第31善「ビチャビチャだー!」
「いいッスか? あそこにあるゴミ箱。あれを蹴っ飛ばして、ゴミをぶちまけてくれ」
廊下の先。自販機の横に置かれたゴミ箱を指差し言うと、化学教師は横でブルルと身震いした。
「そ、そんな恐ろしいことよく思い浮かぶな……。さすが虐殺勇者」
虐殺勇者は虐殺をするだけだぞ。別にゴミを散らかしたりしないぞ。
「しかしそんな悍しいこと、先生にできるだろうか……」
「こんなの悪行の序の口っスよ」
「そ、そうなのか……。やるしかないか……」
化学教師は想像以上に善人だった。悪行に抵抗があるのはもちろん、そもそも悪い事を思い付きもしないのだ。
対して、俺は悪行のアイディアが次から次へと湯水のように溢れてくる。やはり俺には善行より悪行の方が向いているのかもしれない。
「よし、やるか! 後片付けは頼んだぞ?」
「うっす」
化学教師がゴミ箱を蹴飛ばすという悪行を実行し、善行として俺がその片付けをする、という算段だ。
決戦に向かうかの如く覚悟を決めた表情で、化学教師はツカツカとヒールを鳴らしながら廊下を進む。白衣がバサバサとはためいて何だか物々しい。俺はその様子を少し離れた柱の影から窺った。
「大丈夫、私はできる……できるぞ……」
ゴミ箱のもとへ到着すると、彼女は周囲を見渡し誰もいないことを何度も確認する。仮にも教師。悪行するところを見られたくないのだろう。
「やるぞ……やってやるぞ!」
しばしゴミ箱を見つめて葛藤。やがて決心をつけたのか、
「うりゃー!」
気合の籠もった掛け声と共に綺麗なフォームの回し蹴りを繰り出し、ゴミ箱をスコーン!と勢い良く吹っ飛ばした。
なにもそんな勢い良く蹴らんでも……。ゴミがぶちまけられたのを見届け、溜め息混じりで俺も現場へ向かう。入れ替わるようにして先生は一旦身を隠した。
「ウワー! ゴミがたくさん落ちてるー! こりゃ大変だー!」
偶然通りかかった体を装い、誰に言うでもなく大袈裟に言うと、そそくさと落ちているゴミを回収する。必要以上にぶちまけられたので全部拾うのが面倒臭い。
「フーッ! 綺麗になったな!」
ゴミを全て回収し、ゴミ箱を元の場所に戻したタイミングで化学教師が再び登場。こちらも俺がゴミ拾いしているところに偶然通りかかった体だ。
「ウワー! 君が片付けてくれたのかい!?」
「ハイ! そうッス!」
「そりゃ凄い! ドウモありがとう!」
繰り広げられる三文芝居。冷静になれば非常に恥ずかしい。が、やった甲斐はあった。感謝の言葉を聞いた瞬間、左手の甲がほんのり暖かくなったのである。善行達成だ。
「やった! やったぞ!」
先生の方も悪行認定されたようだ。彼女の額にある『悪』の字の線が一つ消えていた。悪行ノルマは残り四回。
「さすが虐殺勇者だ……こうも簡単に悪行を達成できるなんて!」
「もしかすると俺達、最強のコンビじゃないッスか?」
先生が悪行を実行し、俺が尻拭いの善行をする。互いにメリットしかない最強のコンビだ。自分一人だけでマッチポンプをするとペナルティがあるようだが、誰かに善行の種を撒いてもらう分には問題ないらしい。これは新たな発見だった。
「先生、どうかしたんスか?」
何やらソワソワとして落ち着きが無い様子。声をかけると、彼女は歯切れ悪くおずおずと切り出した。
「……何ていうか、ゴミ箱蹴飛ばすのちょっと楽しかった。スカッとしたと言うか」
悪行の魅力を知ってしまったか。真面目な先生の開けてはいけない扉を開けてしまった気がする。
まぁ、今後も一日七悪生活をやり続けるのだ。悪行に対する抵抗を少しでも減らしておくのは悪いことではないだろう。
「次はどうするんだ!?」
そう言う彼女の瞳が、期待に少し輝いているような気がした。
「そっすね……アレなんてどうッスか」
指差したのは、廊下にある水道だ。
「水をぶちまけて辺りを水浸しにする、ってのはどうッスかね」
「おお……おお! なんという悪魔的所業! さすが虐殺勇者!」
虐殺勇者は虐殺をするだけだぞ。別に水浸しにしたりしないぞ。
「よし! 本当はそんなことやりたくないが、仕方ない! さっそくやるぞ!」
口ではそう言うものの、体は悪行したくてウズウズしてる様子だ。
化学教師は勢い良く駆け出し水道に直行すると、今度は躊躇う事なく悪行を実行する。蛇口を全開にし、その口を親指で塞ぐ。水が噴水のように吹き出し、ビチャビチャと床に飛び散った。
「あは、あはは! た、楽しい!」
さながら公園ではしゃぐ子供だ。完全に悪行の魅力に取り憑かれてしまったように見える。余りやりすぎると掃除が面倒なのでその辺にしてもらいたい。
「あはははははー!」
噴水を思う存分楽しんで廊下を水浸しにした後、先生はスキップ気味でその場を立ち去って行った。異常なテンションが少々気がかりだったが、今は善行を達成するのが最優先。
「ウワー! ビチャビチャだー! こりゃ大変だー!」
再び偶然通りかかったフリで、近くにあった掃除用具入れから雑巾を取り出し、飛び散った水を拭き取り始める。
くそ、こんなにやらなくてもいいのに。盛大に水をぶちまけたもんだから、もはや水溜りだ。
悪態をつきながら、いそいそと水を拭き取っている時だった。
——パリン
そんな音が、廊下の先から聞こえてくる。
ふと顔を上げると、どこで見つけてきたのだろう、バットを片手に割れた窓の前で佇む化学教師の姿が。その顔は無邪気な笑みで満たされている。
「あははは! 悪行楽しー!」
続けてもう一枚、バットで窓を叩き割る。
まずい、なんか変なスイッチ入ってしまってないか? つか窓ガラス割られても俺は修繕できないのだが。
「あはははははは!」
「ちょ、先生!?」
狂気じみた笑い声を発しながら、化学教師は走りざまに次々と窓ガラスを叩き割る。呼び止めるも、俺の声は届いていないようだった。
なんかヤバいことになってきたぞ。割れた窓ガラスは後で聖母先輩にお願いして修復してもらうとして、先生を止めなければ。
「どんどん悪いことしちゃうぞー!」
廊下の窓を全て割り終え、先生はそのまま階段の方へ向かって姿を消す。慌てて俺もその後を追う。
しかし、
——バキッ!
と物凄い音がして、思わず足を止めた。
何だ今のは音は。今度は何を壊した。
物凄く嫌な予感がする。
すると、一度姿を消した化学教師が、階段の方からトボトボと重い足取りでこちらへ戻って来た。まるで悪戯を仕出かしてしまった子供のように。少し困惑気味に微笑みながら。
「吉井、私——」
こちらに見えるように、その手に持つバッドを翳す。
そこには、べっとりと付着する、赤い液体が。
「私、殺っちゃった……」




