第2話 おとこのこ
「おしまい。」
おどろおどろしい読み聞かせとは違い、先生は絵本を労るようにゆっくり閉じた。膝の上に絵本を置いて顔を上げると、園児達の心の中の顔が次々と覗かせ始めたようだ。
「こわ〜いよ〜。」
「やまびとさんは、どうしたの?」
立ち上がって部屋から逃げ出そうとする子、背を向けて啜り上げる子。声はどんどん重なり、耳をつんざくような勢いに発展した。
「怖いだろう?でも、大丈夫。安心して?みんなを守ることの大切さが、よーくわかっただろう?」先生は高い背をかがめると、園児の背中をさすり、微笑みを浮かべた。
「いい子にしていたら、怖いことなんて何も起きない。」落ち着いた園児の頭を撫でると、手を叩き、声を張り上げた。
園児の中では、うれしいことや、かなしいことがあると、竹田達秀先生にお話することが自然となっていた。みんなが一斉に話し始めても先生は遮らずに、一人一人しっかりと耳を傾けてくれる。
「ね〜?そのあとはどうなったの?」怯まなかった子もいたようだ。立ち上がって、手を握り締めている。静かになった部屋では、みんなに聞こえた。
「おっと、ごめんごめん。話すのを忘れていたよ。実は、やまびとさんを見た人はいないとも言われているんだ。だから、やまびとさんは今度こそ旅立ってしまったかもしれないね。」達秀先生はメガネを光らせ、つるりとした肌がさらに白く際立った。
「え〜?わかんないの?」腕を上げて抗議する子、座り直す子。反応は様々だった。
そんな園児達の中に、身体を縮こませて、すっかり埋もれてしまった子供がいた。まだ、絵本の世界に閉じ込められているのかもしれない。
「かつしくん、大丈夫ですか?」達秀先生の声が、彼の意識を連れ戻したようだ。今も目を丸くして、しきりに動かしている。
「だ、だいじょうぶ…。」身じろぎをしなくなり、さらに弱々しく見える。まだ夢見心地なのかもしれない。
「本当かい?それならいいんだけど。何かあったら、先生に言うんだよ?」
「うん…。」柔らかくぷっくらした頬から、か細い声が漏れた。
第一東男幼稚園では、大きくなった時の備えの1つとして、このようなことも行う。有名な童話を読み聞かせることで、幼子に教えるのだ。どれほど危険なのか。どれほど恐ろしいものなのかを。男の子は知る必要がある。
その度に、少しぽっちゃりとした身体を、プルプル震わせていた。怪物に食べられてしまうのではないかと恐れて。
「幼稚園で怖いことがあったの?」靴を脱がせてもらったのに、玄関でうろうろしていると、今日も言われてしまった。
「おかあさんも、ぼくをたべちゃうの?」何度も口を開いては閉じてを繰り返したが、やがて、かつしは打ち明けた。
「幼稚園で何があったの?」しばらくの間、目をぱちくりさせると、膝をつき、肩に手を乗せた。
「たべられちゃったの。いっぱい がんばったのに。ぼくも、たべられちゃうの?ママは たべないよね?だいじょうぶ?」話し出すと、止まらない。かつしは拳を握りしめていた。
「かっちゃんは、ママがそんな酷いことをすると思っているの?」急に崩れると、目元に手を当てて、しくしくと泣き出した。
「しない!でも…。」かつしは大きな声を出していた。次第に目の前も頭も、ぼんやりしてどうしたらいいのかわからなくなってきた。
「お外の人はね?ママみたいに、かっちゃんを大切に思っていないの。だから、食べようとするのよ。自分のことしか考えていないから。こ〜んなに大切に思うのなんてママぐらいなのよ。」かつしはぎゅ〜っと抱きしめられた。少し息が詰まったけれど、自然と苦しくはなかった。むしろ距離が近づき、ほっと心が温かくなった。
「うん。」かつしは、一言返事をするのが精一杯で、髪の毛をサラサラと撫でられるがままだった。
いつも明るく、溌剌としている。落ち込んだところなんて見たことがない。いつだって、かつしの悩みを吹き飛ばし、元気を与えてくれる頼りになるママの黒田秋穂。
明るめの茶髪を、顎のラインでくるっと巻かれたボブスタイル。大きな優しい目が印象的だけど、細く歪められた時が怖い。この前も、玩具のお片付けで雷が落ちたことを覚えている。
息子は、お母さんから丸みを帯びた目を受け継ぎ、黒髪の毛先は少しくしゃっとした男の子である。肌は白く、まだまだ恥ずかしがり屋さんである。ようやく幼稚園で、秋穂お母さんの後ろから離れられるようになったところだ。
かつしが幼稚園に慣れた頃、お友達や先生と仲良くなると、気付いたことがあった。
それは、かつしが男の子ということだった。不思議なことに、かつしが生きてきた世界の中では、幼稚園に行かない限り同じ男性には出会えなかった。
今まで、人間はみんな一緒だと思っていた。家で遊んでいても、テレビをつけても、車から外を眺めても、かつしが歩き回れる範囲では、同じ男の子を見つけることはできなかった。
「どうして、ようちえんだけでしか あえないの?」かつしの疑問を、秋穂お母さんに尋ねたことがあった。どうやら、男の子は女の子に比べて遥に人数が少なく、普段外を歩いている男の子はほとんどいないらしい。
だから、男の子は大切に育てられているようだ。そしてどうやら、かつしも数少ないその中の1人だったらしい。
これは、かつしが幼稚園に通い出したことで初めて世界が広がった瞬間であった。
達秀秋穂