第32善「なんだ、良かった」
「私、殺っちゃった……」
べっとりと血糊が付いたバットを手に、化学教師が力無く笑う。
「ちょ、やりすぎッスよ!」
「だってだって! 悪行が楽しくなっちゃって!」
首をブンブンと振る様はまるで駄々をこねる子供だ。しかし返り血を浴びて、白衣の所々に赤い斑点を付けている様は殺人鬼だ。
恐る恐る、壁の影から顔だけを出して階段の方を覗き見る。すると、うつ伏せに倒れる女子生徒の足が見えた。化学教師の返り血の量からして重症なのは間違いない。その先にあるカチ割れた頭を見るのが怖くて、思わず身を引っ込めてしまった。
「これ……死んでないッスよね?」
「た、たぶん……」
「先生、治癒魔法とか使えないんスか?」
「あいにく魔法はてんでダメでな。お花を咲かせる魔法しか使えん」
この人ほんとに元魔王かよ。まぁ俺も回復魔法は使えないので人のこと言えないのだが。
しかし幸いなことに、回復魔法を使える人物なら一人だけ心当たりがあった。
「こうなったら先輩を呼ぶしかないか」
「ウチの学校にいる、もう一人の異世界帰りの元勇者か?」
「正確には元勇者じゃなくて、元魔王なんスけど……」
「魔王……?」
先生の眉がピクリと動く。しまった、口を滑らせたな。化学教師は先代魔王を恨んでいるようだし、聖母先輩がまさにその先代だという事実は伏せておいた方が良さそうだ。
先生は詳しく聞きたそうにしていたが、それに構うことなく電話を発信する。プルルル、というコール音。その音が聞こえた直後、どこからともなくスマホの着信音が鳴り響いた。
「ん? 先生じゃないぞ?」
化学教師は自身のスマホを取り出して、音の出処が自分でないことを証明するように、真っ暗な画面を見せつけてくる。当然俺のスマホでもない。この場には俺と先生以外、誰もいない。となると音の出処は……。
壁の影から再度顔を覗かせる。そこには変わることなくうつ伏せに倒れる女生徒の足が。音の出処は、彼女のような気がする。
もしやと思い、スマホの発信を切ってみる。すると、鳴り響いてた着信音も同じタイミングでピタリと止まった。
「まさか……」
意を決し、倒れている女生徒の女性の上半身を確認。
目に入ってくる広大な血の海。そこに突っ伏す頭には、シスターが被る頭巾が。その合間から、金糸のように光り輝く金髪を覗かせている。
そこに倒れているのは、聖母先輩、まさにその人だった。
「なんだ、良かった」
「良かった、とは?」
「この人は殴っても大丈夫な人っス」
「殴っても大丈夫な人なんてこの世にいないと思うぞ!? 自分でやっておいてなんだが!」
この人は普段、散々人の骨を破壊しているのだ。たまには自分自身の骨が破壊される日があってもいいと思う。
「あー、この人が異世界帰りの聖母先輩なんスよ」
「えっ!? そうなのか!?」
「先生、ちょっと写真撮ってくれないッスか?」
「は……?」
聖母先輩のこんな姿、普段見れるもんじゃない。記念を残さねば。
倒れる彼女の体に近づき、満面の笑みでピースサインを決める。せっかくだし、先輩を倒した記念に彼女の体を踏みつけてやろう。そう思って片足を上げた時だった。
「うぅっ……。まさか、このわたくしが不意を突かれるとは……」
倒れていた先輩の体が、ゆっくりと動き出したのだ。
俺は乗せようと足を慌てて引っ込め、起き上がろうとする彼女の体をそっと支えた。
「先輩!? 大丈夫っスか!?」
「こいつ……」
元勇者ともなれば(変り身の)素早さも一級品なのだ。
化学教師が冷たい目を向けてくる。やめろよ、照れるじゃねぇかよ。
「あら……? 吉井さん?」
「俺じゃないっスよ? やったの俺じゃないっスよ?」
「こいつは……」
元勇者ともなれば防御力(保身)もピカイチだ。そんな尊敬するような冷ややかな目で見るなって先生。
よろよろと力無く、聖母先輩はゆっくりと立ち上がる。その頭には血糊がべっとりと付着しているが、既に出血は止まっているようだ。
「不意打ちとは言え、わたくしをノックアウトできるのなんて、吉井さんくらいしかいる訳ないじゃないですか」
やばい、俺にあらぬ罪が。冤罪で処刑でもされたら堪らないので、そっと先生の方向を指し示してやった。聖母先輩の視線がそちらに誘導され、その瞳に凶器である木製バットが映る。続けて、その持ち主である化学教師へと視線が移動していった。
「……もしかして、やったのは先生ですか?」
「そうだ」
先生は動じることなく毅然と答える。二人に面識は無いようだし、先生は聖母先輩の狂気を知らないからそんな態度でいられるのだろう。
「先生とはいえ、やられたからには容赦しませんよ? 覚悟はよろしいですか? 歯を食いしばってください」
「その前に一つ聞きたいのだが、君も元魔王なのか?」
驚いて見開かれる先輩の瞳。確認を求めるようにチラリとこちらを見てきたので、俺は静かに頷いた。
「はい、そうです。『も』ということは、先生も?」
「そうだ。もしかして君は、終焉の魔王か?」
「そうですよ」
しまった。止める間もなくあっさりバレてしまった。
返答を聞き、化学教師がニンマリと黒い笑みを見せる。
「そうか……。まさかこんな所で出会えるとは。覚悟はいいか?は、こっちのセリフだ」
「……何が何だか分かりませんが、やる気なんですね? いいでしょう」
そうして、元魔王同士の喧嘩が始まった。




