第62善「これからもよろしく」
あっという間に放課後。
あっという間に残り二善。
なんだか感慨深い気持ちだ。
自分一人の力でここまで辿り着けるなんて。
——いや、俺一人の力だけでは絶対にここまで来れなかった。
もちろん委員長の影響が一番多いのは間違いない。化学教師にも世話になった。
しかし、もう一人、俺の善行生活を語るうえで欠かせない人物がいる。
なんだかんだ彼女には大きく助けられた。
何度も骨を折られたが、折られた骨と助けられた数では、辛うじて後者の方が多いと思う。
いつの日か委員長も言っていたが、彼女は面倒見が良くて、優しくて、偉大な先輩なのだ。
ただ少しだけ、ほんの少しだけ、頭がおかしいという欠点があるだけなのだ。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、見知らぬ生徒に声を掛けられた。
「あの〜すみません。《お助け部》の方ですよね? ちょっと手伝って欲しい事があるんですが……」
聞くと、荷物を運ぶのを運ぶのを手伝って欲しいとのこと。重たいダンボールを四つほどだそうだ。
それくらいの量なら俺一人でも難なく運べる。しかし、俺の脳裏に彼女の顔が思い浮かんだ。
彼女には多くの善行を分け与えて貰った。一つくらい恩を返してもいいんじゃないだろうか。
「ちょっと待っててくれるか? 助っ人を呼んで来る」
「わかりました」
俺は化学室ではなく、北校舎四階の空き教室へと向かった。かつての《お助け部》の部室だった場所だ。今では誰にも使われていない。
にも関わらず、何故だか俺の足はそこへ向かっていた。何かに導かれるように。
部屋の前に到着。静かだ。人の気配はしない。
扉を三回叩く。返事は返って来ない。
それでも、扉を開けてみる。
「あら」
そこには、窓際で黄昏る金髪のシスターが居た。
窓から差し込む夕日が彼女の金糸のような髪をキラキラと照らしている。
「吉井さん、どうしてここに?」
「あー、いや……先輩こそどうして?」
「わたくし、ここからの眺めが大好きで。天気が良い日はたまに来るんです。帰宅する生徒。部活してる生徒。夕日に照らされる街並み。それらがいっぺんに見えて、なんだか心が穏やかになるんです」
なるほど。一生そこに居て欲しい。
「吉井さんも夕日を見に?」
「いや、俺は……」
先輩がここに居る気がして。
なんて言おうと思ったが、急に小っ恥ずかしくなって言葉を飲み込んだ。
「あー、先輩。ここに来る途中、困ってる人がいたッスよ。なんか、荷物運ぶの手伝ってほしいって」
「え〜それを伝えに来たんですか? 荷物運びくらい吉井さん一人でもできるのに」
くすくす、と先輩は可笑しそうに笑う。
「もしかして、わたくしに善行のお裾分けをしてくれるとか?」
「まぁ、そんな感じッスね」
心を見透かされているようで照れ臭い。
「ふふ。ありがとうございます」
「いや別にこれくらい——」
「いえ。これまでのこと、全部です」
「全部?」
「えぇ」
俺と真っ直ぐに向き合い、先輩は優しい笑みを浮かべて、けれども真剣な面持ちで。
「《お助け部》に入ってくれたこと。一緒に今日まで善行をしてくれたこと。きっと、吉井さんがいなければ、わたくしは今日まで生き延びてこれませんでした」
違う。それは俺が言うべき言葉だ。
「せんぱ——」
それを伝えようとしたが、しーっ、と。先輩は人差し指を唇を当て、俺の言葉を制す。黙って最後まで聞いて、ということだろう。
「吉井さんと出会うまでの一ヶ月間。実を言うと、一人ぼっちで善行生活をしているのが寂しかったんです。たくさんの人に感謝され、慕ってくれる方もいましたが、真に気持ちを分かち合える人がいませんでした。どこか満たされず、希望が見えない不安な日々でした」
気持ちは分かる。俺も先輩と出会うまでは同じことを感じていた。
「でも吉井さんと出会い、仲間がいることを知ってとても嬉しかったんです。委員長さんや先生と引き合わせてくれたことも感謝してます。かつて『悪魔先輩』と恐れられたわたくしに、休日一緒に遊びに行くお友達ができるなんて」
え。俺誘われてない。
「友人と遊園地に行ったのなんて人生初ですよ」
俺誘われてない……。
「だから吉井さん。わたくしと出会ってくれて、ありがとうございました」
そっと、俺の手を握る聖母先輩。
その手は細く、小さく、頼りない。だけど、暖かく、とても偉大だった。
「先輩……俺……俺……」
先輩に間近で見つめられ、とある思いが沸々と沸き起こってくる。
「ふふ。なんですか?」
心に留めておくことができなくなり、俺は思いを口にした。
「俺、殺されるの?」
「は?」
恐怖。
先輩に手を握られた瞬間に沸き起こってきたのは、間違いなく恐怖。
握られた手が、骨折の痛みを思い出して震えている。
「だって、先輩がそんなこと言うなんて……。餞別というか……」
「はぁ〜。まったくもう。あなたって人は。もっと他に何か無いんですか? わたくしと出会って、何か変わったこととか」
「そッスね。俺って比較的マトモなんだなって思えるようになったッス」
「折っていいですか?」
さすが先輩。言う前にもう実行してる。
「言っておきますが、たとえ今日で吉井さんの『一日七善』の呪いが解かれたとしても、《お助け部》には残ってもらいますからね?」
「え、まじ? 呪い解かれたら一生善行しなくていいのかと思ってた」
「神様ー、今の聞きましたー? この人まったく成長してないですよー?」
「冗談だって! 残る残る! 《お助け部》で善行し続ける!」
まったくもう、と。先輩は呆れたような笑みを見せる。
「それはそうと、依頼主を待たせてるのでは?」
「やべっ! そうだった!」
「ほら、行きますよ〜!」
俺の手を引きながら、先輩は振り返る。
そして、にこやかな、聖母のような優しい顔で微笑んだ。
「ふふっ、これからもよろしくお願いしますね? 吉井さん♪」
ぞくりとした。
*
残り一善。
あと一善で、全てが終わる。
最後の一善は、何か特別なことがしたい。
俺の足は自然と自分の教室に向かっていた。
教室の扉を開ける。差し込む夕日。その中に咲く、輝かしい笑顔。
「おかえり、吉井くん」
そこには、一人の少女がいた。




