人の弱みに付け込む悪魔 その一
「その手に持っているのは……なるほど」
倭文の持つ手帳の表紙と万年筆に刻まれた紋様を目にして、遊間はすぐに彼と距離を取り、杖を構えた。
「おや、漸く気付きましたか」
倭文はにやりと意地の悪い笑みを浮かべる。
万年筆のペン先が魔門へ向けられていることに気付いた遊間は、彼女を庇うように素早く左腕を広げる。
「助手、貴様は僕の後ろに隠れていろ」
「え、どういうことですか?」
咄嗟の出来事で状況を把握できずにいる魔門に対し、遊間が説明する。
「この僕が探偵兼魔術師であるのと同じように、記者を名乗るあいつもまた魔術師だったということだ」
「ご名答!」
小馬鹿にするような笑みを浮かべながら、倭文は手を叩いた。
「そう、私はアンリマユ教団所属の上級魔術師が一人――悪魔記者、倭文。
ですが、気付くのが少し遅すぎましたね」
倭文はそう言って、持っていた手帳を広げると、一番新しいページに書かれていた文章を読み始めた。
「ふむふむ、なるほど、なるほど。あなたの後ろに隠れている女性、魔門愛は先月とてもセクシーな下着を購入したが、身に着ける勇気が出せず、未だ箪笥の奥底に眠らせている……と」
「へ、変態だーーー!!!」
倭文による思わぬ口撃に、魔門は叫び声を上げる。
「それがどうしたと言うんだ、貴様……」
遊間も顔を引き攣らせながら、問いかける。
しかし、倭文は平然とした様子でその問いに答える。
「いえ、相手の秘密を暴露することが、私の呪文の発動条件でしてね」
瞬間、遊間の後頭部に激痛が走った。
遊間が振り向くと、魔門の右腕が二発目の打撃を喰らわせようと勢いよく振り下ろされているのが見える。
「何をしている、助手!」
魔門の拳をすんでのところで回避しながら、遊間が詰問する。
「ち、違うんです。右手が勝手に……」
魔門は涙目で答える。
「ちっ」
遊間は舌打ちすると胸ポケットから杖を取り出し、それを魔門の右腕に向けながら素早く呪文を詠唱する。
「拘束魔術」
遊間の杖先から、青白く発光する縄のようなものが放出され、それが魔門の右腕を縛り上げる。
「なるほど、そういうことか……」
魔門に殴られた後頭部をさすりながら、遊間は倭文を睨みつけた。
魔門が倭文にかけられたのは、恐らく精神支配系の魔術。
その中でも効果が身体の一部位のみに限られる、比較的発動条件の緩い魔術だろう。
本来、精神支配系の魔術を行使するには、予め術式の対象と親密になり心を開かせておくなど、入念な準備が必要となる。
しかし、支配対象をごく一部に限定することで、その発動条件を緩和することが可能なのだ。
つまり、と遊間は考える。
「秘密の暴露を引き金に、暴露された人間の身体の一部を支配する、それが貴様の行使する魔術の正体というわけだ」
遊間の推理に倭文は「その通りです」と頷いて、補足する。
「どれだけ肉体的、精神的に優れた人間であっても、自分の秘密を他人に暴露されるその瞬間だけは、弱みを握られてしまったという恐怖や動揺によって心に隙が生じるもの。その一瞬の隙を突いて、秘密を暴露された人間の四肢を一つずつ無作為に支配する。
それが、我が倭文家に代々伝わる魔術の一つ……」
倭文は邪悪な笑みを浮かべながら続けた。
「『|人の弱みに付け込む悪魔』です」
***
悪趣味な魔術だな、と遊間は心の中で毒づいた。
それに、と遊間は続けて思考する。
先ほど倭文が暴露した魔門の秘密。それは、今日初めて対面した人間が半日程度の猶予で調べられるような秘密ではなかった。
プライベートの、それも一か月前に購入した下着に関する秘密。
それを知るには、魔門がその秘密を共有した人物――仮にそのような人物がいるのであれば、だが――に聞き込みをするか、魔門が実際に下着を購入する場面を目撃するかの二択しかない。
そして前者――伝聞によって得られた情報の真偽は、結局のところ本人の口から直接聞く以外に確かめようがなく、後者に至っては、今日初めて魔門と知り合った倭文には到底不可能なことである。
つまり、と遊間は結論付ける。
倭文豹牙はもう一つ魔術を隠している。それも恐らく、他人の秘密を盗み見る類の魔術だ。
――だとすると、下手には動けないな。
倭文と魔門、両者の動きに注意を払いながら、遊間は一歩後退る。
倭文の行動を振り返ってみるに、その魔術の鍵となっているのは、あの奇妙な紋様が刻まれた手帳か万年筆、あるいはその両方だろう。
問題はその魔術の発動条件が、先ほどの倭文の行動からは推測しきれなかったことだ。
一般的に強力な魔術の行使には対価が発生する。ここで言う強力とは、単に殺傷能力の高さなどといった力の強さを指すのではなく、その魔術の行使によって得られる成果を通常の方法で手に入れようとした場合に、どれほど実現困難かを意味する。
例えば、同じ「誰かの秘密を知る」という結果でも、「仲の良い友人の家に遊びに行って、その友人が目を離している隙に日記を盗み見る」のと、「初対面の相手の秘密を、その外見的特徴からズバリ言い当てる」とでは、後者の方が圧倒的に実現可能性が低い。
その実現難易度が高い現実を、魔素、あるいはエーテルと呼ばれる目には視えないエネルギーを消費することによって無理やり実現するのが魔術である。簡単な魔術であれば、空気中に漂うエーテルや術者自身の体内から捻り出した魔素を消費するだけで実行できるのだが、強力な魔術の場合、それだけではエネルギーが不足する。
対価とは、そのエネルギー消費を抑えるための節約術と言っても良い。
魔術師は魔術を発動する際に、複雑な術式や発動条件を用意することで、エネルギーの消費を現実的な量まで抑えるのである。
先ほど倭文が自白した「対象の秘密を暴露する」という「|人の弱みに付け込む悪魔」の発動条件も、その対価の一種というわけだ。
では、もう一つの魔術――相手の秘密を盗み見る魔術の対価は何か?
――効果の実現難易度的に、発動が無条件ということはまずないだろう。奴の言動の中に必ずヒントが隠されているはずだ。
遊間が思考を巡らせている間にも、万年筆のペン先を魔門の方へ向けながら、倭文がじわじわと距離を詰めてくる。
もう一つの魔術の発動条件が分からない以上、遊間の方から迂闊に攻撃を仕掛けることはできない。
ならば、と遊間が動き始めるよりも前に、倭文がまた手帳を開いた。
「魔門愛は十歳になるまでおねしょをしていた」
倭文は暴露する。
瞬間、遊間の首元めがけて魔門の左手がぐいと伸びる。
「同じ手が二度も通じると思うなよ」
遊間はそれを素早く回避すると、先ほど詠唱したのと同じ呪文を唱えた。
「拘束魔術」
「きゃあ」
両腕の自由を失った魔門が身体のバランスを崩して前方へと倒れ込む。
遊間はそれを地面に衝突するぎりぎりのところで抱きかかえる。
「腕を縛るのは仕方ないにしても、もうちょっと丁寧に扱ってくれませんか?」
「今はそんな悠長なことを言っている場合じゃないだろ」
遊間はそう答えると、すぐに次の呪文の詠唱を開始する。
「目眩ましの魔弾」
遊間の持つ杖の先から、倭文めがけて白く輝く光の弾が放たれる。
その弾は倭文の目の前で爆発すると、閃光弾の如く辺りを眩く照らし出し、周囲の人々の視界を一瞬で真っ白に染め上げた。
「うぉ」
倭文の野太い悲鳴が周囲に木霊する。
「今のうちだ」
遊間はそう言うと、拘束された魔門の両腕を無理やり引っ張って、建物の陰に身を隠した。
「痛い」
「しっ、静かに」
遊間は魔門の口元を手で押さえつつ、壁際からそっと倭文の様子を伺い見る。
「わ、私、今はおねしょなんてしてないですからね」
「そんなことはどうでも良い」
魔門の戯言を聞き流しながら、遊間は倭文の観察を続ける。
先ほどの閃光弾をもろに喰らったせいか、意識はあるようだが一時的に視力を失っているようだ。暫くは起き上がって来れないだろう。
今のうちに縛り上げて身動きできなくしてしまおうか、という安易な考えが遊間の頭をよぎる。
しかし、遊間はすぐに思い直す。
魔術師同士の闘いにおいて、相手の魔術の全容も分からぬまま、不用意に近づくことは自殺行為にも等しい。
倭文を捕らえるにしても、その前にもう一つの魔術の仕組みを解き明かす必要がある。
遊間は先ほどの倭文の行動を思い返す。
一つ目の秘密が暴露されたときも、二つ目の秘密が暴露されたときも、倭文の行動に共通していたのは、あの奇妙な紋様が刻まれた万年筆のペン先を魔門に向け続けていたことだ。ということは、秘密を盗む相手にあの万年筆のペン先を向けることが、呪文発動の鍵であると推測できる。この推理が正しければ、少なくともあのペン先に捉えられない限り、秘密を盗まれることはないだろう。
問題は、それを踏まえた上でどうやって倭文の魔術の全容を解き明かしていくか、だ。
秘密を盗み見る魔術の射程はどれくらいか。
ペン先を向けてから秘密を盗み取るまでの秒数はどれくらいか。
手帳を開く動作は魔術の発動に関係しているのか。
少なくとも、これらの条件を明らかにしておかなければ、倭文に近づくことは難しいだろう。
それだけではない。
倭文は他にも戦闘用の魔術を習得しているのか。
そもそも、本当に万年筆のペン先を対象に向けることが、魔術の発動に関係しているのか。
魔門を守りつつ、確実に倭文を捕縛するには、倭文の魔術の秘密は出来る限り解明しておくべきだ。
遊間があれこれと作戦を練っているうちに、視力を取り戻した倭文が不気味な笑い声を上げながら立ち上がった。
「あはははは。隠れたって無意味ですよ」
倭文は続ける。
「遊間大は未だにピーマンが食べられない」
同時に、遊間の左腕が重くなる。
「っ! 拘束魔術」
遊間は瞬時に自らの左腕を封印する。
しかし、倭文がさらに追い打ちをかける。
「遊間大の初恋相手は従姉である」
今度は、遊間の左足がずんと重くなる。
ちっ、と心の中で舌打ちしながら、遊間は自らの左足に向けて再び拘束の魔術を発動する。
――いつの間にやられていた。
建物の壁に寄りかかりながら、遊間は自らの行動を振り返る。もし可能性があるとすれば、魔門を庇って彼女の前に出たときか、あるいは暴走する彼女の腕を拘束するために、一瞬倭文から目を離した隙にだろうか。
いずれにせよ、魔門の秘密が盗まれたときに、遊間の秘密も一緒に盗まれていた可能性が高い。
――だとしたら、いくつ盗まれた。
倭文の魔術の矛先が魔門から遊間に変わったということは、魔門から奪った秘密はすべて暴露し尽くしたに違いない。あの一瞬で、魔門が奪われた秘密の数が二つならば、遊間が奪われた秘密の数も恐らく二つ。
――それならば、まだ勝機は残っている。
だが、遊間の甘い希望は、倭文の次の台詞によって、いともたやすく打ち砕かれる。
「ほほう。これはまた興味深い秘密ですね」
倭文の愉しそうな声が路地裏に響き渡る。
「魔門愛には別の人格が眠っている」
そして、と倭文は続ける。
「魔門愛の母親が失踪したのは、魔門愛のせいである」
二つの暴露によって、遂に倭文の支配魔術は完成する。
四肢の自由を完全に奪われた魔門は、よろめきながらも立ち上がり、倭文のもとへ引き寄せられるように走り出す。
「昏睡魔術」
遊間がそれを、間一髪のところで食い止める。
昏睡の魔術をかけられたことによって、魔門は即座に意識を失い、膝からがくりと地面へと崩れ落ちる。
「すまない、助手よ」
遊間は倒れ行く魔門の上半身を右足で何とか支えると、ゆっくりとその足を下ろして、地面に優しく寝かせつけた。そして、魔門に怪我がないことを確認すると、再び、脳をフル回転させる。
姿を隠しているにも関わらず、魔門の秘密が奪われた。
この事実は、万年筆のペン先を向けることが、魔術の発動条件とは無関係であることを示唆する。あるいは、遊間たちが姿を隠す前に、既にすべての秘密が倭文に奪われていたという可能性もある。
しかし、もし後者だとしたら、何故魔術師である遊間からではなく、無力な魔門から先に四肢を奪ったのかという疑問が残る。
しかも、一度にすべての四肢を奪うのではなく、何故、遊間と魔門の四肢を二つずつ、交互に奪っていったのか。
――ということは、やはりあの万年筆の存在はブラフであり、発動条件は別にある?
遊間がそう考えていると、倭文が不気味な笑い声を上げる。
「どんなに足掻いても無駄ですよ。私の正体が魔術師であるとあなた方に明かした時点で、既に勝敗は決していたのですから」
「正体を明かした時点で……だと」
遊間が苦悶の表情を浮かべる。
「ええ。私を敵に回した時点で、あなたたちの運命は決まっていたのです。
では、そろそろ終わりにしましょうか?」
倭文はそう言うと、手帳のページをめくる。
「ほう。これはまた随分な秘密を隠していたものですね。まずは一つ目の秘密」
遊間はそれを暴露させまいと、物陰から這い出し、杖の先を倭文に向ける。
しかし、間に合わない。
「遊間大は養子である」
呪文を唱え切る前に、遊間は右腕の自由を失う。
「ぐっ……」
「そして、二つ目の秘密」
倭文は自らの勝利を確信し、口角をぐにゃりと歪める。
「遊間大……貴様は、悪魔探偵ではない」