第8善「そんなに悪い気分でもないな」
翌朝。
「だ〜か〜ら〜! 俺、募金してやったよな!?」
苛立ちを抑えながら詰め寄る相手は、駅前で募金活動をしている中学生の少年だ。
募金といえばまさに善行そのもの。金で善行を買えると思えば安いもの。そう思って、百円を募金したのが始まりだった。
「は、はい……。ですから、ありがとうございます……」
彼は萎縮したように、消え入りそうな声で感謝の言葉を述べる。しかし左手の甲に刻まれた七芒星は彼の感謝に反応を示さない。
「君さぁ、本気で感謝してないよね?」
「い、いえ。そんなことは……」
どうも、この七芒星は心の籠もった感謝にしか反応しないようなのだ。ただ感謝の言葉を引き出せばいいという訳ではないらしい。
「分かった。これじゃ足りないんだな? もっと課金すれば、ちゃんと感謝してくれるな?」
百円から始めた募金は、募金に募金を重ね、既に大台の千円に突入していた。今さら後に引けない。感謝を引き出すまで募金し続けてやる。俺は、いつの間にか重募金者と化していた。
「い、いえ。これ以上はもう大丈夫なので! あの、ほんともう、やめてください!」
募金箱の口が手で塞がれる。
この野郎……。俺から千円巻き上げるだけ巻き上げて、感謝しないで逃げる気か!
さらに少年に詰め寄ろうとした時だった。
「ちょ、ちょっと吉井くん! なにやってるの!?」
背後から耳に届く、聞き覚えのある声。振り返ると、黒髪少女が血相を変えてこちらに向かって来ていた。委員長だ。
ここは委員長の最寄りの駅前。彼女のボディーガードをするという約束を果たすため、俺達は待ち合わせをしていたのだ。
「カツアゲしちゃダメでしょ!」
「してねーよ! むしろ俺が金取られてた方だ!」
「えぇ……どういうこと……?」
委員長にかくかくしかじか状況を説明。すると、はぁ〜〜〜、とドデカイ溜め息が彼女の口から溢れ堕ちた。
「まったく……呆れた」
「だよなぁ!? 千円も募金したのに——」
「呆れたのは吉井くんにだよ!」
「お、俺は善行をしようとしただけで……」
「確かに募金は良い事だけど……感謝を強要するもんじゃないから!」
「じゃあ俺は無駄に募金したと?」
「無駄な募金なんかない! ああ! もう! とりあえず行くよ! ほら、この子に謝って!」
「なんで俺が——」
「謝って!」
「……すまん。あと千円返し——やっぱ何でもない」
言いかけたところで、鬼の形相で睨まれてしまい思わず口を噤んだ。
委員長怖い……。あれ、俺って元勇者だったよね? くそぉ、無募金勢のくせに! 俺は千円も募金した廃募金勢だぞ!
「ごめんね? この人も悪気があったわけじゃないの。ただ倫理観がおかしいだけで……。許してあげて?」
「は、はい……」
委員長の顔が一瞬にして鬼の形相から天使のような微笑みに切り替わる。向けられたその微笑みに、男子中学生は頬を赤らめていた。
「お詫びと言ってはなんだけど……。 わたしも募金するね」
言いながら、委員長も百円玉を募金箱に入れる。
甘いな。百円程度じゃ感謝なんか——
「どうもありがとうございます!」
うわめっちゃ良い笑顔。
俺が千円も重募金しても得られなかった感謝を、たったの百円で引き出してしまうとは……。やるな、委員長。
*******
「吉井くんは、やっぱり色々とズレてると思う」
電車から降りて学校への通学路を歩んでいると、唐突に委員長がそう切り出してきた。
「まぁ……自覚はある」
「でも、善行しようとする心がけは素晴らしいと思う」
やりたくてやっているワケじゃないんだがな。
「だから、正しい倫理観を身に付ければ、すごく良い人になれると思う」
「正しい倫理観ねぇ」
神曰く、それを取り戻すための修行が一日七善だ。
そういえば、一日七善生活はいつまで続ければいいのだろう。まさか一生このままということはあるまい。……ないよな?
単純に考えれば正しい倫理観とやらを取り戻すまでか。であれば、正しい倫理観を身に付けてマトモになることが俺の最終目標ということになる。
「委員長……」
「な、なに。急に立ち止まって、改まった顔して……。も、もしかして告は——」
「俺に正しい倫理観を教えてくれ!」
「ああ、うん。そんなことだろうと思った」
委員長は善行をヤリ慣れてる経験豊富な女。しかも、善行をサせてくれるうえに感謝に関して存外ガバガバのユルユルときたもんだ。彼女に善行をしながら正しい倫理観とやらを教わるのが最善な手段のように思える。
「なんかすごく失礼な事を考えられている気がする……」
まぁ最終的な目的がすぐに達成できるとは思っていない。まず大事なのは、日々生き延びるための善を稼ぐことだ。
「あ、そうだ。忘れるところだった」
「なに?」
「ほら、ボディーガードやったんだし……な?」
「な、なんなの?」
「『アレ』だよ『アレ』。『アレ』シてくれよ。ひひひっ」
「感謝でしょ!? ゲスな表情で誤解を招くようなこと言うのやめてくれる!? でもどうもありがとう!」
さすがガバガバのユルユル女。早くも善行達成だ。
******
「朝の学校って、なんか静かで落ち着くよねー」
教室に着いて荷物を置くなり、委員長はぐぐぐっと伸びをする。
時刻は七時半を少し過ぎたところ。登校時間にはだいぶ早い。
部活の朝練をする生徒はチラホラ見受けられるが、教室にはまだ誰もいなかった。
「つか、こんな早く来て何するんだ?」
「勉強とか、読書とか?」
勉強。読書。
さすがに俺でも分かる。朝早く学校に来て勉強や読書することは、学生としては素晴らしい行動だろうが、絶対に『正しい倫理観』ではない。
よし。今ここで学ぶべきことは何一つない。寝よう。
「あ、すぐ寝ようとするー。せっかく早く来たんだし、吉井くんも勉強しなよー」
自席に着いてさっそく机に突っ伏すと、非難するような視線が向けられた。
「ほら、良い教材貸してあげるから」
「いやいいよ……」
遠慮も意に介さず、委員長は教科書を片手にこちらへやって来る。
「ね? ほら、勉強しよ? 道徳」
差し出されたのは『小学5年生 道徳』と題された教科書だった。
「馬鹿にしてるだろ!」
「し、してないよ!」
まぁでも、せっかくだし一応借りておくか。善行のヒントが載っているかもしれないし。
何気なく教科書を裏返すと、そこには『もみじ』という名前が書かれていた。
「もみじ……」
なんとなく呟いてみると、俺の席から離れて行こうとしていた委員長がピクリと体を震わせ立ち止まる。
「急に名前呼ばれたからビックリしちゃった」
照れ臭そうに振り返る委員長。
「もみじ」
「えー、なに? なんで名前呼ぶの?」
「いや、別に。呼んでみただけ」
「ふふっ、なにそれ。付き合いたてのカップルみたいな」
「もみじ」
「えへへっ、なんか恥ずかしいからやめてよー」
「ははっ」
「ふふふっ」
恥ずかしそうに。しかしどこか嬉しそうに。委員長は優しく微笑む。
なんだろう。委員長の名前を呼ぶと。不思議と穏やかな気持ちになる。
「まぁそれ、妹の教科書なんだけどね」
妹の名前だったわ。
「……吉井くん、まさかとは思うけど、わたしの名前、忘れてないよね?」
「えーっと、なになに、『いじめは良くないです』。なるほど、勉強になるなぁ」
「吉井クーン? どうして音読するのー? わたしの話聞いてるー?」
「あー、すごい。道徳の教科書すごい。どんどん倫理観が身についてくる!」
「もぉー」
むすぅ、と頬を膨らまして、委員長はスタスタとどこかへ歩んでいった。良かった。ギリギリ誤魔化せたか。
委員長が向かった先は、何故だか掃除用具入れだった。不思議に思ってその様子を盗み見ていると、彼女はおもむろに箒と塵取りを取り出し、なんと床の掃除を始め出す。
「……なにやってんだ?」
「え、掃除」
「当番なのか?」
「いや、そうじゃないけど。なんかゴミが気になっちゃって」
「イカれてんの?」
「ひどくない!? てか善行したいなら一緒にやろうよ!」
掃除をするのは確かに善行かもしれない。しかし誰もいない教室の掃除をしたところで、一体誰から感謝を貰えるのだろうか。あるとすれば担任からの感謝くらいか。
「言っておくけど、これは誰かに感謝してもらいたくてやってるんじゃないからね?」
目ぼしいゴミを拾い終えた委員長は、俺の心を見透かしたようにそう言った。感謝のためではない善行だとすると、いよいよもって彼女の行動の意味が分からない。
委員長は箒と塵取りを片付けると、今度は机の並びを綺麗に揃え始める。
「じゃあ何のためにやってるんだ?」
「うーん。ゴミが落ちてたら嫌な気持ちになるし、机がぐちゃぐちゃだったら気になるし……まぁ、誰かの為というよりかは自分の為かも。良い事したなー、っていう気分にもなれて気持ち良いし。結局のところ、自己満足かもね」
少し照れくさそうに微笑む委員長。
変わってるな、と正直思った。
だが同時に、すごいな、とも思った。
「なんていうか、仏だな」
「やめて。拝まないで」
委員長の言っている事も気持ちも理解できない。
しかし正しい倫理観とかは別として、誰からも見返りを求めずこういう行動ができる人間こそが、俺の目指すべき姿なのかもしれない。
ふと思い立って、俺は腰を上げた。
「どこか行くの?」
「あー、トイレ」
「そ。行ってらっしゃい。わたしは勉強でもしようかなー」
教室から出た俺は、トイレには向かわず適当に廊下を練り歩いた。すると、水道の所に空のジュースパックが放置されているを発見。それを手に取ってみる。
登校時間には少し早い朝の学校。周りには誰もいない。このゴミを捨てたとして、誰からも感謝されない。
それでも俺は、ジュースパックを手に取り、ゴミ箱を探す。
別に、委員長の言葉に感銘を受けたとかそういうのではない。ただなんとなく、彼女の気持ちを知りたいと思ったのだ。
自販機の横にゴミ箱を見つけた。
拾って来たジュースパックをゴミ箱に捨ててみる。
当然、誰からも感謝は無く、左手の七芒星は消えない。無駄な善行だ。
ゴミ箱に捨てたジュースパックをじっと見つめる。
委員長の言っていたことは未だ分からない。
しかし、そんなに悪い気分でもないな、と思った。
第一章 完