序章-3話 ことば
ノヴァとの生活が始まって数日が経った。彼女は小学校に通う年齢らしい。彼女の小さな背格好を見て未就学児かと思っていたが、この時代の人間は体が小さい。大人の背丈は平均10cm程は差があるように見える。子供であればなおさら小さいだろうから、私が勘違いするのも無理はない。街を出歩いても、この時代の人々は旧日本の純血がほとんどで、肌の色も皆一様に淡く、どこか透明感がある。
私はその間、家事を引き受けることに慣れていった。食事や掃除、洗濯といった日常の作業は、私にとって慣れないものだったが、少しずつコツをつかみ始めた。私のいた時代ではこんなことは使用人任せだったが、今はそうも言っていられない。
ある日、ノヴァが学校から帰ってくる時間に、私は彼女を迎えるために玄関に立っていた。鍵を探している音が聞こえたからだ。ランドセルの中をゴソゴソと探しながら、ノヴァが小さな手で鍵を探している音がした。しばらくしてドアが開くと私は、
『おかえり、ノヴァ』
と声をかけた。
私の時代の言葉が自然に口をつく。だがノヴァは一瞬、戸惑ったように私を見つめた。彼女は、自分がその言葉を理解できないことに焦りを感じているようだった。私はすぐに気がついた。私の言葉が、まだ彼女にとっては理解しがたい音の羅列でしかないことに。
彼女は何度も口の中で繰り返すが、それが意味を持たない音にしかならないことが、彼女をますます混乱させているようだった。
『…か……お?』
ノヴァは少し首を傾げ、眉をひそめながら口の中でその言葉を繰り返すように呟いている。
私はその反応に思わず口元がほころんだ。
『「おかえり」だよ、ノヴァ。君が、帰ってきたときに、言う言葉だ』
と、ゆっくりとした口調で、この時代の言葉も含めながらできるだけ彼女に伝わるように説明した。しかし、私の説明はまだ彼女には十分伝わっていなかったようで、ノヴァは再び困った表情を浮かべた。
「……わ、かんない……」
ノヴァは、目に少し涙を浮かべて小さな声で呟いた。私の言葉が自分にはわからないという悔しさが、幼い彼女の胸に重くのしかかっていた。
私はふと息をつき、ジェスチャーを使って伝えようとした。この数日で学んだのだ。紙に書くか、ジェスチャーを用いることがもっとも伝わりやすいのだと。
手で「帰ってくる」動作を示し、次に自分を指して、歓迎するような笑顔を作る。それでも、彼女はまだ半信半疑のように、私を見上げていた。
『……おかえり?』
と、彼女はようやく試しにその言葉を発してみた。声は不安定で、発音もどこかぎこちなかったが、確かにそれは「おかえり」の言葉だった。
私は柔らかく頷いた。
『そうだ、それでいいんだよ。君が帰ってきた時に、これを言うんだ』
その瞬間、ノヴァの顔が何かが弾けたように変わった。今まで理解できなかったことが、ようやく繋がったのだ。彼女の目に涙が浮かび、その小さな唇が震え始めた。私はその表情を見て、胸を突かれたように息を飲む。
「……おかえりって、そんな……言ってくれる人、いなかった……」
ノヴァは、過去の記憶が一気にこみ上げてきたかのように、涙をこぼし始めた。その涙に私は自身の幼少期を思い出し、言葉は分からずとも自然に理解した。彼女は幼いころから親を失い、ここしばらくは誰にも「おかえり」と言われることがなかったのだろう。それを今、久方ぶりに思い出したように、その事実が彼女を打ちのめしていたのだろうと。
「……おかえり、ノヴァ」
と、私は今度はこの時代の言葉でゆっくりと言葉を繰り返した。その声は、過去の彼女が欲していた温かさを含んでいた。私が当時、そうして欲しかったことを思い出して。
ノヴァはその言葉を聞いて、ますます涙を流しながらも、恥ずかしそうに頬を赤くした。彼女は何度も私を見上げ、目をこすりながら泣き笑いのような表情を浮かべた。
「……ありがと、シオン……ただいま……」
彼女の涙を見ていると、自分の中にあった冷えた何かが溶けていくのを感じた。言葉の壁はあっても、気持ちは通じている。これまでの計算高い思いが、彼女の涙とともに少しずつ溶けていくのを感じた。彼女が笑い、涙を流す姿を見ると、私にとっても彼女と共に過ごすことはただの生存手段ではない、何かになりつつあった。
---
数週間が過ぎ、徐々に言葉の壁が薄れてきた。壁を少しずつ乗り越えつつあるものの、コミュニケーションはまだ完全ではない。日々、ノヴァと一緒に過ごす中で、互いの言葉…「過去と未来の言葉」が少しずつ繋がっていくのを感じた。挨拶や簡単な言葉のやり取りができるようになったものの、まだ私の発音するいわゆる「未来」の言葉は、ノヴァにとって時折奇妙なものに聞こえていたようだった。
その日もノヴァは学校から帰宅し、玄関でまだぎこちない笑顔を浮かべながら、少し緊張した様子で私に『ただいま』と言った。以前は涙を流していた挨拶も、今では少し慣れてきたようで彼女の表情には明るさがあった。まだ少し発音は不安定だが、確実に進歩している。
「おかえり、ノヴァ。手を洗っておいで」
微笑みながら、今度は私は「今」の言葉で返す。ここ数週間で「ただいま」「おかえり」といった基本的な挨拶は、二人の間で自然に交わされるようになっていた。私はこの時代に「図書館」という施設があることを知り、利用することを覚えた。あの静かな場所で、古い文字や新しい知識に触れる時間が、今では日常の一部になりつつある。毎日足繁く通い読み書きや知識を学んだり、 「テレビ」と呼ばれる映像装置からも学んだ。
今の時代の技術は、見た目以上に奇妙で興味深い。その努力も実を結び、「今」の文化に少しずつ順応し始めていた。私がノヴァよりも年上というのもあるだろうが、少なくとも今の彼女よりは両方に精通しているといえよう。
ノヴァは私の言葉にランドセルを置いてきてから手を洗うと、ソファで私の隣に座る。いつもならランドセルを置くとすぐにお菓子を探しにキッチンへ走っていくノヴァが、今日は何故か私の隣に静かに座った。
珍しさに私は不思議そうに見下ろす。すると彼女は少し恥ずかしそうに私を見上げた。
「ねえ、シオン。もっと…ことば、おしえて?」
この時代に来てから驚かされることばかりである。ノヴァが自ら言葉を教えてほしいと頼んでくるのは珍しいことだった。これまでの彼女は、わからないことがあっても、どこか不安そうで、言葉を学ぶことに積極的ではなかったのだ。
照れくさそうに足をぶらぶらさせながら、上目遣いで私の反応をうかがっている。彼女のその目は恥ずかしそうで有りながらも、興味津々な目をして私の返事を待っていた。
「わかった、教えるよ。何が知りたい?」
その様子に目を細めながら、私は答えた。
ノヴァは少し考え込んでから、ぽつりと一言、
「いつもありがとって、どうやって言うの?」
先の展開の読めるその質問に意表を突かれた様に、私は顔に手を当て、すぐに少し微笑んだ。
「ありがとうか。私の言葉だと『いつも、ありがとう』って言うんだ。」
「『い…、ありがとう』…?難しい!」
とノヴァは笑いながら言った。彼女の舌が「未来」の発音に馴染んでいないのは仕方ないことだ。それでも、私は彼女の前向きな態度を好ましく思った。
「たしかに難しいな。でも、言ってみるか?」
「うん、やってみる!」
ノヴァは大きな瞳で真剣に私の顔を見つめ、少し緊張しているのが伝わってきた。再度その小さな口を開く。
『い…も、ありがとう』
「そう、そんな感じだ。もう少しゆっくり言ってみようか。『いつも』」
『ありがと!』
「それはいつも聞いているよ。こちらこそありがとう」
ノヴァは嬉しそうに顔をほころばせ、私の感謝の言葉を素直に受け取った。
「ふふふ!もう一回言うね。『いつも、ありがとう』」
と、ノヴァは何度も繰り返し発音を練習していた。失敗しても、めげずに挑戦する彼女の姿に、シオンは心の中で温かいものを感じていた。
「ありがとシオン。…その…わたし、こういうのひさしぶりで。いえでだれかとわらったり、おしえてもらったり」
と、ノヴァは小さな声で呟いた。親が亡くなる前は、親に教えてもらっていたのだろう。その言葉には、彼女の過去に根付いた孤独と、私への感謝の気持ちが込められていた。
私はその言葉に一瞬言葉を失った。私の場合、親の期待を失い見捨てられても、使用人や教育係は少なくともいた。彼女の孤独とは似て異なるものだということを、改めて知る。ノヴァの孤独な過去を思い出しながら、私の心の中で芽生え始めていた何かが…感情が、少しずつ確かなものになっていくのを感じた。
「ノヴァ。これからも一緒に、少しずつ覚えていこう。」
私の言葉にノヴァは恥ずかしそうに顔を赤らめながら、小さく頷き視線をそらした。そうして、再び「未来」の言葉で『いつも、ありがとう』と言う練習を始めた。