再出発
目黒邸の駐車場に隣接する、スチール製の小さな物置。
その物陰に、遊間は一人うずくまる。
夏の残り火のような、仄かな熱を含んだ生暖かい風が遊間の頬をそっと撫でる。
その感触をきっかけに、遊間はあの日のことを思い出す。
ばちばちと音を立てながら燃え崩れていくお屋敷。
その光景を前に、ただ立ち尽くすことしかできない二人の少年少女。
一人は遊間――即ち、幼き日の自分。
そして、もう一人はあの日、遊間が救えなかったあの人。
赤く染まる世界の中、泣きじゃくる遊間とは対照的に、あの人――万由姉は微動だにせず、崩れゆくお屋敷をただ見つめている。
やがて、屋敷の全てが炎に飲み込まれると、彼女はまるで何かを決意するかのように拳をきゅっと握り、口を真一文字に結ぶ。
決して勝ち目のない……いや、勝ち目どころか、挑むことそれ自体に何の価値もない。
そんな希望のない戦いに、これから立ち向かうことになる戦士かのように。
遊間の記憶はここで、一度途切れる。
――もし、あの時。
大人になった遊間は考える。
――もし、あの時。僕にもっと力があれば……。
「こんなところにいたんですか? 探しましたよ」
魔門の声に気付き、遊間ははっと顔を上げた。
「すまない、助手。みっともないところを見せてしまったな」
遊間の謝罪に、魔門は声を上げて笑いだす。
「何を今さら、そんなこと気にしているんですか。遊間さんなんて、出会った時からずっと、みっともないままじゃないですか」
「はは、そうだな。その通りだ」
遊間は自嘲の笑みを浮かべる。
「僕は探偵以外に脳がない……いや、その探偵としての役割すらきちんと果たすことの出来ない、どうしようもない男だ」
そんな遊間に、魔門は優しく微笑みかける。
「何らしくないこと言っているんですか、遊間さん。いつもなら、この悪魔的頭脳に解けない謎などない、と息巻くところじゃないですか」
それに、と魔門は続ける。
「遊間さんは一流の……少なくとも私から見れば、いつだってスパッと事件を解決してくれる優秀な名探偵ですよ。それは、助手である私が保証します。かつて、遊間さんに命を救われた、この私がね」
「助手……」
遊間は魔門を見つめ返す。
そして、思い直す。こんな自分にも、まだ救えるものがあるのかもしれないと。
「そうか……そうだな。僕が、僕こそが、悪魔探偵、遊間大だ。
この僕に解けない謎などあってはならない。すぐに現場へ戻るぞ!」
遊間はそう言うと、勢いよく立ち上がった。
***
「遊間、先ほどはすまなかった」
遊間が部屋へ戻るなり、天目が頭を下げた。
遊間はそれを片手で制止すると、自らも頭を下げ、謝罪の言葉を述べた。
「こちらこそ、手を上げてしまってすまなかった……引き続き、捜査に協力してくれるだろうか」
「ああ、勿論だ」
天目は力強く頷く。
それを見て、遊間も力強く頷き返す。
「さて……」
遊間は一呼吸置くと、室内に居た全員を呼び寄せて言った。
「諸君、先ほどは取り乱してすまなかった。
僕はこれから、自分の推理に見落としがないか、もう一度確かめてみようと思う。
天目と警視庁から応援に来てくれた警察官諸君は引き続き、屋内の捜索を。
三上と原木くん、それに助手と咲良くんの四人は、すまないが僕に知恵を貸してくれ」
「了解だ」
三上を筆頭に、その場に居た全員が一斉に頷いた。
「さて、どこから見直すべきか」
目黒の寝室を抜け、一階にあるリビングの片隅に四人で陣取ると、早速、遊間が口を開いた。
「こういう時は、まず前提から疑ってかかるべきだな」
遊間の言葉に、原木が疑問の表情を浮かべる。
「前提、と言いますと?」
「この事件の場合、本当に魔術の関与がないと成しえない犯行だったのか、などだな」
遊間は答える。
「例えば、共犯の可能性。確か、容疑者たちの間には接点が全くなかったという話だが……」
「はい。交友関係を洗った限りでは、彼らの間に接触した形跡は見当たりませんでした」
原木が自信ありげに答える。
「しかし、それはあくまで現実世界での話だ。仮に、彼らがネットを介して交流していたとしたら?」
「それもないかと思われます」
遊間の仮説を、原木が即座に否定する。
「SNS上でのやり取りやオンラインゲーム上での会話、メールの履歴等、通信手段になり得るものについては一通り確認しましたが、交流のあった形跡は何も」
「だが、犯人は犯行予告メールの送信元を偽装できる程度には、通信技術に関する知識を持った人物だ。であれば、メールの履歴を完全に削除することだって……」
遊間が食い下がるも、原木は首を横に振る。
「ローカルマシン上から削除することはできても、メールサーバーには記録が残るので、それも難しいと思われます」
「なるほど……まぁ、最初の推理通り、どうせ共謀するのであれば、予告状など出さずに交換殺人でも企てた方が、犯人の特定にもつながりにくく、手っ取り早い。となると、やはり犯人の数は一人であると考えるのが妥当だろうな」
遊間がそう言うと、隣で魔門が控えめに右手を挙げた。
「あの、私からも一つ良いですか?」
「どうした助手、珍しいな。良いぞ、言ってみろ」
遊間から許可を得ると、魔門はおずおずと口を開いた。
「あの時と同じように、シャンによる人格操作の可能性……はどうでしょうか?」
「ふむ。着眼点は悪くない……が、それは精神支配による殺人と同様の理由で却下だ。まず……」
遊間が続けようとすると、咲良がそれを遮った。
「あの……シャンってなんすか?」
遊間が三上に非難がましい視線を向ける。
三上はすまなそうな顔をして首を横に振る。
「そうか……きみはまだ特殊刑事課に配属されたばかりの新人だったな」
遊間はため息を吐くと、咲良の方へ向き直った。
「簡単に説明すると、シャンとは、人の脳に寄生して、その記憶や人格を書き換える力を持つ、昆虫のような見た目をした生物だ。クトゥルフ神話に登場する同名の神話生物のモデルにもなっていて、非魔術師の間でも、その存在は広く知れ渡っている」
「記憶や人格を書き換える生物っすか?!」
咲良が素っ頓狂な声を上げる。
「ああ、そうだ」
遊間が肯定すると、咲良はなるほどっす、と頷く。
「世の中には信じられないような生物がいるんっすねー……あ、続きをどうぞっす」
遊間は先ほどより深くため息を吐くと、魔門の方へと向き直り、説明を再開する。
「それで、シャンによる人格操作ではあり得ない理由だったな。
まず、シャンを使役したとなれば、その痕跡――例えば大規模な魔法陣やシャンの羽から落ちた鱗粉など、何かしらの形跡が残るはずだが、そういったものは今回、殺人現場や容疑者の自宅からは見つかっていない」
遊間はそう言うと、室内を指し示す。
「また、シャンを利用して人格の改変をおこなうには、シャンを操作対象の脳へ寄生させる必要があり、容疑者への接触が不可欠になる。
原木くん、容疑者間に接点がないというのは、彼らの間に共通の知人も存在しないという認識で合っているかな?」
「はい、合っております」
原木は首を縦に振る。
「であれば、第三者が彼らを操ったとも考えづらい。
そもそもシャンを使役できるのであれば、わざわざ予告状によるアリバイ工作などせずとも、人格改変を駆使して赤の他人に殺人を代行させることも可能なわけだしな」
遊間の説明に、魔門は「そうですか」と肩を落とす。
それと入れ替わりで、三上が口を開く。
「俺はやっぱり、魔道具そのものどころか、魔術や魔道具を使用した痕跡すら見つかっていないという事実が気になるな」
その言葉に、魔門は興味深げな面持ちで尋ねる。
「そもそも、魔術や魔道具を使用すると、どのような痕跡が残るんですか?」
「そうだな。この辺りで一度、貴様らにも説明しておくか」
遊間は魔門と咲良の方を一瞥すると、胸ポケットから手帳とペンを取り出した。
「魔術や魔道具を使用した痕跡は、主に物理的な痕跡と魔力的な痕跡の二種類に分けられる。
物理的な痕跡は、そうだな……先ほど話題に上ったシャンを例に挙げるなら、奴らを使役するために描かれた魔法陣だとか、シャンの羽から散らばった鱗粉だとか、そういった物理的に残る何かのことを言う」
遊間は手帳の一ページを丁寧に切り取って真ん中に線を引くと、その左側に緻密な魔法陣と畝模様を持つ扇形の羽の絵を描いた。そして、それらの上に「物理的な痕跡」という一文を書き加える。
「一方で魔力的な痕跡というのは、平たく言うと魔術の残滓のようなものだ。
古くから魔力の正体は、魔素、あるいはエーテルと呼ばれる、現代の科学技術では観測できない暗黒エネルギーの一種であるとみなされてきた。そして、それらは生物の体内や大気中など様々なところに存在し、そのエネルギーを消費して現実の事象に変化を与える技術のことを僕たちは魔術と呼んできた」
遊間はそこでいったん言葉を区切ると、紙切れの右側に渦を巻いた靄を描き、その上に「魔力的な痕跡」と付け加えた。
「魔力的な痕跡とは、その魔術行使に伴うエネルギーの減少、もしくは放出によって、周囲のエネルギーバランスが一時的に崩れて発生する、大気中の魔力乱れを指す言葉だ。そして、魔術の行使によって発生した魔力乱れは、暫くの間、同じ空間に留まり続け、魔術が使用された場所を特定する際の大きな手掛かりとなる。
ほら、捜査を開始する前に、僕から三上へ魔術探知機の手配を指示しただろう? あれは、大気中の魔力乱れを可視化して、魔力的な痕跡探しをサポートしてくれる魔道具なんだ」
遊間が三上に目配せすると、三上は懐からサングラスのような見た目をした魔道具を取り出し、それを魔門の目の前に置いてみせた。
「しかし、だ。魔力的な痕跡は所詮、大気中の魔力乱れに過ぎず、その存在は不安定で時間の経過とともに少しずつ薄れてゆき、やがて消えてしまう。
だから、魔力的な痕跡というのはあくまで決定的な証拠を見つけ出すための補助的なものに過ぎず、本命は魔術の発動によって発生した傷や魔術の行使に使われた魔道具そのものなど、形が変わりにくく証拠としての信用性が高い物理的な痕跡なのだよ」
遊間はそこまで説明すると、手帳とペンを内ポケットへと仕舞い込んだ。
「それで、三上。貴様も何か思いついたのだろう? 言ってみろ」
遊間に促され、三上が口を開く。
「ああ。痕跡が見つからないということは、逆に言えば、犯人は魔力的な痕跡が残らない、あるいは残りにくい手段を犯行に使ったと考えることができるんじゃないか? 例えば、発動に魔力消費を伴わない魔道具だとか、一回使用すると消失する魔道具だとか……」
三上が仮説を述べると、遊間は小首を傾げる。
「発動に魔力を使わないタイプの魔道具もなくはないが、その効果は限定的なものが多い。未来の改変が出来るレベルとなると、やはりそれ相応の魔力消費が求められる。魔力を消費しないもので今回の犯行に使えるような魔道具は……すまないが、僕にはさっぱり思いつかない。念のため、後で天目に聞いておこう。
それと使い捨てタイプの魔道具に関しては完全に却下だ。使い切りの魔道具であろうと、発動の際に魔力を消費するものであれば、必ず何らかの痕跡が残るはずだ」
それを聞いて、三上は別の仮説を口にする。
「であれば、魔術の発動から相当な時間が経過していて、魔力的な痕跡は既に消えてしまった後だとか、あるいは魔術が使われたのは、犯人の自宅や犯行現場から遠く離れた場所であったとか……。
ほら、コストの問題から一度却下されたホムンクルス仮説があるだろ? あれも、此処から離れた山奥などで予めホムンクルスを製造しておけば、犯人の自宅や犯行現場には魔力的な痕跡を残さずに済む。それに、ある程度の知能をホムンクルスに持たせておけば、自力で警察の捜査から身を隠すことも可能になるはずだ。依然として後処理の問題は残るけどな」
「一考の余地はある……が、その可能性は低いだろう」
遊間は頭を振って否定する。
「仮に後処理の問題を解決できたとしても、だ。身体組成の約六割を魔素が占める、魔術的存在であるホムンクルスが何の痕跡も残さずに犯行を成し遂げられるとは考えづらい。
時間の経過に関しても、魔力の痕跡が消えてしまうほど長時間効果が持続する魔術の中に、今回の事件で使えるものが果たしてあるかどうか……。仮に使われたのが、特定のタイミングで効果の発動する時限式魔術だったとしても、仕掛けてから発動するまでの時間が長いほど、その術式の制御は難しくなる。そもそも、その手の魔術において魔力的な痕跡が発生するのは効果の発動時点であることが多い」
遊間の反論に、三上はお手上げだといった様子で肩を竦める。
ちょうどその時、リビングの扉が開いて天目が顔を出した。
「こっちは捜索が終わったぜ」
「ああ、ご苦労。で、どうだった?」
遊間が尋ねるも、天目は首を横に振る。
「そうか……これはもう四の五の言っていられない状況だな。
ついでに聞いておきたいのだが、魔力を一切消費せずに遠隔で人を殺せたり、自分の分身を作れたりするような魔道具に心当たりはあるか?」
天目は怪訝な顔をする。
「ああ? そんな魔道具、聞いたことねぇよ。魔力の消費なしにそんな大それたことが出来るのなら、それはもう神話の中に出てくる神具の領域だろ」
天目の回答に、遊間は自嘲的な笑みを浮かべる。
「神具の領域……か。はは、その通りだ。魔術なしでは到底成し得ない事件……にも拘らず、魔道具はおろか、魔力の痕跡すら見つからない。まさしく、神に弄ばれている気分だよ」
遊間はそう叫びながら、天井を睨みつける。が、すぐに周囲の視線に気が付くと、恥じ入るように視線を戻した。
「また取り乱してしまったな。すまない。きみたち、他に何か気付いたことはないか?」
遊間はその場に居た全員に問いかける。
しかし、誰からも声は上がらない。
遊間は一つため息を吐くと、徐に口を開いた。
「明確な答えが導き出せないということは、恐らく推理に必要な情報がまだ足りていないのだろう。
であれば、その情報は自分の足で探し出すしかあるまい。
そうだな……まずは、まだ着手出来ていない容疑者たちの取り調べから始めるか。原木くん、彼らとの面会準備を頼めるかな」
遊間からの要請を受け、原木は威勢よく返事する。
「はい、すぐに手配いたします」
「よろしい。それと捜査本部には明日、目白周辺の巡回強化と容疑者たちの監視を強めるよう伝えてほしい。言っておくが、これは万が一のときのための保険だ。第四の事件が発生する前に、何としてでもこの僕が犯人を突き止めてみせる。悪魔探偵の名に懸けて、な」
遊間はそう言うと、鹿撃ち帽を深く被りなおした。