第61善「すみませんでした」
昼休み。
残りはあと三善。
残りの善行は何をしようかと考え、俺は化学室へと足を運んだ。
扉をノックしようとしたところ、ちょうどそのタイミングで扉が開かれた。中から出てきたのは見知らぬ女生徒二人。彼女らは俺にペコリと一礼すると、『先生、ありがとうございましたー』と言って立ち去って行った。
「お、どうしたんだ吉井。昼休みに来るなんて珍しいじゃないか」
入れ違いに入ってきた俺の姿を見て、化学教師は表情を和らげる。
「先生、今の二人って……。もしかして淫行してたんスか?」
「バ、バカ言うな! 授業で分からない事があると言うから教えてたんだ!」
証拠と言わんばかりにバンバンと黒板が叩かれる。確かに、そこには色々な化学式や構造式が羅列されていた。
「先生って本当に教師なんスね。先生が仕事してるところ初めて見たッス」
「失礼な! お前のクラスでも授業してるだろう! お前が寝ていて聞いてないだけだ!」
こほんと咳払いを一つして、化学教師は呼吸を整える。
「こんな所で油売ってて、善行の最終試験とやらは大丈夫なのか?」
「あと三つ」
「おお、やるじゃないか!」
左手の甲を見せると、お返しとばかりに額の『惡』の字を見せてきた。
「先生ほまだ二悪だけだ。今日は忙しくてビールを飲む暇がな……。おっといけない。ビールのこと考えたら飲みたくなってきた」
じゅるり、と涎を垂らす。
「そ、それで? 何の用だ!?」
「先生に話があるんス。二つ」
「話?」
問いにはすぐに答えず、化学教師と真っ直ぐ向き合う。
すると、俺の神妙な面持ちを見て何かを察したのか、彼女はあたふたと取り乱し始めた。
「お、おい!? まさか、まさかそうだったのか!? てっきり委員長ちゃんだと……。いや待て! 私は教師だぞ!? 教師と生徒だぞ!? いやでもそれこそ悪行じゃないか……」
何をそんなに焦っているか分からなかったが、わちゃわちゃと慌てふためく彼女を無視し、
「先生——」
息を吸い、ずっと秘めていた言葉を口に出す。
「先生、すみませんでした」
深々と頭を下げると、化学教師は素っ頓狂な声を出した。
「は? え? 何が?」
謝罪の意図が伝わらなかったらしい。
ポカンと口を開け、目をパチクリとしている。
「異世界でのこと。先生を殺しちゃったこと。まだちゃんと謝ってなかったと思って」
もっと早く言うべきだった。しかしいざ言おうとなると中々言い出せなかった。
今日が善行生活最後の日かもしれない。その節目の日に、きちんと清算しておきたいと思ったのだ。
「なんだそんな事か」
化学教師はフッと息を漏らし、優しく微笑む。
「言っただろう、先生は別に怒ってないって。お互いに務めを果たしただけ。気にすることはない。……まぁ、お前のことは絶対に留年させてやるつもりだがな」
めちゃくちゃ怒ってるじゃねーか。本当すみませんでした。
「冗談だ。お前なら自力で留年するだろう」
フッ。照れるぜ。
「真面目な話、本当に怒ってないぞ? だが——」
言葉を区切ると、化学教師はゆっくりとこちらに歩み寄る。
「——だが、これでお前が前に進めると言うのなら。分かった。お前の謝罪を受け入れよう」
そう言って、彼女は俺の背中にそっと手を回し、優しく抱き締めた。彼女の温もりが伝わってくる。
「先生……」
「ん。どうした?」
「さり気なく淫行するのやめてくれ」
「おまっ! お前なぁ! これはそういうのじゃないだろっ! 教師と生徒の……美しい何かだろう!」
ガバ!と突き飛ばすように体を離された。
「そうなんスか。あとで委員長に聞いてみよ」
「そ、それは止めておけ、な?」
「やっぱり疚しい気持ちがあるんじゃないッスか」
「ちがっ……あぁ! もう! お前ってやつは!」
わしゃわしゃわしゃ!と髪の毛を激しく掻きむしった後、化学教師は大きく溜め息を吐く。
「それで? 二つ話があると言っていたろ? あと一つは?」
「もう一つは善行の話っス」
「なんだ? 先生に善行してくれるのか?」
「そッスね」
「ほぅ。ではいつぞやのように、校舎内を荒らしまくろうじゃないか。ククク」
「あ、そういうんじゃなくて」
「はえ?」
一瞬魔王モードに移行しつつあったが、待ったをかけると毒気が一気に抜けて普段の先生へと戻った。
「何ていうか、その、教師としての先生に善行をしたいなと思って」
「なるほど? まぁ言わんとしてることは分かるが。で、何をしてくれるんだ? 淫行はダメだぞ?」
「俺、考えたんスよ。先生が何をしたら喜ぶかって。先生って仮にも一応教師じゃないッスか」
「お前さっきからバカにしてるよな?」
「教師って何が好きなのかなーって思った時に思ったんスよ。授業だな、って」
「はぁ?」
「だから、俺に化学を教えてくれッス」
「ふふふ、ははは! なんだそれっ! それが善行のつもりなのか!?」
「そのつもりだったんスけど……」
化学教師は呆れたように、しかし優しさに満ちた顔で微笑む。
「……そうだな。私は吉井に化学を勉強させたくて仕方なかった。だから、お言葉に甘えて教えさせてもらおう!」
「よろしくッス」
俺は黒板に一番近い席へ腰掛けた。
「……え、今?」
「今」
「放課後とかじゃなくて?」
「今」
「昼ご飯まだなんだが……」
「俺は食べた」
「……あぁ! もう、分かったよ! ビール飲みながらでいいか!?」
「いいッスよ」
「で、勉強したい範囲とかあるか?」
「あれがいいッスね。光の屈折」
「それは物理なうえに中学校の範囲だ!」
「えー、じゃあ先生のオススメでいいッスよ」
「よし! なら一緒に実験しよう!」
こうして、俺と化学教師は昼休みいっぱい化学の実験をした。なんかよく分かんない白い粉を作った。
「これでお前も『一員』だな! フフフ……」
何を作ったのかは気にしないでおこう。




