浜松万智との対面
代々木警察署、二階、二〇八号室。
建物の一番端に位置しており、署内でも滅多に人が立ち寄らない静かな会議室。
そこが、家宅捜索時の待機場所として、警察が浜松万智のために用意した部屋であった。
遊間はその部屋の前まで来ると、ノックもせずにいきなり扉を開いた。
「え? ちょっと!」
魔門の制止も聞かずに、遊間はずけずけと部屋の中に足を踏み入れていく。
そして、部屋の片隅で読書をしている浜松の姿を確認すると、彼女の目の前まで駆け足で近づいて行って、こう告げた。
「探偵の遊間大です。昼間はどうも。早速ですが……痛い」
慌てて後を追ってきた魔門が、遊間の後頭部にげんこつを食らわせる。
「部屋に入るときはノックをしろとあれほど……!」
「わ、分かった。だが、何もいきなり殴ることはないじゃないか」
浜松の存在を忘れて、二人は言い争いを始めてしまう。
遅れて部屋に入ってきた三上と咲良、そして原木の三人は、喧嘩している二人を見て、呆れた様子で互いに顔を合わせた。
浜松は軽くため息を吐くと、読んでいた小説をテーブルの脇に置いて、言い争いを続ける二人に声をかけた。
「あの、私に何か御用ですか?」
彼女の一言で、遊間は漸く本来の目的を思い出す。
「ああ、そうでした。改めまして、僕は悪魔探偵の遊間大。こちらの生意気な女は僕の助手の魔門。そして、後ろに控えているのが順に警視庁の原木くん、M**県警の三上、咲良くんです」
「誰が生意気な女ですか」
魔門は遊間の脇腹を小突いた。
「それで、ここへ来たのは他でもない。目黒有さんが殺害された事件について、彼の内縁の妻であるあなたから直接お話を伺いたかったからです」
遊間はそう言いながら会議室用の椅子を一つ、浜松の座るテーブルの前に持ってくると、そこに腰を掛けた。
「はぁ、私に答えられることであれば……」
浜松はやや気乗りしない声で答えた。
遊間はそんな浜松の様子など意にも介さず、会話を続ける。
「よろしい。ではまず、あなたと有さん、お二人の関係について詳しくお聞かせください。
有さんとあなたは内縁の関係にあったと伺っていますが、その認識で合っていますか?」
「はい、合っています」
浜松は小さな声で答える。
「有さんとは何年ぐらいのお付き合いで?」
「かれこれ……一〇年ぐらいでしょうか」
それを聞いた遊間は少し驚いた様子を見せると、途端に意地の悪い笑みを浮かべる。
「一〇年……となると、そろそろ入籍も視野に入れる年数ですよね。それにも関わらず、男の方は内縁の妻に隠れて女遊びですか」
「……何のことですか?」
遊間の挑発に、浜松の顔が一瞬こわばったのを遊間は見逃さなかった。
「言葉通りの意味ですよ。まさか、知らなかったわけではないですよね?」
「ちょっと、遊間さん!」
魔門が遊間に咎めるような視線を投げる。
しかし、遊間はそれを無視して続ける。
「あなたが有さんの不貞を疑い、探偵に調査を依頼していたことも警察は把握済みです。白を切っても無駄ですよ」
遊間のその言葉に浜松は深くため息を吐くと、それからゆっくりと口を開いた。
「そうですね。ここ数年、彼が他の女と外で関係を持っていたことには気付いていました。しかし、そのことが今回の事件に何か関係でも?」
「関係も何も、不貞に対する怨恨は十分殺人の動機になり得ますからね」
遊間は歯に衣着せず答える。
「怨恨? それはあり得ませんね」
浜松も変わらず落ち着いた口調で答える。
「それはどうしてです?」
と、遊間は聞き返す。
「単純な話ですよ。この一〇年で、彼にはすっかり愛想を尽かしてしまったんです」
浜松は事も無げに言い放った。
厄介な相手だな、と遊間は心の中で舌を巻いた。
遊間には、浜松のそれが本心からの発言なのか、それとも苦し紛れから来る嘘なのか、全く見当がつかなかった。
「分かりました。あなたがそう仰るのであれば、今はそういうことにしておきましょう。
次は、有さんの交友関係についてお聞かせください」
「彼の交友関係……ですか?」
浜松の表情が少しだけ暗くなる。
「何か気になることでも?」
遊間は先を促す。
「いえ、最近は同じ部屋で過ごしていても、殆ど話すこともなかったので。
彼、投資で多額の資産を得てからは派手に遊ぶようになって、昔の友人たちとも疎遠になっていたみたいですし。
ただ、度々歌舞伎町にある怪しげなお店などにも出入りしていたようで、私の知らないところで誰かしらの恨みを買った、ということはあるかもしれませんね」
淡々と語る浜松の様子を、遊間は無言で観察する。
「その投資について、もう少し詳しく伺っても?」
遊間が問いかけると、浜松は小さく頷く。
「ええ、私が分かる範囲でなら、ですけど」
「では失礼して……有さんはデイトレーダーとして成功して多額の資産を得たと伺っていますが、最初の投資資産はどうやって調達されたのでしょう?」
「仕事をして貯めたお金から、と聞きました」
「デイトレーダーをされる前は、別のお仕事をされていたのですね」
「はい。私と同じ会社に勤めていて、彼はそこでシステムエンジニアをしていました」
「ということは、彼との出会いもそこで?」
「ええ」
脳内で情報を整理しながら、遊間は質問を続ける。
「ちなみに、その初期投資資産はいくらぐらいだったか聞いていますか?」
「二、三百万くらいだったと聞いています」
「ふむ。まぁ、それくらいでしょうね」
遊間は顎に手を当てながら頷いた。
「となると、投資歴は結構長いんですか?」
「いえ、彼が投資を始めたのは、ここ、二、三年くらいのことです」
その言葉に、遊間は怪訝な表情を浮かべる。
「それだけ短い期間で月数千万ほど稼げるようになるとは、有さんは相当リスクの高い買い方をされていたのでしょうね」
「さあ、私には分かりかねます」
浜松は僅かに目を逸らす。
それに気づいた遊間は、何か考え事をするかのように暫く両目を瞑ると、それからゆっくりと口を開いた。
「まぁ、投資については一旦置いておきましょう。
次は、事件当日のあなたの行動についてお聞かせください」
「事件当日の行動……と言いますと?」
「言葉の通りです。聞いた話によると、有さんが倒れているのを最初に発見したのはあなただったとか」
「はい、その通りですが……」
浜松は不安そうな表情を浮かべながら頷く。
「発見場所は有さんの寝室、時刻は午後四時頃とのことですが、それまでの間、あなたは何処で何をしていたのですか?」
「ええと、三時頃まで友人と新宿でショッピングをしていました」
「その友人からも同様の証言が得られています」
と、原木が補足する。
「ショッピングはどちらのお店で?」
「新宿駅前のK**百貨店です」
「となると、午後三時に友人と別れたとして、代々木のご自宅には一〇分ほどで到着しますよね? 何処かへ寄り道でもされていたのですか?」
それは……、と彼女は言葉に詰まる。
「何か言いづらいことでも?」
と、遊間が追及する。
「いえ、ただ一冊だけ買いたい本があったのを思い出して、一人で書店を回ってから帰宅したんです。結局、その時は見つからなかったのですけど」
「それは何という本かお伺いしても?」
「あ、はい。こちらの本なのですが……」
と、彼女は脇に置いていた小説を手に取り、その表紙を遊間の方へ向ける。
『悪魔の追憶』――著、安里万由。
その本の表紙にはそう書かれていた。
それを見た瞬間、遊間の人差し指がピクリと反応する。
「安里万由先生による『悪魔』シリーズの最新作で……私、このシリーズの大ファンなんです。
偽物の神に支配された希望のない世界で、邪神に一人で抗い続ける主人公の生き様が美しくて。ただ、凄惨な描写が多くて、人に紹介するのは少し躊躇われるのですが」
と、浜松は気恥ずかしそうに答える。
「分かりました。つまり、その本を探していて、帰宅するのが遅くなったわけですね」
一方、遊間はその話題を早く変えたいのか、駆け足で話を進める。
「帰宅した時、何か異変などは感じられましたか?」
「異変……ですか?」
浜松は気の抜けた声を上げる。
「例えば、家具の位置が少しずれていたとか、壁や床に見覚えのない傷があったとか、そういうことは?」
「いえ、特にそういうことはなかったです」
その返答に、遊間は首を傾げる。
もし犯人の目的が、予告状を利用して第三者に罪を擦り付けることであったならば、犯人は、外部の人間による犯行であることをアピールするために、侵入の痕跡をわざと残したはずである。
しかし、犯人はそうしなかった。
では、侵入の痕跡を残さないことで内部犯――つまり、目黒の身内である浜松による犯行だと見せかけたかったのだとしたら、どうだろうか?
それもやはり不自然である。
何故なら、他の事件における彼女のアリバイは盤石であり、罪を被せる対象として適切でないからだ。
つまり、遊間の推理を前提とすると、侵入した痕跡が残っていないという状況は明らかに不自然なのである。
あるいは、予告状によるアリバイが成立することを知っていて、わざと痕跡を残すなどといった小細工をしなくても、自らの潔白を証明できると犯人は考えていたのだろうか?
――そうなると、やはり浜松が怪しくなるが……いや、それすらも、浜松に疑いを向けさせるためのフェイクかもしれない。
「あの、どうかしましたか?」
浜松の心配そうな声に、遊間ははっと我に返る。
「いえ、すみません。少し考え事をしていただけです」
遊間は気を取り直して、質問を続ける。
「では、有さんの遺体を発見された時の様子を詳しく聞かせていただけますか?」
「そうですね……今、思い出しているので、少し時間をください」
今度は浜松が深く考え込んだ。
「確か、帰宅してすぐに夕食の準備をしようと思って、台所へ向かったんです。その途中、浴室から水の流れる音が聞こえてきて。その日は暑かったので、彼、シャワーでも浴びているのかなと思って、浴室に向かって声をかけたんです」
「なるほど。それで?」
遊間が続きを促す。
「それが、何度か声をかけても返事がなかったもので。もしかしてシャワーの栓の閉め忘れかと確認のために扉を開けたら、有くんが……その……」
浜松はそこで小さく声を震わせた。
彼女の瞳から一筋の涙が流れる。
わざとらしい涙だ、と遊間は醒めた目でその姿を観察する。
「浜松さん。それ以上、無理して思い出さなくても良いんですよ」
嗚咽を漏らす浜松に、見かねた魔門が横から口を挟む。
それに対し、遊間は「余計なことをするな」と目で合図を送る。
「いえ、大丈夫です。お見苦しいところをお見せしました」
浜松は謝罪し、それから一瞬苦しげな表情を見せてから、口を開いた。
「それで、扉を開けたら……彼が浴室の床の上で血を流して倒れているのを見つけたんです」
「その時、浴室内に何か不審な点は見当たりませんでしたか?」
遊間は浜松の表情など気にも留めず、即座に畳みかける。
浜松は少し考えてから答える。
「いえ、そのようなものは何も……」
やはりか、と遊間は心の中で舌打ちする。
これ以上、彼女に遺体発見時の状況について尋問しても恐らく時間の無駄だろう。
意図的に情報を隠しているのか、それとも本当に不審な点など何もなかったのか。
いずれにしても、この女からは何も引き出せそうにない。
もし、これが意図的なものだとしたら、彼女は相当な切れ者だ。
遊間は室内の壁掛け時計をちらりと見遣った。
犯行予告のあった九月一一日――つまり明日まで、刻々と時間が迫っている。
――急がなければ。
遊間はこれまでの浜松との会話を振り返った。
不可解な点は二つ。
一つは、少ない種銭にも拘わらず、短期間で資産が急増した目黒の投資手法。
もう一つは、人ひとりが殺されたにしてはあまりに異変のなさすぎる目黒宅の状況。
それらのうち、遊間が特に引っかかっていたのは、前者の投資手法についてだった。
常識的に考えて、投資経験の全くなかった初心者が、たった数年で月数千万円を安定して稼げるようになるなど、余程の幸運が重ならない限り、まずあり得ない。だとすれば、そこに何らかの魔術的関与があったとしてもおかしくはない。
先ほどの会話のなかで目黒の投資手法について尋ねた時、浜松の目線が僅かに横へ逸れたことを遊間は思い出す。
彼女が目黒の投資に関する秘密を何か握っていて、それを隠そうとしている可能性は高い。
そして、もしこの仮定が正しければ、その魔術の正体を暴くことが事件解決の糸口になるかもしれない。
――であれば……。
そこまで瞬時に考えて、遊間は口を開く。
「分かりました。事件当日の行動についての質問はこれくらいにしておきましょう。最後に、もう一度だけ有さんの投資について聞かせてください」
遊間がそう口にした次の瞬間、突如、部屋の中に数人の警察官が無言で押し入って来た。
「お取込み中失礼します。すみませんが、彼女の身柄はこちらで預からせていただきます」
警官らはそう言うと、浜松を取り囲む。
「待ちたまえ、君たち。今、大事な質問の最中なんだ」
遊間が立ち上がって抗議する。
「何があったのかは存じませんが、少し急すぎるかと。せめて、あと数分。今の質問への回答が終わるまで待っていただけませんか?」
原木も遊間に助け船を出す。
しかし、警官たちは一歩も譲らない。
「申し訳ありません。浅瀬課長からの命令でして……」
警官らはそう言うと、浜松に荷物をまとめるよう命じる。
遊間は魔術で警官たちの動きを止めようと胸ポケットから杖を取り出すも、三上にそれを止められる。
やがて浜松が荷物をまとめ終えると、警官たちは遊間たちに一礼してから、彼女を連れて部屋を後にした。