第59善「ヤりましょうよ」
最終試験当日は雲ひとつ無い快晴で絶好の善行日和だった。
普段より早く目が覚めたが二度寝はしない。手早く身支度を整えて、少し早い時間だが、いざ出陣。
なんだか少しフワフワした気分だ。緊張か。高揚か。
大丈夫。毎日やっていることをいつも通りやるだけだ。何も不安になることはない。そんなことを考えながら駅への道を歩いていると、歩道橋を前に立ちすくむ老婆に遭遇した。
「あ」
思わず声が漏れた。
善行生活の初日。初めて善行をした、あの米の老婆だ。いわば俺の初体験の相手である。
どことなく懐かしい気持ちがこみ上げてきた。全てはあの日あの善行から始まったのだ。
老婆は俺の姿に気が付くなり、申し訳なさそうな声色で話しかけてくる。
「あのー、お兄さん。すみませんが——」
「荷物、持ってあげるッスよ」
言葉に被せるように提案すると、老婆は面食らったような顔をしたが、すぐにニッコリと微笑んだ。
「ついでにワシのことも——」
「おぶってあげるッス」
重ねて言葉を被せると、老婆は可笑しそうに、しかし柔らかい顔で笑っていた。
片手で老婆を支えながら背負い、もう一方の手で荷物を抱えて歩道橋を登る。
「お兄さん、力持ちだねぇ。米40キロも入ってるのに」
元勇者のパワーをもってすれば人間一人と米40キロを運ぶなど造作もないこと。そして元勇者の強靭な精神力をもってすれば、なぜ朝っぱらから40キロもの米を運んでいるのかを華麗にスルーすることも……前より増えてない?
歩道橋を登りきったところで、老婆が不思議そうな声を上げる。
「……もしかしてお兄さん。前にもこうして助けてくれたかのう?」
「まぁ」
「やっぱり。すてーたすおーぷん君だね?」
とんでもねーアダ名付けられてた。
「懐かしいのぉ〜。あれから老人会でステータスオープンがブームになってのぉ」
老人会で何をやってるんだ。
「こう、自分の体の不調なところを開示するんじゃ。『ステータスオープン! 腰痛レベル10! 高血圧レベル5!』みたいな」
ぜんぜん笑えないよお婆ちゃん。
「ふふ、あの時のすてーたすおーぷん君だったとはねぇ。少し変わったから気が付かなかったわい」
「そうッスか? なんか変わったッスかね?」
前回会ったのは約二ヶ月前。身長体重もほぼ変化ないだろうし、髪型とかも別に変えてない。しかし老婆は、変わった、と断言する。
「見た目の話じゃないんじゃ。心の話じゃよ。もちろん、良い意味でじゃよ」
心。
俺の心は、この二ヶ月の善行生活で変わったのだろうか。
「何か、良い出会いでもあったんじゃないかね?」
「……そうかもしれないッス」
俺の心には、一人の少女の顔が浮かんでいた。
「ほほぉ〜、女の子かい? 女の子かい!? オープンしてみぃ!」
この人めちゃくちゃイジってくるタイプの婆さんだった。
******
歩道橋を渡りきり老婆を見送っていると、大きな楽器ケースを背負う女子高生が横を通り過ぎて行った。善行初日も同じようなことがあったな。
「よいしょ、よいしょ……」
この少女があの時の少女と同一人物かは定かではない。しかしあの日と同じことが再び起こったことに、何か特別な意味を感じていた。まるであの時の失敗を取り返せと言われているような。
彼女の背中に声をかける。不審者と思われぬよう、できるだけ優しく、そして爽やかな声色で。
「ちょっと待って」
ぎくり、と少女の体が硬直する。
「な、なんでしょうか……」
楽器ケースを背負う少女は、体の向きはそのまま顔だけをこちらに向けてきた。その顔は青ざめていて今にも泣き出しそうだ。
なるべく簡潔に、しかし怖がらせないように、丁寧な言葉を選んで要件を伝える。
「荷物、持ってあげるよ」
ポカン、と気の抜けたような顔を見せる少女。
俺が手を差し出すと、困惑しながらも背負っていた楽器ケースを降ろして手渡してきた。しかしどことなく警戒しているようだ。面識の無い男に大事な楽器を渡すのに抵抗があるのだろう。
「代わりにコレ持ってくるか?」
「えっ」
楽器ケースと交換するように自分の学生鞄を彼女に手渡す。楽器ケースを持ち逃げしないことの証明……になるかは分からないが、要は人質の交換だ。もっとも、俺の学生鞄にそれ程の価値があるとは思えないが。
学生鞄を預けたお陰か、少女の警戒心は少し解かれたように見えた。とりあえず駅に向かうとのことで、そこまで運んでやることにする。
とは言え、冷静に考えれば余計なお節介だったかな。あの日の失敗を取り返すチャンスに思えたのでつい声をかけてしまったが、彼女からしてみれば見知らぬ男に声をかけられるのは恐怖だろう。
そんなことを考えていると、後ろを歩く少女が小さな声で話しかけてきた。
「あの……お兄さんって、二ヶ月くらい前に私のことを追いかけ回しませんでした?」
「あー……そうかも」
やはり、あの時の少女と同一人物だったか。追いかけ回したつもりはなかったが。
「やっぱり!」
当時のことを非難されるかもと思ったが、少女から返ってきたのは弾むような明るい声だった。
「あの、あの時はありがとうございました!」
「は?」
感謝された? なぜ? 意味が分からない。
「あの日……私は『目覚めた』のです」
目覚めた? 何の話だ?
訳も分からず首を傾げる俺を意に介さず、少女は淡々と語り始める。
「あの日、お兄さんに追いかけられて、自分でも驚くくらい速く走っていました。まるで風になったかのように。それがすごく気持ち良くて、気が付いたんです。『走るの楽しい!』って。それで、決心したんです」
陸上部に転部する決心でもしたのだろうか。だとしたらこの楽器ケースなに?
「『そうだ、運び屋になろう』って」
とんでもねー決心してんじゃねーよ。
は? なに? こいつ運び屋なの?
「私には重い荷物を持って走る才能があったようで、とある組織からスカウトされました」
まさか……。
「今は《化学部》と呼ばれるようになった組織なんですが、知ってますか?」
こいつ《化学部》の部員だったのか!
「私、お兄さんのお陰で、立派な運び屋になれました♪」
なんで運び屋になってんだよ。走りの才能を犯罪に使ってんじゃねーよ。普通に陸上部とかに入れよ。
……え、もしかして、この楽器ケースの中に何か入ってんの?
突如、少女はスマホを取り出し、楽器ケースを背負う俺の姿を写真に収める。そして、微笑みながら一言。
「共犯ですね♪」
怖い怖い怖い。この中に何入ってるんだよ。
あまりの恐怖に楽器ケースを少女に突き返し、自分の鞄を奪い返してその場をダッシュで走り去った。しかし、
「待ってくださいよ。一緒にヤりましょうよ」
「ひぃぃぃ!? 何をですかぁぁぁ!?」
少女が追いかけてくる。言うだけあってめちゃくちゃ速い。元勇者の俺に食らい付くくらい。
……ふっ。まさか、今度は俺が追いかけられることになるとはな。そしてまさか、今度は俺が泣き叫ぶ番になるとはな。
「いやああああ! 犯罪者ー!」




