第47善「このノゾキー!」
「つまりだな。これは脳内麻薬を出すための実験なんだよ。分かるかい?」
「はぁ……」
「先生の仮説では、赤子の真似をするのが最もエンドルフィンが分泌されるんだ」
「そうなんですね……」
威厳たっぷりに黒板の前に立ち、複雑な化学式をつらつらと描いていく化学教師。しかしオムツ姿である。
黒板の前の特等席に座り、委員長は化学教師の無茶苦茶な理論を怪訝な顔で聞いていた。
「あの、分かったのでもう行って良いですか? 部活に挨拶しに来ただけで、これから委員会の会議に行かないといけないので」
「……極秘の研究なのだ。誰にも言わないでくれるか?」
「言いませんよ」
「それは良かった! 委員長ちゃんの化学のテストは百点にしてあげよう!」
「そういうのいいですって……」
「そ、そうか。まぁ君なら自力で百点取れそうだもんな。よし、じゃあ一億円あげよう!」
「はいはい、分かりました。わたし、もう行きますね」
化学教師は『ちょっと待ってろー!』と行って準備室の方へ走って行った。
呆れ顔の委員長はその隙に立ち去ろうと席を立つ。化学教師の無茶苦茶な説明に納得したワケではないだろうが、少なくとも俺は変態プレイに巻き込まれていただけだと理解してくれたようだ。
「吉井くん、今日は先に帰ってて。委員会で遅くなりそうだから」
「別に待っててもいいぞ」
「ほんとに? いいの?」
「ああ」
トイレを待とうとしたのは怒られてしまったが、会議が終わるのを待つのは大丈夫なようだ。
「じゃあ……帰りにラーメンでも食べに行く?」
「アリだな。行くか」
「やったー。ママに連絡しとかないと」
「聖なるママも一緒に行くか?」
「その呼び方やめてください……。わたくしは遠慮しておきますね。お二人の邪魔できませんし」
「そんな、邪魔だなんて……」
「そうだぞ。俺と委員長が二人席で食べるから、先輩は少し離れた席で一人で食べててくれ」
「なんですかその悲しい光景」
「金だけ払ってくれればそれでいいっスよ」
「たかられてる……」
「豚骨ラーメンならどうッスか?」
「豚骨……豚の……骨……」
揺らいでる。この人、骨が付けば何でもいいらしい。
そんな会話を尻目に、委員長は教室を出て委員会へと向かって行った。彼女と入れ違うように化学教師が準備室から戻ってくる。
「持ってきたぞー! ってあれ、委員長ちゃんは?」
「もう行ったッス」
「なんだ、せっかく持ってきたのに……」
その手に握られているのは黒いビニール袋。中は見えないが、何かがミチミチに詰まっているようだった。
一億円。冗談なのかガチなのか。
俺と先輩は顔を見合わせて、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
***
「はぁ〜、慣れてきたとはいえ、やっぱり悪行生活は疲れるなぁ」
実験机に突っ伏し、化学教師は大きな溜め息を吐いた。私もですよ、と聖母先輩も疲れた声で同調する。
「毎日毎日、骨身を削る思いですよ。たまには骨休めしたいものです」
最近の先輩、支店長に感化されたのか骨の慣用句を多用するようになってちょっとウザい。しかも言った後にちょっとドヤ顔するのだ。だいぶウザい。
「支店長さんとの一件で、この呪いは我々の悪事を防止するための措置だという話で納得はしましたが……それでもやはり大変ですよねぇ」
「むしろ私は悪事をやらされてる訳だが」
「それは全く意味が分かりませんね」
「だよなぁ。神にもう一度会って話を聞きたいなぁ」
「仮に会えたら呪い自体を解いてほしいものですね。いいえ、力ずくでも解かせます」
「だな」
神に何する気だよコイツら。
「でも、吉井さんはだいぶ更生しましたよね。呪いを受けた意味はあったかもしれません」
「吉井の場合は、呪いというよりも委員長ちゃんのお陰だろ」
「それはそうですねぇ」
「確かに委員長は簡単にヤらせてくれるし、最低でも一日二回はサせてくれるからな。有難いッスよ」
「はいはい主語を付けましょうね〜」
「お陰で自分自身でも変わったと思う。最近だと誰も見ていない所でもゴミ拾ったりするし」
「いやいや、誰も見てなくてもやれよ」
鼻で笑われた。悪行に勤しむ化学教師は知らないのだろうが、誰にも感謝されないサイレントゴミ拾いは善行認定されないのだ。きっと聖母先輩も同意してくれるだろう。そう思って先輩を見るが、彼女は予想外の言葉を発した。
「そうですよ。ゴミ拾いなんてスーパーイージーな善行じゃないですか。わたくしは拾いまくりですよ」
「……は?」
聖母先輩の言っている意味が理解できなかった。
聞き間違いだろうか。確認するように、一言一言、慎重に言葉を紡ぐ。
「いやいや、誰も見てない所でゴミを拾ったって、善行認定されないっしょ?」
「え? されますけど?」
「…………は?」
衝撃的な発言。体に電流が走るほどだった。
何かの間違いであってほしい。縋るような思いで、俺は言葉を絞り出す。
「善行と認定されるには、誰かの感謝が必要なんじゃないんスか?」
「感謝? いえ、別にそんなことは無いですが……。仮にそうだとしたら、一日に五十善なんて無理ですよ」
困惑する俺の顔を見て、先輩も同様に困惑している。話が噛み合っていないのは明白だった。
まさか、先輩の『一日五十善』とはルールが違うのか? じゃあ先生は?
——いや、待て。
化学教師の『一日七悪』。これは、何をもって『悪』と認定されるのだろうか。
質問をする前に、化学教師は冷静な面持ちで要約をする。しかし未だオムツ姿である。
「つまり吉井の『一日七善』は、善行認定されるために感謝される必要がある、ということか?」
「……そうッス」
二ヶ月の善行生活を通して、これは間違いないと断言できる。実際、誰にも見られていない場所でゴミを拾うようになったが、これを善行認定されたことは一度も無い。
誰かの目の前で拾い、そのうえ感謝されて初めて善行認定されるのだ。
しかしこの口ぶりだと、化学教師の『一日七悪』も何か認定のための条件があるワケではないらしい。聞かずとも分かる。
そうだ。そもそも初めて『一日七悪』の話を聞いて一緒に悪行をした日、ゴミ箱を蹴っ飛ばしただけで悪行認定されていたじゃないか。なぜ今まで疑問に思わなかったのだろう。
「まさか吉井さんにそんな条件があったとは。『一日七善』なんて簡単だと思ってましたが、感謝が必要となると少々厄介ですね」
「そうッスよね!? そうッスよね!?」
先輩の一日五十善という圧倒的な呪いの前に、俺の一日七善なんか霞んで見えていた。だから先輩の前では愚痴を吐き難かった。なんだかようやく対等になった気分だ。そんな話をぼやくと、
「そんな……。人それぞれ大変と感じるものは違いますから。気にしなくていいのに。気を遣わせていたようですみません」
と至極真っ当な事を言われてしまう。
「先輩……」
「ふふ、なんか良いこと言っちゃいましたね?」
「急にマトモなこと言うとビックリするから止めてくれ」
「折りますよー?」
それでこそ先輩だ。だからと言って本当に腕を折らないでほしいのだが。
折られた腕を再生させつつプラプラ揺らして遊んでいると、その横で化学教師が顎に手を当てて難しい顔で考え込んでいた。しかしオムツ姿である。
「うーむ。ますます謎が深まるな。単純に人によってルールが違うだけなのだろうか」
「あまり深く考えても仕方ないかと。ドレッドさんの『一日一ゴミ拾いさもなくば定期券の感度がめっちゃ悪くなる』なんていう、ふざけているとしか思えない例もありますし。単に神さまの気まぐれなのでは?」
聖母先輩の言う事はもっともだ。しかし、俺の中で引っかかっているモノがある。表情が曇っていることを察したのか、先輩が発言を促してきた。
「その、なんつーか。そもそも、どうやって善行や悪行の判定をしてるんスかね?」
「というと?」
「俺の場合は感謝っていうトリガーがあるんで。気持ちの籠もった『ありがとう』っていう言葉にこの刻印が反応してるモンだと思ってたんスよね。だけど、先輩や先生の場合は——」
「常に誰かが見ていないといけない」
言わんとすることを察し、先輩と先生は続く言葉を同時に引き継いだ。
「吉井さん……」
「俺、なんかとんでもない事に気付いちゃったッスね」
「急に頭の良さそうなこと言うとビックリするから止めてください」
「折るぞ?」
先程の意趣返しかと思い、意趣返し・返しをしてみたものの、なぜか再び俺の腕が折られてしまった。理不尽だ。
折れた両腕をプラプラさせて遊んでいると、化学教師が険しい顔でうーんと唸った。しかしオムツ姿である。
「話を戻すと……誰かが常に我々を監視してる、ということか?」
誰か、と濁したが、有り得るとしたら神だろう。
聖母先輩も普段のニコニコの笑みを崩し、露骨に不快感を顕にしていた。
「それはちょっと……受け入れ難いですね」
「あぁ。女性の私生活を監視しているなんて」
そのオムツ姿が現在進行形で神に見られているというワケだな。いいぞ、その悍しい姿を見せつけて神の脳を汚染してやれ。
「着替えやお風呂も覗かれているのでしょうか?」
「だとしたら……我は神を許さんぞ」
女性陣の全身から怒りが魔力となって溢れ出てくるをヒシヒシと感じる。その横であっけらかんとしていると、聖母先輩が不思議そうに俺の顔を覗き込んできた。
「吉井さんは監視されてるの気にならないんですか?」
「まぁ別に。何もやましいことしてないし」
「でも吉井さんが監視されているということは、委員長さんと一緒に居るとき、委員長さんも見られてるということですよ?」
「は? なんだそれめっちゃムカつくな。おい神。勝手に見てんじゃねーよ」
途端に怒りがフツフツと込み上げてくる。しかしこの怒りをぶつける先が無い。どうしようもなくなり、俺は意味もなく天に向けて中指を突き立てた。仮に神が見ているとすれば天上からだと思ったからだ。
魔王二人組も、俺を真似るように天に中指を突き立てる。
「このノゾキー!」
「ヘンターイ!」
天に向けて怒りのまま捲し立てた二人は、少しだけスッキリしたような表情を見せた。しかし次の瞬間には、その表情が苦悶に満ちたものへと変貌する。
天に突き立てていた中指が、グニャリ、と独りでに甲の方へ折れ曲がったからだ。
「きゃああ!? いったぁぁぁあああい!」
「ぐあああ! な、なんだこれ!?」
手先を抑え込み悶絶する二人。この現象には見覚えがある。善行を自作自演しようとした時に起こる罰則だ。
しかしなぜ今? 神に向けて悪口言ったからか? だとすれば、天から神が監視していることが図らずも証明されてしまった。
そうなると次の疑問が沸き起こる。何故、俺には罰が下されないのだろうか。
尚も中指を天に突き立てて汚い言葉を吐いてみるが、一向に俺の指が折れ曲がる気配は無い。
「ゆ、指が! 指がぁぁ!」
悶絶する二人の横で、俺は思考する。
俺だけ、善行認定に『感謝』というトリガーが必要。
俺だけ、神に悪態を吐いても無視される。
何か、俺だけ例外的な存在という気がしてならない。
「いたぁぁい! 回復魔法でも治らない!」
「放っておけば治りるッスよ。てか静かにしてもらえないッスか? 今考え事してるんで」
「少しは心配してくれません!?」
「はいはい痛そうッスねーって痛ってぇぇぇ!」
同じ苦しみを味わえと言わんばかりに、俺の中指がポキリと折られた。理不尽だ……。




