第二話「偶然、若しくは好機」
「一昨日のやつ、見た?」
初めてのグループチャットから一夜が明け―――。
翌々日の美術部で、ふと里奈が声を上げる。美穂が提出物を先生に届けるために職員室へと出掛けたタイミングであった。
「あー、一昨日のやつ、なぁ」
祐介がにやにやした表情を隠そうともせずに意味ありげに頷く。
「あれですよね」
大輔も二人が何のことに言及しているかについては理解していた。
「「「あの電話」」ですね」
三人はお互いの考えていることが一致していることを確認して笑い声をあげる。
一昨日のグループチャットで、通話が開始され、終了した時間は零時の頂を越えていた。そして、残っていたのはそれまでの退室履歴からもわかるように、健太と美穂のみだ。
「初対面であれですからねぇ」
大輔も珍しく自分も混ざれているコイバナに高揚感を感じているのか、楽しそうに笑みを浮かべている。
確かに、健太と美穂は部活も違い、クラスも違う。元々の学校も違ったのだし、初対面であって然りだ。それに、通話の中でも初対面である、というようなことを二人とも言っていたのだ。
その初対面で、あれほど長い時間、〝二人きり〟で通話していた、ということはかなりお互いに馬があったのだろう。それこそ、周りからすればおかしいと思えるほどに。
「これからが楽しみじゃない?」
里奈の言葉に、祐介と大輔は何度か頷きで賛同を返す。この時期は他人の恋愛というものに厭に敏感になるものだ。特に、ある程度仲の良い友達であるとか、共通の友達同士で恋愛話を共有できる状況にあったりとか、そのような環境が整っていればなおさらである。
「あれ、何の話?」
美穂が帰ってきて、里奈たち三人は一旦コイバナを止めた。
突然に黙り始める三人に、美穂は何やら怪しいと不信感を募らせる。しかし、彼らが美穂がいない状況をいいことに悪口を囁き合うような人間ではないということは美穂も理解していた。
「……まあいいけど。そういえば、昨日シュガー君にあったんよ」
ふと放たれた、爆弾発言に、三人の表情が変わる。
〝シュガー〟というのは健太のゲームの中でのプレイヤー名である。「佐藤=砂糖」ということなのだろう。
美穂は健太とは会ったことがないという前提で話を進めていた三人としては、彼らが自分達の知らないところで出会っていたというのは問題だ。
しかも、美穂がその話を自ら振ってくるとは―――。
―――これは一日前、美穂の通う塾にて
美穂は、塾の自習室へと来ていた。
通っている塾徒は小学生が多いこの塾では、今のような遅い時間になると自習室には殆ど無人になっていた。少なくとも、美穂の通っているクラスには中学生は美穂のみである。
机を並べれば三十人は優に入るであろう教室の端に腰かけ、机に課題を広げる美穂は、誰も使用していない部屋を一人、使っているという優越感と、孤独感を混ぜたような感情を抱いていた。
幾らか、自習室に入って課題を始めてから時間も経った。課題もあとすこしというところである。しかし、その達成感は一人で噛み締めねばならなかった。
「……ぐぅぅ」
突然声を上げた自らの腹に、ぎょっとした視線を送りながら美穂は周りを見回す。
この時ばかりは、孤独感を感じざるを得ない静寂の自習室に感謝すらした。
「夜ご飯も満足に食べれてないからなぁ」
今日は部活の片づけに手間取ったせいで、少しばかり帰りが遅れ、晩御飯をつまむ程度しか食べられていないのだ。
今日は体育もあった。あれだけの食事量ではやはり、失った体力を賄えないか、と美穂は一人、嘆息する。
「えぇっと……おにぎり、おにぎり」
美穂は自分の椅子の下に立てかけておいたリュックサックを弄る。
夜ご飯も十分に食べられなかった美穂を見かねて、母がおにぎりを作ってくれていたはずだ。
そう思ってリュックサックの中を探すが、そのおにぎりは見つからない。
―――確かに、市松模様の巾着袋に入れてもらったはず……。
そう思いながら更にリュックを探ること十数秒、美穂は見慣れた市松模様の巾着袋を見つけて奥から引き上げる。しかし、中身は空だった。
口が開いた様子もない。
『おにぎり、入れてねー』
その瞬間に、塾に来る前、母から告げられた言葉を思い出す。
美穂の脳内では、その言葉が『おにぎり、いれたよー』となっていたのだ。
それで、おにぎりが入っているであろう巾着袋を重さも確認しないままに突っ込んで塾に急いだ。結果として、おにぎりを忘れたわけだ。
中々に悲惨なものだ。ここまで、課題を消費するためにかなりのエネルギーを食った。体育などと重なり、体力の消費量は凄まじい。
そのような状況で、おにぎりを忘れたのだ。
たかが、おにぎり、されどおにぎり―――。
大袈裟かもしれないが、美穂はその場で崩れ落ちんばかりに落ち込んだ。
「……あ、他にも人いた……」
落ち込んでいる美穂を視界に入れて、自習室に入ってきた男子はぼそりと呟く。
そのまま、美穂の斜め前当たりの机に歩みを進め、微妙な距離を置いて席に腰かけた。
男子は、先程塾の授業が終わったところでかなりの空腹を感じていた。そして、美穂とは違い、おにぎりを忘れていなかった。
「いただきます」
周りに聞こえない程度の小声で呟き、おにぎりを頬張り始める。
その様子を、美穂は凝視していた。空腹のせいで、視線に気づかれるかも、とか怪しい人に思われるかも、といったリスクは思考に入ってこなかった。
案の定、男子は美穂からの何とも言えない強い視線に気づき、戸惑いの表情を浮かべる。
「えっと……何か」
そう言いかけて、気付く。美穂の視線は、全く男子を見据えていなかった。唯々、おにぎりを見ていたのだ。
「あ、おにぎりもう一個あるんで、いる?」
「いいの!?」
思った以上に食いついてきた美穂に戸惑いながらも、男子は机に置いていたもう一つのおにぎりを手渡す。
美穂は「ありがとう」と言って受け取ると、我慢できないかのようにおにぎりに巻かれたラップを剥がしておにぎりを頬張った。
「おにぎりとか、そう言う夜食忘れたの?」
「ほぉなんだよねー」
会話を続けつつ、着々と二人はおにぎりを食べ進めていった。
そして、二人がほぼ同時に食べ終えてから、お互いに鞄に入っていた水筒から水分を口に入れる。のどを潤して、美穂は満足したようにふぅ、と小さく息を吐いた。
「ありがとう、えっと―――」
「あ、俺は佐藤健太」
名前を呼ぼうとして詰まった美穂に、健太は自らの名前を告げる。
その名前を聞いて、美穂ははっとしたような表情になる。昨日その名前を、美穂は見ていた。
「あ、シュガー君!」
「え、〝RICE…〟?」
RICE…、とは美穂のプレイヤー名である。本人曰く、「穂=稲穂=米=RICE…」だそうだ。
「全然気づかなかったぁ」
ここまでおにぎりを食べながら十分程経過している。しかし、お互いに気づいていなかった。
「おんなじ塾やったんや」
二人はお互いに笑い合う。
―――ということが、あったらしい。
「最早、運命?」
祐介がぼそりと呟いた言葉に、美穂は「え?」と聞き返すが、祐介は、「何でもない」としか返さなかった。
しかし、里奈と大輔はしっかりと祐介の放った言葉を聞き取っていた。そして、心の底から同意し、肯定する。
こんなことも有るんだなぁ、と三人は何とも感慨深いような気分になった。