび、束ねていない黒くて長い髪がそよいでいた。


まさに、絶好のチャンスだった。


私は即座に腹をくくり、告白するタイミングを見計らっていた。


どうせ、カッコよくなんか出来っこない。


だったら、ストレートに好きだと言った方が男らしくていいだろう。


既に、夕刻から夜に変わっていた。


公園内の外灯が点灯し、辺りを照らしている。


『あの、瀬村・・・』


思い切って、彼女に声をかけてみた。


『なに?』


『実はさ、一年の時からずっと・・・』


そこまで言った時だった。


『なおー』


突然、彼女を呼ぶ声に、全てをぶち壊されてしまったのだ。


びっくりして振り向くと、公園の入り口に二人の女の子が立っていた。


見ると、クラスの中で一番仲の良い彼女の友人達だった。


『それじゃあね、佐脇君』


彼女はそう言って小走りで二人の所まで行くと、三人で何やら楽し気に話をしながら、そのまま足早に石段を下りて行ってしまった。


私はそのまま公園に止まり、拍子抜けしたような状態で、しばらくの間ベンチに座り込んでしまった。


そして、二度目の告白失敗に落胆のため息をついていた。


『それで?』


『それでって?』


『だから、その後どうしたんですか?』


『どうもしない。

祭りの話は、これで終わりだ』


電話の向こうから、ハァ〜と言うため息が聞こえてきた。


『またですかぁ、孝介さん。

どうしても、こんなチャンスを逃したりしたんですか?』


孝介の一言が胸に刺さった。


まったくをもって、返す言葉がない。


しかし、だ。


それでひるむ訳にもいかなかった。


『まぁ、君がそう言うのも無理はない。

でも、何事にもタイミングと言うものがある。

それが、この時も噛み合わなかっただけだ』


どこかで聞いた言葉を、私はつい呟いていた。


『それに過去で失敗したからこそ、今の君にアドバイスが出来るんじゃないか』


アルコールのせいか、言い方が少々やけ気味になっている。


『とにかく、今回はストレート勝負だ。

いいな、孝介。

確実に二人っきりになれるんだから、迷わず告白するんだぞ』


『またぁ、そんな簡単に言って・・・』


すぐに消極的になる、彼の尻を叩くのも大変だ。


例によって、あの脅し文句を使い納得させる。


少々気の引ける思いはあったが、相手が自分なら遠慮はいらないだろう。


さてとー。


そう言う事で、今回こそはいい報告を聞けるだろうと思いきや・・・


『いや〜、すごく楽しかったですよ。

彼女とあんなに長く話が出来るとは、正直思わなかったです。

二人とも海を見るのが好きだったので、けっこう話が盛り上がっちゃって。

それと、お互いの家がどの辺りか教え合いもしたんですよ。

告白ですか?

すいません、話に夢中ですっかり忘れてました。

でも、充実した時間を過ごせたんで、それだけで大満足です』


(あ〜、まただ。

 前回に引き続き、違う結果になるなんてどう言う事なんだろう?

 自分の記憶力が、本当におかしくなったんだろうか?)


彼の話だと最初は一緒に海を眺め、その後二人でベンチに座って一時間程話をしたと言う。


彼女は終始笑顔を絶やさず、とても楽し気な様子だったらしい。


それから友人達が来て、彼女が合流して行った事は私が話した通りだ。


しかし・・・


『あっ、それと孝介さん。

彼女は浴衣姿で来ていましたよ。

水色に、朝顔の柄があるものでとても似合ってました。

それを見る事も出来て、さらにラッキーでしたね』


なるほど、彼が舞い上がる気持ちも理解は出来る。


ここまで上手くいくと、もはや告白自体が意味の無いものになってもしょうがない。


だが、たとえ今の孝介には喜ばしい出来事であったとしても、私にとって不可解な事に評価を与える訳にはいかないのだ。


それに繰り返しになるが、瀬村 直にきちんと告白をし、彼女の心を掴む事が最大の目的なのだ。


だから厳しいようだが、今回の作戦も失敗に終わったと言う事になる。


上手くいっているようで、何も変わっていない。


上手くいっているようで、ひとつも前に進んでいない。


これは、中々手強い。


まあ、最初からある程度の覚悟はしていたので、気長に攻めるしかないのだが。


と言っても、季節は自分が思う以上に早く進んで行く。


手持ちの駒も限られてる。


(しかし、秋までには・・・)


そう、本格的に秋が訪れるまでに、どうにかして成果を出さなくてはいけない。


私は、少し焦りを感じ始めていたー。



思えばあの日から、ほぼ毎日のように孝介と電話で話をしている。


天気が悪かろうが、試験中であろうが、それに長い休みの時であろうが、支障が無い限り、彼は私の携帯電話を鳴らし続けた。


かけてくる場所は決まって、例の電話ボックスからだ。


家からだと、さすがに長電話は難しいと言うのがその理由だった。


それでも一度、彼に聞いた事がある。


『孝介、毎回外からだと家族に怪しまれないか?』


彼は笑いながら、こう言った。


『大丈夫ですよ。

夜の散歩だと言えば、誰も疑いませんから』


そう言えば、あの頃夜になると気晴らしによく近場を散歩したものだ。


『ところで、孝介。

電話ボックスで話してる人を見たか?』


『いいえ、ありません』


このやり取りも、すっかりお馴染みのものになっている。


会話の中で彼は、隙があればこれから起きる出来事を私から聞き出そうとした。


これも毎度の事なので、その都度上手くごまかしていた。


『いいじゃないですか、少しぐらい』


時に食い下がって来るときもあったが、私は一切相手にしなかった。


そんな事よりも、瀬村 直の事が先決だったからだ。


彼女の関心を得るために、あれやこれやとアイデアを出しては彼に実行させて来たのだが、あと一歩のところで今だに告白が出来ないままでいた。


彼なりに努力をしていいところまで行くのだが、中々上手くいかない。


廊下で彼女を見かけたらその前でわざとコケてみろだの、気を引くためにモノマネのひとつでもやってみろだの、私の暴走とも言える無茶な要求に彼は素直に従ってくれたのだが、まぁよく考えりゃ、こんな事で上手くいくならとっくの昔に、私は彼女の心を掴んでいたに違いない。


過去を変えるのは、やはり難しい。


気長にと言っても、現実は厳しいものだ。


そんな事を考えていると、少し気弱になってしまう。


だからだろうか、今日はいつもの積極性が一向に出てこない。


『孝介、 親父やお袋はどうしてる?』


そこで、つい出た言葉がこれだった。


『えーと。

 父さんは風呂に入ってて、母さんは洗い物をしてましたよ』


『・・・兄貴は?』


『はい?』


『兄貴は、今何やってる?』


『兄さんですか?

兄さんなら、いつものように部屋でレコードを聴いてましたけど』


『・・・そうか』


『どうしたんですか?

今日の孝介さん、なんか変ですよ』


そんな事はないと言って笑ってごまかしはしたが、やはり今日の私はいつもと違う。


『そうだ。

これなら、聞いても大丈夫ですよね』


『何だい?』


『父さん達は、元気ですか?』


思わず、声が詰まってしまった。


『・・・ああ、元気だ』


『よかった。

ところで、兄さんとは大人になっても仲がいいままですか?』


『 ・・・』


『孝介さん?』


『すまない。

ビールが喉に引っかかった』


『どうですか?

僕と兄さんは、変わってませんよね』


『・・・もちろん、何も変わっちゃいない。

兄貴とは、今でもいい関係でいる。

孝介は、兄貴の事が好きなんだな』


『ええ、大好きです。

孝介さんもでしょ?』


『・・・ああ、俺も兄貴が大好きだ』


『優しくて、子供の頃はいつも一緒に遊んでくれて。

 不器用な僕のために、よくプラモデルを作ってくれました。

兄さんは手先が凄く器用で、どんな物でも簡単に組み立てるんですよ。

それがとてもカッコよくて、いつも凄いなーって思いながら見てましたね。

まぁこれって僕が言わなくても、孝介さんが一番よく知ってる事でしょうけど』


一呼吸置いて、彼はさらに続けた。


『兄さんは僕と違って頭も良いから、両親も凄く期待してるんです。

祐介が工場を継いでくれたらウチは安泰だって、父さんが口癖のように言ってるし。

兄さんもそのつもりでいるし、僕もそう思ってます。

ただ・・・』


『ただ、少し寂しいんだろ?』


『・・・ええ。

今日、めずらしく英語の小テストで満点を取ったんですよ。

その事を夕飯の時に報告しようと思ってたら、父さんが上機嫌でまた兄さんの話を始めちゃって。

それを聞いてたら、何となく言いそびれてしまったんです。

兄さんと比べると、両親の僕への関心が小さい事はしょうがないって思ってるんですけど・・・

でも、時々それを寂しく感じる事があります。

あっ、誤解しないでくださいね。

それで、兄さんや父さん達を変に思ってなんかいませんから』


一瞬、胸が痛んだ。


私にも、覚えがある事だ。


何をやっても兄にはかなわない自分に、諦めと苛立ちを持っていたあの頃を思い出す。


正直に言えば心のどこかで、兄に対し常に嫉妬心を抱いていたのかもしれない。


(どうして、兄さんばかりが・・・)


全てが中途半端で平均以下の自分を、どれだけ憎んだ事だろうか。


それでも彼同様に、これだけは絶対に言える。


私は今でも、兄が大好きだ。


この気持ちに、嘘偽りは無い。


『孝介、あまり気にするな。

親父とお袋は、何も君の事を嫌っている訳じゃない。

それは、分かってるはずだ。

ただ、兄貴は長男で跡取りだから、どうしても過度に期待をしてしまうんだ。

これは、ひいきでも何でもない。

親父もお袋も、それに・・・兄貴も、君の事が大好きなんだから』


そうですね、と答える彼の明るい声を聞いてほっとするのと同時に、申し訳なさを感じた。


結果的に、私が兄の話をさせたようなものだからだ。


『孝介さん、次の作戦はどんな内容ですか?』


いつになく積極的な彼に対し、私は最後まで消極的だった。


『いや、今日はこれぐらいにしておこう。

次の作戦に関しては、明日改めて話す事にするよ』


結局、私は瀬村 直の事は一切口に出さず、半ば強引に彼との話を打ち切った。


そして、最後に彼にこう言った。


『孝介、家に戻ったら兄貴と話をするといい。

勉強の事でも、スポーツの事でも、音楽の事でも、話題は何でもいいと思う。

自分から、兄貴の部屋に行って声をかけてみろ。

きっと、喜んでくれるはずだ』


そうします、彼はそう言って電話を切った。


時間切れにはまだ少し余裕があったが、今日の話はこれで終わりだ。


手に持つ二本目のビールも半分以上残したままだったが、最後まで飲む気にはなれなかった。


壁に背を預け、目を閉じた。


気持ちが重く感じる理由は分かっている。


嘘をついたからだ。


その罪悪感に苛まれているのだ。


ついた嘘は、いずれ明かさなくてはならない。


その事を考えると、さらに気持ちが重くなる。


窓は全開にしているのに、ほとんど風が入ってこない。


夜になっても、あまり涼しさを感じられないのは残暑が厳しいせいだろうか。


少しむし暑さを感じながら、いつものように窓から夜空を見上げた。


星は・・・今日も見えなかったー。



やはりと言うか・・・


今回も、結果は同じだった。


三度目の正直を、少なからず期待をしていたのだが・・・


それは、体育祭における作戦だった。


私達三年生は催しで、ダンスを踊る事になっていた。


それも、松田聖子の白いパラソルの歌でだ。


はっきり言って、鬱陶しい以外の何物でもない。


それでも瀬村 直と一緒に踊れる機会がある事と、その時に堂々と彼女の手に触れられるという事が、私にとって唯一の救いではあったのだが。


ただ、この時は普通に踊っただけで、特に何かがあった訳じゃない。


だから、この一瞬のチャンスに賭けようと考えた。


作戦遂行の段取りは、こうだ。


まず、あらかじめ紙に好きですと書いておく。


それを小さく折り畳んで、ズボンのポケットに入れておく。


次に、彼女と踊る直前に、紙を取り出し右手に隠し持っておく。


そしてお互い手を繋いだ瞬間、誰にも気付かれる事なく彼女にその紙を握らせるのだ。


『忍者か、スパイみたいですね』


そう言って孝介は笑っていたが、どうやらやる気は満々のようだった。


さて、当日だ。


彼の話によると緊張の中ダンスが始まり、まさにその瞬間を迎えようとした時、突然強い突風がグランドに吹き荒れ、生徒達の動きを一時止めてしまったというのだ。


この時、彼は手に持っていた紙を風に飛ばされてしまうという、まさに致命的なミスを犯してしまう。


これが無ければ話にならないのに、すぐにダンスは再開された。


ところが、ここでも思いがけない事が起きる。


『ねぇ、佐脇君。

松田聖子って好き?』


そう言って、彼女が小声で話かけてきたのだという。


彼は周りに目をやりながら、こう答えた。


『・・・うん、嫌いじゃないよ』


『ほんと?

よかった。

私ね、彼女の大ファンなの』


それは一分にも満たない短い時間だったが、二人は楽しく踊ってお互い次の相手へと移って行ったらしい。


その夜、彼は喜び勇んで私に報告してきた。


おいおい、またしてもいつもの展開じゃないか!


私の作戦は上手くいかない、告白も出来ない、だけど彼は喜んでいる。


まったく、何でいつもこうなんだ?


これではだめだ。


目的はあくまで、瀬村 直の気持ちを掴む事なのだと再三言っているのに・・・


私は焦っていた。


このままでは初恋は成就せず、事の全てが失敗に終わるかもしれない。


すなわち、それは過去を変えられなかったという事になる。


すると、どうなるか?


言うまでもないだろう。


私は、この後も意味の無い人生を意味も無く生き続ける事になり、孝介は・・・


彼は私と同じ失敗と言う名の道を、そっくりそのまま歩む事になる。


そして、過去は淡々と事実のみを刻み続け、これからの彼を苦しめていくだろう。


不安が頭を過ぎり、思わず両手で顔を覆った。


彼は気付いていなかった。


なぜ手紙に書かれた相手が、十五才の自分だったのかという事を。


それは十三才でも十四才でもない、十五才の孝介でなくてはならない理由があったからだ。


このままだと・・・彼はそれを、否が応でも知る事になる。


横目でカレンダーを見た。


残された時間まで、あと五日しかない・・・


目の前に、タイムリミットが迫っていたー。



その日の前日。


私は仕事を終えるとまっすぐ家には帰らず、いつもとは正反対の方向に向け原付きバイクを走らせた。


町の中心部から国道に出て、南に走る事約二十分、目の前に小さな峠が見えてきた。


その峠を越え、緩やかな坂道を下りきると、右の道路沿いに鶴ヶ岡バス停留所があった。


何の変哲の無い、ただのバス停だった。


その手前でスピードを落とし、チラリと目をやる。


以前、このバス停の隣にあった電話ボックスはすでに撤去されていて、影も形も無かった。


そう、孝介が毎日のように利用している例の電話ボックスだ。


今となっては思入れもあるが、現在はスマートフォンがもはや当たり前の時代なのだ、いた仕方がない。


バス停を通り過ぎ更に五十メートル程走った私は、右にウインカーランプを出し、国道を横切った。


そして、住宅の間の舗装された細い小道を突き当たりまで進み、そこでバイクを止めた。


それにしても、住宅がえらく増えたものだ。


この辺り一帯といえば、昔は田んぼしかなかったのに、風景が一変してしまっている。


キーを抜きヘルメットをカゴに入れてから、視線を目の前の木造二階建アパートにやった。


土地がさほど広くないので、基本的に独身者用のアパートだろうか。


とても、こじんまりとした造りだ。


四台分ある駐車場には、車は一台も無い。


まだ、誰も帰っていないのだろう。


しかし、こうやってアパートを見ていると、かつてここに自分が住んでた家があった事がとても不思議に思えてくる。


当然の事ながら、昔の面影など何一つ残ってはいないが。


だが、紛れも無くこの場所に私の家はあったのだ。


私はこの場所で、車の整備工場を経営する父母の間に次男として生まれた。


上には二才違いの兄、祐介がいた。


家は下が作業場で上が住居という典型的な町の工場で、玄関も廊下も脱衣所も無く、食事スペースに和式用トイレがあるようなとんでもない家だったが、特に不便も不満も感じることはなかった。


両親は共に昭和一桁世代でしつけに厳しく、特に父は非常に頑固な人で、子供の頃はよく叱られたものだった。


それとは正反対に兄はとても優しく、いつも一緒に遊んでくれて、虫を取ってくれたりプラモデルを作ってくれたり、本当によく私を可愛がってくれた。


私はそんな兄が、誰よりも大好きだった。


ところが、成長の過程で私達の間にはっきりと格差が見られるようになってきた。


兄は勉強が出来る上にスポーツ万能で、しかも手先も器用という文句の付けようがない人間に育っていく。


一方私はというと・・・まぁ、簡単に言えば兄とは真逆の人間になっていったという事だ。


小学校・中学校共に成績が常にトップクラスだった兄は、当然のようにこの町一番の進学校に入学する。


両親の喜びようは、それは大変なものだった。


父は夕食時にビールを飲むと、上機嫌になってよく兄の話をしたものだ。


そして、いつも決まって言う言葉がこれだった。


祐介が工場を継いでくれたら我が家は安泰だ、と。


兄もそのつもりで将来を考えていたらしく、高校卒業後は大学に進み経営学を学んで、ゆくゆくはただの町工場から会社組織にしたいという大きな夢を持っていた。


両親の兄への期待は日に日に高まり、それに比例して私への関心は薄まる一方だった。


たまに私が何か話かけても、父も母も相づちをするだけで真剣に聞いている様子はあまり感じられなかった。


仕方ないと、どこかで諦めていた。


兄に比べ、勉強もスポーツも、何もかもが平均以下の私では、期待の対象にはならない。


だからと言って両親を恨んだ事など無かったし、ましてや兄を嫌いになったりなんかしなかった。


ただ、正直言えば兄に対し少なからず嫉妬心を抱いていた事は間違いない。


これだけ能力の差が出れば、当然と言えば当然だろう。


しかし、自分の力ではどうにもならない事がたくさんある。


それが世の法則の一つである事を、私はこの時すでに知らされていた。


ここに立っていると、いろんな事が頭を過ぎる。


いい思い出も、そうでないものも・・・


一台の軽自動車が、こちらに来るのが見えた。


アパートの住人かもしれない。


私は素知らぬ顔でバイクに戻り、ヘルメットを被った。


キーを入れ、エンジンをスタートさせる。


日が暮れて、辺りはすっかり薄暗くなっていた。


秋らしい少し冷んやりとした風が、やけに気持ち良く感じた。


最後にもう一度だけ、アパートに目をやった。


二階手前の部屋に、明かりがついていた。


それをぼんやりと見つめながら、何となく思った。


なんでここに来たんだろう、と・・・


正直、自分でも分からなかった。


でも、分からなければ、それはそれでいいだろう。


今日だけは、難しい事は考えたくない。


(さあ、帰ろう)


今晩も、孝介から電話がかかってくるはずだ。


出来るだけ、いつも通りに振る舞はなくてはならない。


なぜなら、まともに孝介と話が出来るのは、おそらく今晩が最後になるだろうから。


私は国道に出て、今度は北向にバイクを走らせた。


来た時よりも、少しだけスピードを上げながら・・・



いつからか、私はこう考えるようになっていた。


つまり、瀬村 直への想いが成就し、自らを変える事が出来たとしたならば、私に関係する人達の人生をも変えられる、或いは変わっているのではないかという事を。


この数ヶ月の間、通常では絶対にあり得ない状況に身を置いてきたのだ。


そんな考えが起こったとしても、別段不思議じゃない。


だから、私は躍起になっていた。


上手くいけば全てが変わるのだ、と。


そのため、孝介にはかなり無理な事をさせたと思っている。


しかし、その結果はどうであったか?


答えは簡単、結局は何も変えられなかったのだ。


と言う事は、私の経験した過去の出来事は全て彼の未来となる。


もちろん、寸分狂わずにだ。


自らの甘さを悔やんだところで、今さらどうにもならない。


そう、すでにゲームセットは告げられているのだから・・・


一日を通じ、秋の深まりがはっきりと感じられるようになってきた十月二十日。


そう言えば、あの年も残暑が厳しく、十月に入ってようやく秋らしさを感じられるようになった事を今でもはっきりと覚えている。


あの日と同様に、今日は朝から快晴だった。


いつも通りの一日を過ごした私は、部屋に戻るとそのままベッドに横たわり、持っていた携帯電話を傍らに放り投げた。


孝介からの電話は、まず無いだろう。


意外な程冷静だった。


だけど、今日だけはビールを飲む気分になれない。


おそらく何本飲んでも、酔う事は出来ないだろうから。


時計を見た。


午後七時四十分。


思わず、両目を閉じる。


しばらくの間、そうしていた。


何も考える事なく、出来ればそのまま眠りにつければと思っていた。


だがその時、鳴るはずのない携帯電話から着信音が聞こえてきた。


(まさか・・・)


再度、時計を見た。


あれから、一時間が経っていた。


携帯電話を手に取り、通話ボタンを押した。


『孝介さんっ!』


こちらが言葉をかける前に、孝介が先に私の名を口にした。


叫ぶように、とても慌てた様子で・・・


『兄さんが死んだって、嘘ですよねっ!!』


その言葉に、私は思わず天井を仰いだ。


ついに、この時が来たのだ。


避けては通れない、辛い現実に・・・


『 今、警察から電話があって、兄さんが死んだって言うんです。

そんな事・・・嘘に決まってる!

あなたなら、知ってるはずだ。

ねぇ、何かの間違いですよね?

兄さんは・・・ちゃんと帰って来ますよね?』


『・・・』


『何で黙ってるんですか!

どうして嘘だって、言ってくれないんですか!

孝介さんっ、答えてください!!』


『・・・孝介、いいか落ち着いて聞いてくれ。

実は・・・』


『もう、いいっ!!』


孝介は一方的に、電話を切った。


私はしばらく携帯電話を握りしめたまま、ベッドの上でうずくまっていた。


今、彼がどんな思いでいるのか。


目に見えない不安と恐怖に、一人で闘っている孝介の気持ちを考えると、胸がはり裂けそうになった。


しかし、私にはどうする事も出来ない。


全てを知っていながら、何一つ彼の力になってやれないのだ。


どうしようもない無力感に襲われながら、私は一睡もせずにそのまま翌朝を迎えてしまったー。



あの日、兄は学校帰りに塾に行っていた。


いつもの時間になっても帰って来ない事を両親が不審がってた矢先の午後七時四十分、あの電話がかかってきた。


『息子さんが、トラックにはねられました』


誰からだったのかは知らない。


とにかく、父と母は急ぎ教えられた病院へと向かった。


そして、私は一人で家に残った。


不安と心細さで、どうしようもなかった。


居間の窓越しから外を見ながら、兄が両親と共に家に帰って来る事を信じていた。


私は、ひたすら神仏に祈った。


あれほど何かに祈った事など、後にも先にもない。


しかし、私の願いが届く事はなかった。


兄は、死んだ。


十七才の若さで、あっけなく逝ってしまった。


何の罪も犯してない、普通に青の横断歩道を歩いてただけなのに・・・


この事をきっかけに、私は神仏を捨てた。


いや、それだけではない。


兄を助けてはくれなかった神仏を、私は激しく憎んだ。


そして、あらゆる宗教の神々をも憎しみの対象にしていったのだ。


兄の死は、私の中にある何かを確実に破壊してしまった。


さて、あれから一週間がたった。


孝介からの電話は一度も、無い。


この間、彼がどのような毎日を過ごしていたかは考えなくても分かっている。


だから、あえて何も言うまい。


ただ、兄が死んだ事で一つだけ分かった事があった。


それは、涙は決して枯れないという事だ。


泣いても泣いても、涙は出てくる。


そう、泣いても泣いてもだ・・・


多分、涙とはそういうものなのだろう。


八日目の夜、ようやく彼から電話があった。


私は辛い気持ちを押し殺し、携帯電話の通話ボタンを押した。


しばらくの間、お互い無言のままだった。


私の方から声をかけようとした時、彼が先に口を開いた。


『・・・孝介さんと話が出来るのは、これが最後だそうです。

電話機がそう言ってました。

だから、どうしても聞きたい事があります。

いいですか?』


とても、沈んだ声だった。


『・・・ああ、分かった』


私は短く答えた。


『これから僕に何が起きるのか、どんな人生を送るのか全部隠さず教えて欲しいんです。

嘘やごまかしはいらない。

お願いだ、孝介さん。

僕の将来はどうなるのか、ちゃんと正直に話してください』


『聞いて、どうするんだ?』


『兄さんが死んだ時、僕は思ったんだ。

こんな思いをするのは、もう二度と御免だって。

だから知りたいんですよ、これからの事を。

知っていたら、あんな辛い経験をしなくて済むはずだ。

違いますか?、孝介さん』


『・・・気持ちは、よく分かる。

でも、それが君のためになるとは思わない。

知らなくていい事が、世の中にはたくさんある。

だから・・・』


『いやだ!』


彼は、私の言葉を瞬時に拒絶した。


『孝介さんは、嘘をついた。

兄さんが死ぬ事を知ってて、僕に嘘をついたんだ。

もうたくさんだ!

これは、僕の人生なんだ!

だから、当然僕には本当の事を知る権利があるし、あなたにはそれを話す義務があるはずだ!!』


彼の主張が、正しいとは思わない。


だが、まったく間違っているとも思えなかった。


私は、彼の要求を突っぱねられずに迷っていた。


全てを話せば、更に彼を傷つける事になる。


しかし、こうして話せる時間が残り少なくなった今、私は一つの賭けにでた。


もちろん、上手くいくかどうかは分からないままに。


『孝介、一つだけ確認しておきたい事がある』


『・・・はい』


『最後まで俺の話を聞いたうえで、それをきちんと受け止める勇気が君にはあるか?

どうだ、孝介』


『あります!』


彼は迷う事なく、そう答えた。


『そうか、ならいい。

では、話す事にするよ。

俺にとっては過去の、君にとっては未来の出来事をね』


私はゆっくりと噛み砕くように、自分の半生を聞かせていった。


まず、最初に話したのが、瀬村 直の事だった。


彼女との初恋は、成就する事なく終わりを告げる。


当然の結末だった。


だが、私はその後も彼女の事が忘れられず、自らを更にみじめなものにしていく。


次に、兄が死んでからの事を話していった。


父と母は生気を失ったように、呆然と毎日を過ごしていた。


やがて二人は些細な事でいがみ合うようになり、喧嘩が絶えなくなった。


時に私の目の前で、兄が死んだのは互いのせいだと激しく罵り合う事さえあった。


もう、家の中はメチャクチャだった。


二人共に自分の事で頭がいっぱいで、私の存在など眼中に無かったのかもしれない。


明くる年の二月、両親は離婚した。


家族の絆など、いとも簡単に崩壊する事をこの時知った。


私は母に引き取られ、卒業までの間しばらくアパート暮らしをした後、町の外れにある母の実家に居を移した。


父は一人で工場の家に住んでいたが、折からの不況で経営が悪化していき、兄が死んでから二年後に店は多額の借金を抱えたまま倒産してしまう。


その後、父がどうなったか知らない。


母は祖母の農作業を手伝いながら、家の近くのスーパーでパートとして働き始めた。


しかし、心の傷は癒されず半分死んだような状態はそれからもずっと続き、母を苦しめていった。


さて、最後に私だ。


兄の死後、ただでさえ芳しくなかった成績が更に悪化し、最悪の域にまで落ち込んでしまう。


ここから、私の墜落人生が始まる事になる。


友人との交流も徐々に無くしていき、部屋に閉じこもる事が多くなっていった。


ほとんどのやる気を、私はこの時無くしてしまったのだ。


それでも何とか高校受験はパスしたが、以前にも話した通り、私が入学したのはこの町一番の最低高校だった。


市内各中学の最悪レベルの人間が、一堂に会したようなカス高校だ。


そこがどんな所か、詳しく話さなくても察しはつくだろう。


酒にタバコに、喧嘩に女。


これで、薬でもやっていれば完璧だった。


あんな学校、一年も行けば充分だった。


私は、あっさりと中退した。


それからの二年間、完全なる無気力人間と化した私は、あらゆる関係を遮断し、いわゆる引きこもり状態へと陥っていく。


風呂とトイレ以外は部屋から出ず、ほとんどモグラのような生活を送った。


もう、どうでもよかった。


時々ベッドの上で、このまま死んでもいいと思った事さえあった。


私は人生で最も輝かしい時間を、自らの手でドブに捨てたのである。


まさに、最悪の二年間だった。


それでも母の説得もあってか、十八才を過ぎてようやく職探しのため重い腰を上げたのだが、なにせ最終学歴が中卒なのだ。


職安に行ったところで、あるのは精々ガソリンスタンドの店員か交通整理のバイトぐらいしかなく、まともに就ける仕事などあるはずがなかった。


取り敢えず私は適当に選んだバイトを適当にやっていく事にし、嫌になったらとっとと辞めるという事を繰り返していった。


幸いボロでも我が家があるので、稼ぎが少なくてもどうにか生活はやっていけた。


どうせ、将来に何の展望も抱いていなかったのだ。


バイトなど、その場限りでよかった。


それ以外の生活は、相も変わらずだった。


誰とも会わず、どこにも行かず、休みは一日中部屋で過ごした。


唯一の楽しみといったら、晴れた日の夜に星を眺めながらビールを飲むくらいしかなかった。


それは、今でも変わらない。


結局私は三十二才までに両手では数え切れない程の転職を重ねた末、現在の職場に就職する事になった。


市内にある、個人病院の雑用係だった。


特別な技量などまったく必要のない、誰にでも出来る仕事だったが、それでもこのご時世に中卒でも正職員として雇用してくれただけでもかなり有り難い事だと言えた。


ただ、雑用係だから何でもやらなくてはならない。


電球の交換、水道の修理、何でもだ。


時には、夜間警備の業務をする事もある。


そう言えば、孝介から最初に電話がかかってきたのは夜勤明けの日だった。


それから時が過ぎ、私が四十才の時に母から父が死んだ事を聞かされた。


どこか知らない町で少しずつ借金を返しながら細々と暮らしていたらしいが、ガンに侵され最後は一人寂しく死んでいったという。


母は涙ぐんでいたが、私は何も感じなかった。


ああ、死んだのか・・・精々この程度だっただろうか。


五年後、母が死んだ時も同じだった。


病を患い苦しそうにしている母に対し、私はほとんど手を貸すような事はしなかった。


まさに、親不孝の極みそのものだ。


それにしても、実の両親が死んでも涙一つ流さなかった自分に、時折ゾッとする時がある。


ここまで最低の人間に堕ちるとは・・・もはや笑う以外にない。


ところで、私は今も一人で母の実家で暮らしている。


これまで数人の女性と交際らしき事はしたがどれも、結局長続きはしなかった。


私自身の恋愛観に大きな問題があったわけだが、要は何年経っても瀬村 直の事が忘れられなかった事が最大の理由だったと言える。


それが原因で、現在も独身のままだ。


まあ、特に結婚に対して執着しているわけではないので、別にかまいはしなかったが・・・


いつまでたっても初恋の人が脳裏から離れず、結婚も出来ず、どうでもいい仕事をただ毎日だらだらとやっている・・・これが、今の自分の姿なのだ。


絵に描いたが如く、実にお手本のようなポンコツ人生ではないか。


これが、死ぬまで続くのだ・・・


『フフッ』


私が話し終わると、孝介が小さく笑っていた。


その声はどこか不敵で大人びた感じがし、一方でとても悲しげで何もかも全てを諦めてしまったような・・・私には、何故かそんな風に聞こえてきた。


『・・・よかった』


『何がだ?』


『今の話を聞いて、気が楽になりました。

もうこれから何も努力する必要がないと分かって、何だか清々した感じですよ。

それがはっきりして、本当によかったです』


『バカな事を言うな!

何もしなくてもいいなんて、そんな考えはよせ!』


半ばやけ気味に話す彼に、私は思わず強い口調で言葉が出てしまった。


『だってそうでしょ?

この先いい事が何一つ無いんだったら、努力なんかしたって意味が無いじゃないですか。

どうせほっといても、僕はあなたと同じ最低の人生を送るんだ。

だったら無駄な事はしたくないし、考えたくもない!』


『それは違う!

努力の必要のない人生なんて、ありはしない。

君はそれを放棄しちゃいけないだ、これから先もずっと』


『孝介さんは勝手だっ!!』


彼は語気を強め、私をなじった。


『自分は何もしてこなかったくせに僕には努力をしろって、そんなの自分勝手じゃないか!』


『ああ、確かに俺は自分勝手な男だ。

本当は、こんな事を言えるような人間じゃないこともよく分かっている。

でも、これだけは聞いてくれ。

いいか、孝介。

今ここで、簡単に人生を諦めたりしちゃだめだ。

たとえ結果が同じだったとしても、それでも精一杯努力はしてみるんだ』


『何のために?』


『後悔しないためにだ』


『後悔?』


『そうだ。

俺はこの歳になって、無性に後悔する時があるんだ。

無気力で、いい加減に生きてきた自分の半生を。

こんなことを言えば君は呆れるだろうが、それがいかに愚かな行為だったか今なら分かる。

だけど、どんなに悔やんでも時間は戻らない。

だからこそ、君には俺のような人間になってほしくないんだ。

孝介、スタートラインに立て!

そのために、一生懸命努力するんだ』


『・・・僕には、孝介さんの言ってる事の意味が分からない』


『難しい事じゃない。

何もやらずに負けを認めるより、何かをやり通してその事実を受け入れる方が納得がいくじゃないか。

たとえ全てのものに敗北をしたとしても、少なくとも自分に対してだけは後悔しないはずだ。

そうとは思はないか?

だから、スタートラインに立てって言ったんだ。

そこに立たなくては、自分が走るコースも、競う相手も、目指すゴールも、何も見えはしない。

その場所にちゃんと立ってくれ、孝介。

走る前から、何もかも諦めないでくれ。

今の俺にはこんな事しか言えないけれど、でも・・・

でも、十五の君に、これだけはどうしても伝えておきたかったんだ』


話すべき事は、全て話した。


言うべき事は、全て言った。


後は、彼自身がどう感じてくれるかだ。


全てをさらけ出し、本心から思いを訴えることで、彼の心情に幾ばくでも変化をもたらす事が出来れば・・・


私の賭けは、そこにあった。


・・・孝介さんはやっぱり勝手だと、彼は言った。


弱々しく、どこか気の抜けたように・・・


そしてこの瞬間、二人の会話は無情にも機械によって強制的に遮断されてしまい、これをもって全てがゲームセットになってしまった。


突然始まった過去との不思議なやり取りは、こうしてあっけなく終わりを告げてしまったのだ。


だから私の思いが彼に伝わったかどうかは、もはや永遠に分からない。


私は携帯電話を握りしめたまま、しばらく何も考える事が出来ずにいた。


握られた携帯からは、ツーツーという電話音が虚しく鳴り続けていた・・・



あの日から、私の日常はすっかりと元の鞘に収まっていた。


朝起きて仕事に行き、帰宅してシャワーを浴び、星を眺めながらビールを飲み、そして、寝る。


それだけだ。


単調で意味のない毎日だが、これが私の生活スタイルだからしょうがない。


ただそんな中で、一つだけ変わった事がある。


それは午後八時前になると、決まって携帯電話を手に取る癖が付いてしまった事だ。


鳴るはずがない携帯をしばらくの間じっと見つめながら、どこかで奇跡が起こる事を期待しているのだ。


しかし、それは無意味な事だと言えた。


孝介からの電話は、二度とかかってくる事はない。


そう、未来永劫に・・・


だけど、毎日彼の事を考えている。


これから彼がどうなっていくのかを考えると身を斬られる程辛いが、それでもこの数ヶ月のやり取りは楽しい思い出として私の脳裏に焼き付いている。


『孝介さんの好きな色は、何色ですか?』


『赤だ』


『僕もです』


『孝介さんの好きな音楽は、何ですか?』


『ニューミュージックだ』


『僕もです』


『孝介さんの夢って、何だったんですか?』


『・・・社会科の教師になる事だ』


『すごい、僕もそうなんです』


お互いが自分同士なので、気が合ったのは当然か。


・・・彼は今、何を考えているのだろう?


ふと、そう思う時がある。


私の言葉が、少しでも彼の心に残ってくれていればいいのだが・・・


それだけを願って、今日も携帯電話を見つめている。


さて、十二月に入ってから、何となく体調がすっきりしない日が続いていた。


頭痛、めまい、体のだるみを常に感じるようになったのだが、最初は年のせいだろうと考えていた。


ところが、クリスマスイブを境に、それが一層激しくなっていった。


何か重い病にでもかかったのではないかという思いが頭をかすめたが、病院で検査を受けるつもりはまったくなかった。


もしもこれで死ぬような事になったとしても、それならそれでかまいはしない。


もはや、終わったに等しい人生なのだ。


とっととこの世からおさらば出来れば、それに越した事はないだろう。


結局、私は体の異変をほったらかしにしたまま年を越したのだが、それが祟ってか新年早々体調不良で何日か仕事を休む羽目になってしまった。


しかし、その後それまでの不調が嘘のように体調が回復し、しかも以前より増して体が軽くなり食欲が増し、意欲も出てくるという信じられない現象が起きていた。


(一体、どういう事だろう?)


体の不調は、年齢からくる一時的な症状だったのかもしれない。


しかし気分の高揚は、何故だか分からない。


まあ、別に意味があるわけではないだろうから、気にする必要はないだろうが・・・


ともかく、これで全て元どおりになった訳だ。


私みたいな人間は、そう簡単には死ねないのだ。


そう考ると、少し気が重くなる。


そうやって、またいつもの日々が再開された。


変わりばえのない毎日、空っぽの時間。


いつしか、桜が咲く季節になっていた。


そして、その日・・・


運命を変える、三月三十一日を迎えた。


朝、普段どうりに起床し、ベッドから立ち上がろうとした、まさにその瞬間だった。


これまで経験した事のない強烈な頭痛と目まいに襲われた私は、思わずその場で倒れ込んでしまったのだ。


焦点が定まらず、部屋中がぐるぐる回っているようで立つ事さえ出来ない。


(まずい・・・)


そう思っても、どうにもならなかった。


どのくらいの時間、そうしていたのだろう。


ほんの数分か、それとも数十分か。


次第に自身が、この世界から消えていくような錯覚に陥っていた。


しかし、それは錯覚なんかではなかった。


そう、実際に両足から少しずつ自分の体が消えていったのだ。


何故・・・という思いが即座に頭をよぎったが、それ以上はもはや考える事すら出来なかった。


薄れていく意識の中で、床に落ちていた携帯電話が目に映った。


本能的に右手を伸ばし、それを掴もうとした。


だが、だめだった。


右手はすでに、無くなっていたのだ。


そして意識が途絶えた瞬間、私という存在はこの世界から完全に消滅してしまった。


跡形もなく、何も残さずに・・・



ここが、どこだか分からない。


暗い、とても暗い世界だ。


自分の立っている足元すら見えない。


ただ・・・暗いだけの世界だ。


そして、静寂。


静かだ。


何も聞こえない。


地獄?


・・・にしては、とても静かだ。


不意に、一筋の光が見えた。


無意識に、その方に向かって歩き出す。


何故か、そこだけが明るい場所にたどり着く。


あれっ?


あの古い家の、ダイニングじゃないか。


テーブルを囲んで父が、母が、そして兄がいる。


みんな、笑っている。


その傍らに、中学生の私がいる。


皆と同じく、笑っている。


そう、家族四人が本当に・・・本当に幸せそうに、笑っていたのだ。


その光景を見て、不意に涙が溢れた。


もう二度と戻らない幸せを前に、涙が止まらなかった。


しばらくして、四人は消えていった。


また、暗闇の世界だ。


佐脇君・・・


今度はどこからか、私を呼ぶ声が聞こえてきた。


誰だ?


その声のする方に向かった。


すると、目の前の世界が見覚えのある場所に変わっていた。


えっ、ここって・・・


城山公園?


その先端に、目をやった。


中学生ぐらいの女の子が立っている。


長い黒髪で、制服姿の女の子だ。


こちらを向いて笑っている。


私はゆっくりと、彼女に近づいて行く。


しかし、手を伸ばせば届く所まで来た瞬間、彼女は消えてしまった。


瀬村っ!!


思わずその名を叫んだが、無駄な事だった。


再び、世界は暗闇に包まれた。


そして、私の中から意識が完全に消えてしまった・・・



鳥の鳴き声が聞こえた。


微かだが、頰に風も感じた。


私は、ゆっくりと目を開けた。


部屋の天井が見えた。


(夢か・・・)


とても、リアルなものだった。


思わず額に手を当てた。


痛みも目まいもない。


体を伸ばすと、少しだけ怠みを感じた。


それにしても何故だろうか、とても長い間眠ってたような気がする。


そう、とても長い時間ずっと・・・


寝ぼけ眼で枕元の携帯電話を手に取り、日付けと時間を確認する。


四月一日、午前七時三十分。


(なんだ、丸一日寝てたのか)


頭を掻きながら、私は上半身を起こした。


やれやれと思った。


朝からおかしな感覚で、滅入ってしまった。


おそらくは、昨日の激しい頭痛のせいだろう。


まあ、過去に経験のない痛みだったんだから、多少の影響は残っても仕方ないか。


取り敢えず、熱いコーヒーでも飲もう。


弱った頭には、これが一番いい。


私はベッドから立ち上がり、階段を降りてキッチンへと向かった。


その時だ。


キッチンで、なにか人の気配を感じたのだ。


恐る恐る覗いて見ると、女性が一人台所に立っていた。


(・・・誰なんだ?)


頭が混乱したままつっ立っていると、私の存在に気付いたのかその女性がこちらに振り返った。


その顔を見た瞬間・・・


人は想定以上の衝撃を受けると、もはや驚くことさえ忘れてしまうのだろうか。


魔法にでもかかったように、私の意識も体もマネキン人形のように硬直してしまったのだ。


『あら、おはよう。

今、起こしに行こうと思ってたとこよ』


そう言って、彼女がニコッと笑った。


『せっ、せっ、せっ、・・・瀬村っ!?

なっ、何やってんだ、こんな所でっ!!』


どうにか出た言葉がこれだった。


信じられないが、私の目の前にいた女性は紛れもなく瀬村 直だったのだ。


しかも、以前見かけた時のショートヘアーではなく、昔と同じロングヘアーの彼女だ。


『何って、コーヒーを入れてるところよ。

それに、どうしたの?

旧姓で呼ぶなんて中学以来じゃない、びっくりした』


(いっ、いったい何なんだ?

 どうして、彼女がここにいるんだ?

 どうして、コーヒーを入れてるんだ?

 そもそも、どこから入って来たんだ?

 ダメだ、まだ悪い夢を見ている。

 まったく、いい加減にしてくれ。

 いくら夢でも、度が過ぎている!)


私は思わず右の拳で、前頭部を三回叩いてみた。


ゴンゴンゴン。


・・・痛かった。


って事は、これは夢ではない?


『あなた、何やってるの?

すぐ朝ご飯用意するから、新聞でも読んでて』


(あっ、あっ、あなたっ??

 何だ、そりゃ!

 まるで、夫婦のような言い方じゃないか!!)


呆気にとられている私を横目に、彼女は慣れた様子で冷蔵庫から玉子を二個取り出し、フライパンに割って落とすと、パンをトースターに入れ、サラダを皿に盛り、テキパキと朝食の準備を進めていった。


『四月かぁ、もうちょっとで新学期ね。

今年は三年の担任なんでしょ?

この一年、何かと大変だろうけど頑張ってね』


新学期?


担任?


またもや、意味不明の言葉が出てきた。


(いかん・・・)


これ以上、頭の混乱は避けなくてはいけない。


少し緊張しながら、私は彼女に話しかけてみた。


『あ、あの・・・

新学期とか担任とかって何の話・・・なんだい?』


『学校の話、でしょ』


『・・・学校?』


『そう、田名部市立新城中学校、あなたの学校の事に決まってるじゃない』


『俺の学校??』


『ちょっと、あなた大丈夫?

今朝は、何だか様子が変よ。

そう言えば、夜中に何度かうなされてたから心配してたんだけど、体の具合でも悪いんじゃない?』


彼女はエプロンで両手を拭きながら、こちらに来てごく自然に自分の右手を私の額に当てた。


『熱は無さそうね』


ほっとした表情を浮かべながら、彼女はキッチンの横にある小さなテーブルのイスを優しく引いてここに座るよう私に促した。


テーブルの上には、きちんと朝刊が置かれていた。


取り敢えず私はイスに座り、新聞を手に取って読む振りをした。


有難い事に、頭の混乱は益々大きくなっている。


そりゃそうだろう。


そう簡単に、理解の出来るよなレベルの話ではない。


空前絶後の事態に直面していると言っても、およそ過言ではないのだから。


彼女に見られないように、私は大きく息を吐いた。


とにかく、落ち着くことが必要だった。


まずは呼吸を整え、目の前の出来事を整理していこう考えた。


分かっている事は、次の三つ。


一つ、私と彼女は、どうやら夫婦であるらしいという事。


二つ、私の職業は、どうやら教師であるらしいという事。


三つ、私は新学期以降、どうやら三年の担任を任されたらしいという事。


ここで問題なのが、どうしてこうなったのかという事だが、もちろん私にはまったくをもって見当がつかない。


いくら考えても、考えても・・・ダメだ、さっぱり分からない。


『あっ、そうだ』


何かを思い出したように、突然彼女が声を出した。


『あなた、これを。

新聞と一緒に、郵便受けに入ってたの』


そう言って、彼女は一通の封筒を私に差し出してきた。


それはとても洒落た封筒で、表には機械的な文字で、佐脇 孝介様へと書かれていた。


『手紙ね、きっと』


封筒を手に取り裏面を見たが、差出人の名前は書いていなかった。


『昨日の夕方は見かけなかったから、その後か朝早くに誰かが直接郵便受けに入れたのかしらね』


彼女はそう言いながら、食器棚を開けコーヒーカップを二つ取り出していた。


(変だな・・・)


私に手紙を書いてよこす者なんかいないはずなのに。


だが、この際深く考える事はやめておくことにした。


ただでさえ、頭の中は混乱の真っ只中にあるのだ。


たかが手紙に、余計な神経を使いたくない。


とっとと差出人を確かめて、先にこの件からすっきりせよう。


瀬村 直の事は、その後でゆっくり考えればいい。


『ちょっと部屋で見てくる』


そう言って私は席を立ち、足早に二階の部屋へと向かった。


一人になる口実が出来た事に、内心ほっとしてたのかもしれない。


部屋に戻ると、私は机の引き出しからハサミを取り出してベッドに腰を下ろした。


封筒の上部を慎重に切って中を覗くと、丁寧に折られた三枚重ねの紙束が入っていた。


取り出して見ると、三枚全てにびっしり文字が書かれている。


やっぱり、手紙だった。


(さてと、誰が寄越して来たんだ?)


どこか軽い気持ちで、一枚目に目をやった。


『あっ!!』


読み始めてすぐに声をあげた私は、無意識のうちにベッドから立ち上がっていた。


右手の人差し指で両目を擦って、もう一度紙面を確かめる。


手紙を持っている両手が、明らかに震えていた。


(まっ、まさか・・・)


孝介さんへ。

お久しぶりです。

お元気ですか?・・・


(ちょっと待て!

 これって、孝介からの手紙じゃないか!!)


その筆跡は間違いなく私自身の・・・いや、彼のものだった。


(一体全体、どういう事だ?

 何で、彼の手紙がここに・・・)


そんな事を考えていると、ある事が脳裏を過ぎった。


それは、昨年五月に起こった不思議な出来事。


私が書いて捨てた手紙が、過去の自分に届けられたあの一件。


その時から始まった、十五才の孝介との交流・・・


そして今、あの時とまったく逆の事が起きている。


今度は彼が書いた手紙が、未来の自分である私へと、時空を超えて届けられたのだ。


私は立っている事すら忘れて、手紙に書かれている一字一句を食い入るように読んでいった。


込み上げる不安を、心の中で必死に抑えながら・・・



目覚めた時よりも、鳥の鳴き声が賑やかになっていた。


近くを通っている電線の上だろう。


数羽で戯れている様子が、側にいて感じられた。


部屋にはたっぷりと、陽の光が注いでいた。


暖かい、春の日差しだ。


窓の外からは爽やか風と共に、潮の香りが感じられた。


いつしか、私はベッドに腰を下ろしていた。


読み終えた手紙を持ったまま、両手を膝の上に乗せ目をつぶり大きく息を吐き、そして・・・悟ったのだ。


今、目の前で起こっている出来事の意味を。


なぜ、瀬村 直がこの家にいるのか?


なぜ、私が教師になっているのか?


そう、何もかも全てが現実の事であり、極く当たり前の日常だったのだ。


変わったのだ。


彼は、変えたのだ。


自らの努力をもって人生と、そして未来を・・・


たまらなく、涙が出そうになった。


たまらなく、泣きそうになった。


その思いを堪えながら、私は手紙を封筒の中に戻した。


『あなた。

用意が出来たわよ』


ちょうどその時、階下から私を呼ぶ彼女の声が聞こえてきた。


『ああ、すぐ行くよ』


そう言って、私はベッドから立ち上がった。


そして、封筒を机の引き出しの中にそっとしまい部屋を出た。


階段を降りてキッチンに戻ると、彼女はコーヒーを二つのカップに注いでいた。


穏やかなその表情に見入っていると、中学時代の彼女が重なり思わず頰が緩んだ。


(あの時と、なにも変わってない・・・)


いつも優しく、それでいて何をやるにも常に真剣だった彼女。


私の大切な、初恋の人。


そして、想い出の人・・・


その女性が時を経て今、私の目の前にいる。


かつての同級生としてではなく、妻としてだ。


そう、私の・・・妻として。


『どうしたの?』


彼女がきょとんとした表情で、こちらを見た。


『いや、何でもない』


照れ笑いを浮かべながら、私は不器用にごまかした。


『手紙、誰からだった?』


その問いかけに、私は少し間を置いてこう答えた。


『遠い昔の・・・大切な友人からだったよ』


彼女は笑みを浮かべ、頷いてみせた。


小さなテーブルを見ると、二人分の朝食でいっぱいになっていた。


トーストにハムエッグ、それにサラダの盛り合わせと熱いコーヒー。


『えらく豪勢な朝食だね』


『おかしな人。

いつものメニューなのに』


そう言って、彼女はくすっと小さく笑った。


私達は向かい合わせに座った。


『いただきます』


昨日までの孝介にとっては当たり前の事だろうが、私にとっては初めて一緒に取る彼女との朝食。


全てが、まさに格別の味だった。


コーヒーもパンも、サラダですら。


それにしても、こんなに朝食を美味いと感じたのはいつ以来だろう・・・


考えてみたが、見当もつかない。


食事中、彼女は笑みを絶やす事はなかった。


私も笑顔でそれに応える。


多少ぎこちなかったが、それは仕方ない。


さて、彼女との話の中で知ったのだが、私はこの後に学校へ行く事になっているらしい。


土曜日ではあるが、新学期の準備のためだという。


一瞬どうしようかと考えたが、まぁ、多分心配ないだろう。


(きっと、上手くいくようになっている・・・)


何故だか分からないが、強くそう思った。


それは、確信的にと言っていいぐらいに。


先程までの混乱や不安、戸惑いはもはや消え失せ、今の私は全ての事を楽観的に考えていた。


仕事の事も、そして、彼女との事も。


『ねっ、今晩何が食べたい?』


『何でも、いいよ』


『じゃあ、筑前煮なんかどう?』


『よく俺の好物を知ってるね』


『あなたの女房ですから』


なるほど、ごもっとも。


朝食を食べ終わると、彼女は出勤用のシャツとズボンを用意してくれた。


私はそれらを持って、洗面所に行きそこで着替える事にした。


さすがに、彼女の前でジャージやトレーナーを脱ぐ気にはなれない。


やっぱり、どこか恥ずかしかったからだ。


先に歯を磨き、髪の寝癖を直した後、素早く着替えた私は鏡に映った自分の顔にふと目をやった。


以前より増えた目の周りの皺、少し痩けた頰。


それでもと、思う。


年相応に何かを重ねてきた男の顔なんだ、と・・・


(プッ・・・)


そんな事を考えいたら、無償に笑いが込み上げてきた。


・・・もう、とっくに終わってる人生だと思っていた。


すでにゴールに足を踏み入れ、残り時間を適当にやり過ごせばそれでよかった。


そう、後は舞台の幕が降りるのを静かに待つのみだったのだ。


でも・・・終わってはなかった。


道はまだまだ続き、ゴールは遥か先にある。


『よし!』


私は両手のひらで、自らの頰を少しだけ力を込めて叩いた。


パンッ!


小気味いい音が、洗面所に響いた。


リビングに行くと、彼女がジャケットを持って待っていてくれた。


薄い茶色系の、お気に入りのものだ。


各ポケットには財布、免許証、ハンカチがそれぞれちゃんと入っていた。


私はそのジャケットを着て、玄関に向かった。


そして、靴を履いてから彼女の方に振り返った。


『気をつけて。

行ってらっしゃい』


彼女が、優しく言葉をかけてくれた。


『うん、行って来る』


私は、彼女に優しく言葉を返した。


(さあ、行こう!

 今度は、私が全力で走る番だ。

 大切なバトンを繋いでくれた、孝介に報いるために。

 彼の努力に、恥じぬように。

 全ては・・・

 今日から始まるのだ!!)


私は玄関のドアを勢いよく開け、春の暖かな日差しをその全身に浴びたー。



孝介さんへ。

お久しぶりです。

お元気ですか?

もしも、この手紙がそちらに届いたなら、きっとあなたは目を丸くして驚いているでしょうね。

何で孝介から手紙がって、おそらくそう思っていることでしょう。

そうなる事を願いながら、これから僕自身の事について書いていきます。

最後に電話で話したあの日から、今日までの間に起きた出来事。

それと、孝介さんにどうしても伝えなければならない事全てを記したいと思います。

まずは電話での交流が終わってからの事ですが、孝介さんが言った通り僕はあらゆる気力を失い成績は急降下、友人との輪からも離れていきました。

家でも、父さんと母さんの喧嘩が絶えなくなり、僕の居場所はもうどこにもありませんでした。

完全に自分の殻に閉じこもり、日ごとに孤立していく中で、一人だけ最後まで僕の事を気にかけてくれたクラスメートがいたんです。

それが誰だか、もう分かりますよね。

そう、瀬村 直だったんです。

彼女だけが僕の味方でいてくれて、ずっと励まし続けてくれたんです。

あの瀬村が、ですよ。

ねっ、信じられないでしょ?

でもね、孝介さん。

僕は初め彼女の好意が疎ましく感じて、素直に受け入れる事が出来なかったんです。

本当は、飛び上がるくらい嬉しかったのに。

何て言うか、やっぱり好きな女の子から余計な同情なんてされたくないじゃないですか。

だから、無理にでも意地を張って突っぱねてたんです。

それで、完全に嫌われたと思ってたんですけど・・・

ところが、彼女はそんな僕の態度なんか気にも留めず、ノートを貸してくれたり落ち込んでると声をかけてくれたりと、常に優しく接してくれたんです。

そうして彼女と少しずつ関わる事で、僕は確実に変わっていきました。

最悪の状態まで落ち込んだ成績も彼女に勉強を教わる事で徐々に回復していき、どうにかまともに受験が出来るレベルまで持ち直すことが出来たんです。

もちろん、瀬村のレベルには到底及ばなかったですけど、でも小テストでいい結果を出す度に自信が付いていったのは間違いなかったです。

そして、いつしか僕の中に彼女と一緒の高校に行きたいという、大きな願望が芽生えはじめていました。

でも、そんな事は奇跡でも起こらない限り無理だという事は僕自身が一番よく分かってたんですが、それでもその思いは日々強くなっていったんです。

そんな、ある日のことでした。

孝介さんの言葉を思い出したのが。

あの時、こう言ってくれましたよね?

後悔しないために、努力をするんだって。

その言葉が、僕の迷いを打ち消してくれました。

とにかく、悔いを残さないためにやれるだけの事はやってみようと思い、これまでに無いくらいにがむしゃらになって勉強に打ち込んでいったんです。

そうやって二学期が過ぎて行き、終業式の日に僕の運命を変える大きな出来事がありました。

式が終わった後に、僕は海を眺めようと城山公園へ行きました。

頂上に着くと、公園の先端に女の子が一人で立っていました。

それが、瀬村であることにすぐ気付きました。

彼女も僕に気付き、微笑んでくれました。

僕はごく自然に彼女の隣に立ち、二人で黙ったまましばらく海を眺めていました。

この時、僕の胸に彼女への想いが込み上げてきて、それはすでに抑えられないものになっていました。

それで勇気を出して、思い切って告白したんです。

君の事がずっと好きだったって。

もう頭の中が真っ白の状態でしたが、彼女はじっと僕の顔を見つめながら、こう言ってくれたんです。

やっと言ってくれたね、って。

孝介さん、クリスマスイブの日に一つの奇跡が起きたんですよ。

僕の想いが、ついに彼女に届いたんです。

この日をきっかけに、僕達は付き合う事になりました。

僕は俄然やる気を出し、一層勉強に励むようになりました。

そして年が明けて二月、僕の受験校が決定しました。

何と、市内で二番目の進学校である田名部加嶋高校に決まったんです。

最悪期から考えると、まさに奇跡のような事ですよね。

瀬村はというと、当然一番の進学校である田名部東山高校を受験すると僕を含め誰もが思っていました。

ところが、彼女は僕と一緒に加嶋高校を受けるって言い出したんです。

僕は強く反対しました。

だって、その事で彼女の人生が大きく変わってしまったら、申し訳が立たないじゃないですか。

だけど、彼女はそんな事などまったく気にかける様子もなく、とてもあっけらかんとしていました。

『東山高校より、加嶋高校の方が私に合ってると思うの。

それに、二人で同じ高校に通えるし、一石二鳥じゃない?』

そう言って、彼女はどこか楽しそうに笑ってました。

こうして、僕らは同じ高校を受験する事になりました。

そしてあっという間に卒業の日と受験日が過ぎ、いよいよ合格発表の日を迎えました。

ここで、二つ目の奇跡が起こります。

そうです。

僕は見事彼女と一緒に、加嶋高校に合格する事が出来たんです。

嬉しくて嬉しくて、思わず涙が溢れました。

それから孝介さん、僕にはもう一つ嬉しい事がありました。

それは、父さんと母さんが離婚しない事を決めた事です。

二人から、こう言われました。

お前が努力している姿を見て、もう一度ちゃんとやり直そうと思ったと。

ここでも僕が涙を流した事は、簡単に想像がつきますよね。

孝介さん、本当にありがとうございました。

あの時の孝介さんの叱咤激励が無ければ、ここまでやれたかどうか分かりません。

もちろん、彼女の献身的な支えも僕にとって重要なものでした。

とても感謝しています。

でも、最後に僕の心を奮い立たせ、ここまで導いてくれたのはやはり孝介さんのあの言葉です。

後悔しないために、努力をする事。

僕はこの言葉を、一生涯忘れません。

孝介さんの思いを大切にし、来月、僕は田名部加嶋高校に入学します。

大好きな、彼女と一緒に。

ここで、改めて孝介さんと約束しておきます。

来るべき高校生活もきっと充実したものにし、僕は必ず大学へ行き、夢である教師を目指します。

そして、どんな困難な事があっても、悔いだけは残さないよう精一杯努力をしていきます。

ですから、僕のことは心配しないでくださいね。

最後に、僕からあなたに伝えたい事があります。

孝介さん、絶対に自分の人生に絶望なんかしないでください。

僕は孝介さんの言葉通り、諦めずに精一杯努力をしました。

その事でほんの少しですが、自分の人生を変える事が出来たんです。

ならば、僕に出来て孝介さんに出来ないはずがありません。

それに、孝介さんのこれからはまだ何も確定なんかしていないはずです。

だから、諦めないでください。

やけを起こさないでください。

僕のためにも、どうか走る事をやめないでください。

生意気な言い方ですが、十五の僕が五十のあなたに、これだけはどうしても伝えておきたかったんです。

さあ、これで書くべき事は全部書きました。

後は、この手紙をくしゃくしゃに丸めて、ゴミ箱に捨てるだけです。

孝介さんの元に届く事を祈りながら。

それでは孝介さん、これでお別れです。

身体には、十分気をつけてくださいね。

あまりお酒を飲み過ぎちゃ駄目ですよ。

これからの孝介さんが幸せでありますように。

さようなら。


昭和五十七年三月三十一日 午後八時三十分


三十五年後の僕へ、 佐脇 孝介



P 、S、そう言えばこの前、例の電話ボックスで初めて人を見かけました。

僕と同い年ぐらいの男の子が電話をかけてたんです。

これって凄い事ですよね、孝介さん!!


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ