第10話 秋穂の迷い
曇り空が広がり、暗くどんよりとした空気が支配していた。
「ぜんぜん みえない。」かつしは窓ガラスに両手をベッタリくっつけた。
「今日のお日さんは元気がないわね。お日さんも嫌なことがあったのかもしれないわ。せっかくだから、ママとお話ししましょう?」
「なにするの。」かつしは窓ガラスから、手を離した。
「こっちを向いてくれてもいいじゃない。こんなにぶすっとしちゃって〜。せっかくの可愛いお顔が台無しよ。」秋穂お母さんに、かつしの両頬は掴まれて、軽く捻られた。
「なっ、なに?はなしてよ。」かつしは咄嗟に身体を捩ると、何の抵抗もなく解放された。
「ママ、へんだよ。」かつしは徐々に声を抑えられなくなってきた。きっと、くすぐったかったからだよ。
「そうそう。かっちゃんは、そうやって笑ってる方がいいわ。」
「もう。そんなことしなくても だいじょうぶだよ。」
「かっちゃんが元気になったからいいじゃない。それとね?今度のお休みに、ママどうしてもお出かけしないといけないの。ヘルパーさんや伸利子さんにもお願いするんだけど、かっちゃんお留守番できる?」秋穂お母さんは両手を合わせて、ごめんなさいをしていた。
「まかせて。おるすばん、できるよ。」かつしは、ここ最近で一番の大声が出た。
「本当にお留守番できるのかしら?」秋穂お母さんはボソッと呟いた。
かつしはお留守番のことで頭が一杯だった。もしかしたら、のりこさんが たたかいを おしえてくれるかもしれない。どんなことが おこるのかな?かつしは待ち遠しくなってきた。
「ごめんなさいね?すぐに終わるから。伸利子さんも申し訳ないのですがお願いします。」秋穂お母さんが頭を下げていた。
「お任せください、奥様。ごゆっくりなさってください。」
「ありがとう、伸利子さん、かっちゃん。帰ってきたら、一杯遊ぶから許して?」秋穂お母さんはそう話すと、身体をシートに預けた。
「ぼくなら、だいじょうぶだよママ。もうこんなに おおきくなったんだから。」かつしは腰に手を当てて、胸を張った。
「頼もしいわね、かっちゃん。」
「だからね?ぼくね?おそとに でてみたい。ずっと みてるだけなの つまんない。」かつしはチラチラと下から、秋穂お母さんの様子を盗み見た。
秋穂お母さんは何も言わずに、目を閉じてじっとしてしまった。車内には、かつしの服の擦れる音だけが響いていた。
「ママ?ダメなの?」
「黙っちゃって、ごめんなさい?かっちゃんのお願いは叶えてあげたいんだけど、迷っているの。どうしてそんなにお外に行きたいの?」秋穂お母さんは腕をさすりながら答えた。
「おんなじとこばっかりだもん。わかんないけど、きになるの。」かつしは両手を上下に振り回した。
「うーん。でもお外は危ないって、知ってるでしょう?前より大きくなったとはいえ、どうかしら?お外には怖い女の人が一杯いるのよ?かっちゃんは大丈夫?」秋穂お母さんは詰まりながらも、かつしから目を離さなかった。
「それはこわいけど…。でも、みてるだけはいやだ!」一度は顔を背けてしまったが、かつしは秋穂お母さんの目を見返した。こわいのより、このままのほうが、もっといやだ。
「わかったわ。でも、もう少しだけ待ってくれる?ママは考える時間が欲しいの。お願いできる?かっちゃん。」
「わかった。はやくしてね?」
秋穂は挨拶を終えた息子が、園内に入る様子を眺めていた。やがて姿が見えなくなると、達秀先生に声をかけた。
「先生、かつしの様子はいかがでしょうか。幼稚園で元気にやっていますか?」普段はかっちゃんがいるから気にならないけど、いざ1対1になると、やっぱり緊張しちゃうわね。それにどこかしら?圧力も感じるのよ。余計な話をせずに、さっさと帰れってことかしら?きっと、護衛が潜んでいるのね。
「かつし君ですか?元気ですよ?かずき君とけいすけ君といつも一緒で、楽しそうに遊んでいますよ?」達秀先生は振っていた手を下ろして、こちらに身体を向けた。
「それならいいんですけど、お友達におかしなことを言ったりはしていませんか?」達秀先生はスタイルがよくって、いつも他の奥様方から羨ましがられる程の人気を誇っているのよ。ただ優しい雰囲気を纏う一方で、私にはどうも近づき辛さを感じてしまうのよね?でも絶対誰にも言わない。だって、こんな考えがバレると刺されかねないわよ?
「浮かない顔をされてどうかなさいましたか?かつし君のことで何か気になることでも?」達秀先生の目の色が変わった気がした。今回ばかりは気のせいじゃないわ。鋭さも増して、迫力がすごい。よくよく考えれば、この若さで幼稚園の先生よ?男性の中でも、特に狭き門を勝ち取った猛者よ?やっぱり只者ではない気がするわ。
「え、ええ。近頃、積極的すぎるような気がしまして。まだ小さいのに、荷物を運ぼうとしたり、強くなりたいと言ったりと。成長は嬉しいのですが、どう判断したら良いのかと。女の子と同じ興味を持つことが多くてですね?先生はどうお考えになりますか?」
「そうでしたか。こちらでも似た傾向にあります。園庭で遊ぶ際は普段の様子とは違い、誰よりも生き生きとしています。それこそ、お友達が先にギブアップしてしまう程ですよ。最近見られるのは、室内でも窓を眺めて、ぼーっとしていることがあることですね。」
「全く。やはり、言い聞かせた方がよろしいのでしょうか?」初めは達秀先生につられたけれど、段々笑えなくなってしまったわ。今後が心配ね。
「気にはなりますが、もう少し様子を見守りましょう。幼少期に無理に邪魔するのも、あまり得策ではありません。本人も変化に戸惑っているでしょうから。」
「確かにそうですね。もっと、あの子を信じてみようと思います。ありがとうございます。先生のおかげで悩みが晴れました。」秋穂はお辞儀をした。
「滅相もございません。お子さんの急な変化には戸惑うでしょう。特に男の子の場合は。」
「本当に知らないことだらけで。」秋穂も表情を和らげた。
「こちらもしっかり見守りますので、何かあればご相談ください。成長における一時の迷いかもしれません。本人のやりたいようにさせてあげましょう。それでもダメならば、護身術を学ぶのはどうですか?」達秀先生は一緒に頑張りましょう、と添えた。
「それは良いですね、助かります。」秋穂は感謝を伝えると立ち去った。
「ふぅ、なんだか疲れたわ。」一気に気が抜けてしまった。でも秋穂は、達秀先生とのお話で決断することができた。
秋穂伸利子達秀