第2善「ヤらせろよ」
「マジで帰ってきたんだなぁ」
近代的な街並みを眺めて、しみじみとした声が溢れ出た。
時刻は朝の七時半。あの真っ白な空間から送り出された後、俺は自宅のベッドの上で目を覚ました。家に居てもすることないし、出席日数もヤバかった気がするので、とりあえず学校へ向かうことにしたのだ。
ちなみに異世界で三年も過ごしたというのに、こっちの世界ではたったの三日しか経っていないようだった。時間の流れが違うのか過去に戻されたのか。詳しいことは分からない。
確かなのは、一人暮らしのうえ友達もいないので、三日間失踪していても誰にも気付かれていないという事だけだった。泣けるぜ。
「つか、善行とかマジで何すりゃいいんだよ……」
『一日七善さもなくば死』
歪んでしまった倫理観を正すため、一日に七回も善行をしなければならないという。それが頭を支配して、三年ぶりの日本を懐かしむ暇もない。しかし善行なんか自ら率先してやったこと無いので、具体的に何をすればいいか見当がつかない。
手っ取り早く、誰か犯罪でもしてくれないだろうか。
異世界から持ち帰ってきた(殺傷力の低い)スキルや魔法。その力があれば、犯罪者なんか余裕で捕まえられるはずだ。
そんなことを考えながら駅への道を歩いていると、歩道橋を前に立ちすくむ老婆に遭遇した。老婆は俺の姿に気が付くなり、申し訳なさそうな声色で話しかけてくる。
「あのー、お兄さん。すみませんが、歩道橋を渡りたいんじゃ。荷物を持ってくれんかのぉ」
おお、これは善行するチャンスではないだろうか。チャンスの方から転がって来てくれるとはツいている。
「ああ、いいッスよ」
「ついでにワシのこともおぶってくれないかのぉ」
お、もしかして婆さんを背負えば一気に二善稼げるんじゃないか? そんな邪な考えから、その依頼も受け入れることにした。片手で老婆を支えながら背負い、もう一方の手で荷物を抱えて歩道橋を登る。
そうした後に気が付いた。道路を渡るだけなら、婆さんのことを反対側に投げてやるだけで良かったじゃないか。まぁもう背負っちゃったから別にいいけど。
「お兄さん、力持ちだねぇ。米20キロも入ってるのに」
元勇者のパワーをもってすれば人間一人と米20キロを運ぶなど造作もないこと。そして元勇者の強靭な精神力をもってすれば、なぜ朝っぱらから20キロもの米を運んでいるのかを華麗にスルーすることもできる。
「それに背もすっごく高いねぇ。身長どれくらいあるんだい?」
そういえば、三年分の肉体の成長も元に戻っているようだ。千切れたはずの腕も元に戻ってるし。
確か、転移前は身長182センチくらいだったか。いかんせん最後に計測したのは(記憶上)三年前だ。どうせだし正しい数値を確認しよう。そう思い、慣れ親しんだ言葉が自然と口から出てきた。
「『ステータスオープン』」
自身の能力や身体状態が羅列されたウィンドウが目の前に——出てこない。しまった。つい癖で口にしてしまったが、ステータス画面を表示できるのは異世界限定みたいだ。
「すてーたす、おーぷん……?」
バッチリ聞かれていた。
「若い子の間で流行っとるのかのぉ? すてーたすおーぷん」
やめろ。忘れてくれ。
「すてーたすお〜ぷ〜ん」
この人めちゃくちゃイジってくるタイプの婆さんだった。元勇者の強靭な精神力が無ければ泣いちゃうところだったぞ。
そんなこんなで歩道橋を渡りきり、背後でステータスオープンしまくってる老婆を道路の反対側へと運んでやった。背中から降ろすと、老婆は元々折れ曲がっている腰をさらに折り曲げて深々と感謝してくる。
「お兄さん、どうもありがとう。とっても助かりましたじゃ」
荷物を運んだ分と老婆を背負った分。これで二善稼ぐことができたのだろうか。なんだ、意外と楽勝じゃないか。
「すてーたすお〜ぷ〜ん」
ステータスオープンしながら立ち去っていく老婆を見送っている時、何やら左手の甲が暖かくなるのを感じた。ふと目を向けて見ると、
「うわ、なんだこれ」
左手の甲に、紋章のような物が刻まれていることを発見する。七芒星というのだろうか。七本の線で構成された、角が七つある星型の図形。拭っても落ちない。タトゥーのように肌に刻まれているみたいだ。
なんだこれ。他人にも見えるのだろうか。すれ違った人に無言で手の甲を見せつけてみた。不気味がられた。が、七芒星は見えていないようだった。
俺だけに見える謎の刻印。しげしげと観察していると、その一辺が他と比べて薄くなっていることに気が付く。そして直感した。善行を重ねると、七芒星が一辺ずつ消える仕組みになっているのだ。
消えているのは一本だけ。つまり、老婆と荷物を運んだのは一善分としかカウントされなかったようだ。なんだかちょっと損した気分。老婆は自分で歩かせればよかった。
まぁいい。善は善だ。幸先の良いスタートを喜ぼうじゃないか。この調子でじゃんじゃん善を稼いでやろう。
ひとまず、重い荷物を運べば善行として認定されることは分かった。手っ取り早くミッションを達成するために、その辺を歩いてる人の荷物を運んでやることにする。
「よいしょ、よいしょ……」
するとタイミング良く、大きな楽器ケースを背負う女子高生が横を通り過ぎて行った。見るからに重そうだ。これは善行チャンスだぞ。
さっそく彼女の背中に声をかける。不審者と思われぬよう、できるだけ優しく、そして爽やかな声色で。
「おい、ちょっと止まれよ」
……あれ? 優しく爽やかに声をかけようと思ったのだが、なんかちょっとイメージと違った。まぁいいか。
「な、なんでしょうか……」
楽器ケースを背負う少女は、体の向きはそのまま顔だけをこちらに向けてきた。その顔は青ざめていて今にも泣き出しそうだ。体の向きを変えないのは、何かあればすぐに逃げ出せるようにするためか。
せっかくの善行チャンス。逃すものか。なるべく簡潔に、しかし怖がらせないように、丁寧な言葉を選んで要件を伝える。
「お前の荷物をよこせ」
刹那。猛ダッシュで走り去る少女。荷物の重さなどまるで感じていないようだ。
「は? おい、逃げんなよ」
「きゃああああああ!?」
反射的に後を追うと、少女は恐怖に顔を染めて絶叫し、さらに加速する。
みすみす善行の獲物を逃してしまうのは惜しい。何としても善行してやる。
「待てよ。ヤらせろよ」
「ひぃぃぃ!? 何をですかぁぁぁ!?」
決まってんだろ。善行だよ。善行ヤらせろ。
「いやああああ! 変質者ー!」
何!? 変質者だと!? どこだ!?
変質者を捕まえる。そして殺……殴る。それこそ手取り早くできる簡単な善行じゃないか。そう思って足を止めて周囲を見渡すが、それらしき人物はどこにも見当たらない。
「おい、変質者どこだよ?」
少女に尋ねるが、彼女は物凄い速度で走り去っていて既にそこにいなかった。追いかけようか……。いや、それよりも変質者をシメる方が楽そうだ。
しかし、変質者なんてどこにいるんだ? それっぽい人は全然見当たらない。
——探すの面倒だし、この辺にいる人は全員ぶん殴っておくか。
******
「それじゃ、身分証出してくれる?」
異世界から帰ってきて僅か十分。さっそく警察のお世話になりました。
と言っても捕まったワケではない。職質されているだけだ。
変質者を探すの面倒だから、この辺にいる人を全員ぶん殴ろう。確かに一時はそう考えた。
しかしそんなことをすれば、俺が倫理観の捻じ曲がったサイコパス野郎だという神の言葉を証明してしまうことになる。そう思い至り、問答無用で殴る前に確認を取ることにしたのだ。
『お前は変質者か?』と。
しかしイエスと答える人はおらず、結果そこら辺の人々に『お前は変質者か?』と聞き回るハメになった。挙句『変質者はお前だ』などと失礼なことを言わることになり、最終的に警察を呼ばれるに至ったのである。
「いやだから、俺は変質者を探してただけなんスけど……」
「分かったから。まず身分証出してくれる?」
「はぁ……。『ステータスオープン』」
「馬鹿にしてる?」
「あ、いえ……スンマセン……」
しまった。またやってしまった。
「君、学生だよね?」
「勇者っス」
「は?」
「あ、いや、学生っス」
あぶねー。よく考えて発言しないと。脊髄反射では異世界基準の回答をしてしまう。
「それじゃ、生徒手帳でいいから。出して」
奇跡的に生徒手帳は学生鞄に入れっぱなしにしてあった。満を持して生徒手帳オープン!
「吉井善七くんね。善高の二年生。クラスのところが未記入だね? クラスは?」
「SSSっス」
「二年SSS組ってこと? 最近の高校は大層なクラス名してるんだなぁ」
やべ、SSSは冒険者のクラスだった。まぁいいか。
そうして事情を説明することで、とりあえず警官は納得してくれたようだ。
被害者がいないこともあり、罰則や学校への連絡も無くそのまま解放してくれた。『人に迷惑をかけないように』という有難いお説教を頂いてしまったが。
クソ。善行をしようと思っただけなのに、なんでこんなことに。しかしぶつくさ言っても仕方がない。善行をしないと死んでしまうのだから。めげずに善行チャンスを探し続けるしかないのだ。
ひとまず不審者を捕まえるのは諦めて、荷物を運ぶ作戦に戻ることにしよう。
大荷物を持つ人に優しく話しかける。和かな笑顔と共に。
「お前の荷物をよこせ」
「きゃああああ!? 変質者!?」
「なに!? 変質者だと!? どこだ!? おい、お前は変質者か!?」
******
くそ! どうしてまた警察を呼ばれなきゃいけないんだ! 善行しようとしてるだけなのに!
荷物を運ぶ作戦はダメだ。なにか、なにか他に善行チャンスはないか……。
その時だった。
「や、やめてください……!」
ふと耳に届く、少女のか細い声。
声が聞こえてきた方向に目を向ける。出処はコンビニの駐車場。黒髪の女子高生が、チャラそうな男にナンパされている現場を発見した。
——ククク、善行チャーンス。