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第2話 「沈黙の輪郭、あるいは倫理という言葉」

 森の夜は静かだった。木々のざわめきが耳に染み込んでくる。焚き火の残り香が背中に残っていた。

 私は、命を繋いだばかりの身体を引きずりながら、少女の背を追っていた。


 あの火刑台から、どれほどの距離を歩いたのかは分からない。

 足もとは苔と湿った落ち葉が広がり、風が髪をさらうたび、火に焼かれる寸前の熱が再び皮膚に甦った。


「……なぜ、助けた?」


 私は背中越しに問うた。彼女は立ち止まりもせず、ただ答えた。


「君の問いには“構造”があった。それ以外に理由はない」

「構造?」

「言葉に筋が通っていた。破綻せず、逃げずに、正しさの所在を探していた。魔族にとって、そのような“問いの形式”は、価値がある」

 

彼女は滑るように森を歩いていく。

 その口調は冷たいというより、均質だった。感情がないのではなく、感情という波そのものを持たない印象を受けた。


「それだけなのか」

「それ以上の理由が必要か?」


 私は黙った。正論だった。けれどその論理の澄みきり方が、かえって不気味に感じられた。

 それでも、彼女が私を焼かれる寸前から救い出したのは事実だった。問いを拒まない目をしていた。

 神にすがりつく群衆よりも、ずっと静かで、ずっと理性的なまなざしだった。

 彼女の髪は、月明かりに照らされて黒銀に光っている。森の夜に沈むには、あまりに異質だった。

 だがそれは、私自身にも言えることだった。

 この世界にとって、私は異質だ。

 正義を語る者たちに焼かれそうになり、魔族に救われた。

 それだけで、自分の立ち位置は語り尽くせてしまう。


「君たち魔族にとって……“正しさ”とは何なんだ?」


 彼女は一歩も足を止めずに答えた。


「秩序と効率。種の存続に寄与するもの。それが正義だとされている」

「……“善悪”ではないのか」

「それは人間の分類だ。私たちにとって重要なのは“整合”と“維持”だ」


 私はその言葉に、少し息を詰めた。

 かつて私が読んだ哲学書のどれにも、“整合”という言葉が正しさの定義として据えられていたことはなかった。

 だが、それは確かに“理”ではある。


「では、“倫理”は?」


 私の声に、彼女が足を止めた。

 振り返ったその瞳は、ほんのわずかに、揺れたように見えた。


「聞いたことのない語だ」

 

 この世界には、“倫理”という語がないのかもしれない。あるいは、概念そのものが存在しない。


「倫理は……定義が難しい言葉だ。だけど私は、こう思っている」


 私は空を仰ぎながら、ゆっくりと語った。


「倫理とは、他者の痛みを想像する力だと。苦しみを想像すること。証明できない命の重みを、感じようとすること。それが、正義とは別の“問い”を生む。私は、そう考えている」


 彼女はしばし沈黙した。

 森の風が枝葉を揺らす音が、ふたりのあいだに流れる。


「それは、非効率だ」

「そうだ。非合理で、意味が曖昧で、答えも出せない。だからこそ、それは“倫理”なんだ。倫理はひとりで抱えるものだから」


 私は、自分が熱を帯びて語っていることに気づいた。

 だが火刑台で焼かれかけたあの瞬間から、私はもう、言葉を諦めるわけにはいかなかった。


「君たち魔族は、“役に立つもの”だけを残すという。だが、価値が証明できない命の前で、私はいつもきっと価値なんてものを考えない。井戸に子供が落ちそうになったとき、私は助ける。それは利害や価値ではなく、それを考える前に生じる衝動がそうさせる」


 彼女の顔には、表情というものが浮かばない。だがその目の奥には、何かが“聞き取ろう”としているような色があった。


「理解はできない。だが、その問いの形式は……破綻していない」

 

 それは、彼女なりの“認識”だった。感情ではなく、理解でもなく、ただ“構造を読み取る者”としての応答。


「そうか。それで十分だよ」

「……そういえば、君の名前をまだ聞いていなかった」

「名前。……“リーヴァ”」

「リーヴァ。いい名だ」

「君の名は」

「創真だ」

「ソウマ。人間にしては、静かな響きだ」


 私は静かに頷いた。

 伝わっていない。それでも、拒まれてもいない。

 その距離感が、私には心地よかった。


 森を抜けた先に、廃村があった。

 屋根の崩れた民家。黒く焼け焦げた壁。誰もいない。誰も語らない。ただ、灰だけが残っていた。

 私は何気なく足を止め、道端に転がる小さな靴を見つけた。布製の、子どもの靴だ。焼け跡に混ざりながらも、どこかあたたかい形を保っている。


「……ここは、魔族によって襲われたのか?」


 彼女はわずかに頷いた。


「おそらく。これは、私たちの軍の行動に類似している」

「誰が正しいのか、わからなくなるな」


 私はつぶやいた。

 この世界のどちらにも、救いがあるとは思えなかった。

 人間は異端を焼き、魔族は子どもを焼いた。


「それでも、人間は“正義”を語る。神の名のもとに」

「神は、すでにいないのではないか」


 その言葉に、私は顔を上げた。

 彼女の声は、淡々としていた。


「……君は、神がいないと知っているのか?」

「知っているのは、魔王だけだ。私は、魔王からの伝聞として、そう記録している」


 私は一瞬、息を呑んだ。

 この世界には、本当に“神がいた”という証言が残っているのか。

 ならば、あの火刑台の神官の正義は、どこに立っていた?

 私は膝をつき、井戸のふちに腰をかけた。井戸の底は干からびていて、そこに映るのは私の顔ではなかった。見たことのないこの体。この目。この声。

 それでも私は、確かに“私”だった。


「神がいないなら、正義はどこから生まれる?」


 問いかけたつもりだった。だが、返事はなかった。代わりに、彼女がそっと歩いてきて、私の横に立った。彼女はしばらく黙ってから、私の視線の先を見て言った。


「正義は、種の維持から生まれる。倫理は、そこからは生まれない」

「じゃあ、倫理は……どこから?」


 彼女は答えなかった。

 この沈黙は、ただの無関心ではない。

 誰かの痛みを、“見ようとしている”沈黙だ。

 私は立ち上がり、道端の草むらから、小さな白い花を一本だけ摘んだ。

 そして、焼け跡のそばに、そっと置いた。

 彼女もそれを見ていた。

 なにか言うでもなく、真似をするでもなく、ただ一歩、私の隣に立った。

 問いはまだ、届かない。

 でも、それを拒まない誰かがいるなら――私は、歩いていける。


 そのときだった。

 沈黙を破るように、ぱちん、と何かを弾く音が聞こえた。


「ねえ、ふたりとも、そんな真面目な顔で何してんの?」


 音の方へ目をやると、橙色の髪をした少女が木々のあいだから跳ねるように現れた。少女は小さな背に大きなリュックを背負い、片手には木の実をつまんでいる。


「……誰だ?」

「リコです!」


 きっぱりと名乗ったあとで、彼女は勝手に火の跡のそばまで歩いてきた。


「さっきの話、ちょっと聞いてた。あたし、正義ってやつ、教えようか?」


「……何を?」

 と私が訊ねると、リコは親指を立てて言った。


「“こっちが正義です!”って叫んだ方が、だいたい正義なんだってさ。ほら、簡単でしょ?」


 私は返す言葉を失った。

 リーヴァもまた、無言で彼女を見つめている。


「……つまり、声が大きければいいということか?」


「そうそう! あ、でもそれ、違うのかな? でも、言ってみたくなっちゃったんだよねー。“正義を教えようか?”ってセリフ! かっこよくない?」


 私は小さく息をついた。

 焼け跡に届いた問いの余熱が、どこかへ溶けていくようだった。


次の話からは冒険的な雰囲気を出していきたい…と、思ってます。

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