弐章-② 双子の妹、救(さら)われる
そのやりとりを思い出してしまった琴乃は、ぶるりと身震いする。
雄一郎の怒りはかなりのもので、あれだけ虐げてきた琴乃にも見せたことがないものだった。
いつあの矛先が自分に向かうか、分からなくて怖い。今日は雄一郎に出かける用事があったため琴乃と顔を合わせることはなかったが、明日はきっと今まで以上に痛めつけられるのだろう。でないと雄一郎の腹の虫が治らない。
それを想像して、胸の辺りがきりきりと引き絞られる。恐怖からか、指先から熱がなくなり震えた。冬場よりもよっぽど暖かいはずなのに、今は真冬よりも寒い気がする。だからか、眠ろうと思ってもうまく眠れなかった。
琴乃はため息をこぼし、胸元で抱えた手鏡をぎゅっと握り締める。そして手鏡にそっと鏡面にはあ、と息を吹きかけ曇らせると、『さかえ』と文字を刻んで撫でた。
少しだけ。本当に少しだけ、震えがおさまる。
それから深呼吸をして、今度こそ眠りにつこう。そう思ったときだった。
ずるずる。
立て付けの悪い襖が、開く音がした。
驚いた琴乃は、布団の中でぎゅっと身を縮こませて固まる。
(だ、れ……?)
今まで、琴乃の部屋に人が来たことはない。それは使用人であっても、だ。食事を運んでくる人は大抵、襖の前に置き去りにして去ってしまう。
しかも今は、夜更けだ。真っ暗闇が辺りを色濃く染める頃。そんな時に入ってくる人間など、絶対にろくなものではない。
人ではないものの可能性も考えたが、この屋敷は術者の屋敷で、何重にも結界が張られていた。生半可な妖物では、屋敷に入る前に跳ね飛ばされてしまうだろう。なのでその可能性はないと思われる。
ひたり、ひたり。
布団の中で必死にそんなことを考えていると、忍ばせた足音がする。
ひたり、ひたり。
一歩。また一歩。近づいてくる音に、琴乃は息を殺した。恐怖のあまり、声が出なかった。体も上手く動かせない。
それでも、何事もなく事態が過ぎ去ってくれることを願う。
しかし、琴乃の願いは叶わない。
侵入者が、琴乃の掛け布団に手をかけたからだ。
「――ひっ」
掛け布団を取り払った人物を見て、琴乃は喉の奥から悲鳴を漏らした。
そこにいたのは、勝己だったのだ。
明らかに正気ではない様子で、ぷうんと酒気の匂いがしてくる。どうやら、相当飲んだようだ。
だが問題は、彼が酒を飲んだことではない。何故今、琴乃の前にいるかということだ。
手鏡をぎゅっと握り締めたまま、琴乃は震える声で問う。
「勝己、さま。何故、こちらに……?」
「ああ? 俺がここにいて悪いのか?」
良い悪い、で言うなら悪い。だって勝己は今朝方、雄一郎に屋敷へ入ることそのものを禁じられていたからだ。
しかしそれを琴乃が口に出せるはずもない。思わず押し黙っていると、珍しく勝己が笑みを浮かべた。
その笑みがどことなく粘着性を帯びていて、琴乃は知らず知らずのうちに後ずさる。本能が、この状況はまずいと訴えかけていた。
その予想違わず、勝己は琴乃の首筋を片手で掴んでくる。
まるで、命綱を握られているようだった。
「いやさ、あいつに屋敷から追い出されてさぁ……昼間っから酒を浴びるように飲んで。そっから、気づいたんだよ」
「なに、を」
「あいつにはもう一人、娘がいるっていうことをだよ」
そう言う勝己が、琴乃の襟元に手をかけようとする。
勝己が何をしようとしているのか。それを理解した瞬間、肌が粟立ち生理的な嫌悪感が噴き出す。琴乃は必死になって胸元を押さえた。
そんな琴乃に苛立ったのか、勝己は首筋を掴んでいた手を離すと、琴乃の頬を勢い良く叩く。その衝撃で床に倒れ込んだ琴乃に、勝己は馬乗りになった。
そして琴乃の両手首を片手で頭上に封じると、鼻歌混じりに襦袢を脱がそうとしてくる。
「結彌乃じゃなくても、お前を孕ませたらさすがのあいつも俺を認めるしかねえ……」
「い、や……いやっ」
「うるせえ動くな。それに叫んだところで、お前なんて誰も助けに来てくれねえよ」
下卑た笑い声をあげながら、勝己はなんてことはないように琴乃を辱めようとする。
言っている言葉の意味が、分からない。琴乃を手篭めにして身篭らせても、雄一郎が勝己を認めることはない。琴乃にすら分かるほどの結論に、どうして勝己本人が気づけないのだろう。
むしろそんなことのために、琴乃の中にある最後の矜持すら貪りとられるのだと思うと、目の前が真っ暗になった。
しかし、誰も助けに来てなどくれない。それは勝己の言う通りだ。叫べばさすがの使用人も起きるだろうが、止めに入ってくれる人間はきっといない。勝己に逆らうのは恐ろしいからだ。
そう自覚すると、自分が独りぼっちだということを改めて突きつけられて、心が音を立ててひび割れていくのを感じた。
抵抗しなければきっと、暴力を振るわれることはない。犯されるのはほんの一瞬だ。それまで心を無にして、耐えれば良い。
そう思い、琴乃が脱力しようとしたとき、だった。
――手のひらに、固い感触があったのだ。
それが一体なんなのか考えて、手鏡だったことを思い出す。それと同時に、手鏡に刻んだ『さかえ』の名前も。
『何かあったときは、どうか僕の名前を呼んで――』
夢の中の美しい人は、琴乃にそう言ってくれた。言われたのが夢だということを考える余裕すらなかった。本当にどうしようもない絶望的な状況の中、琴乃が最後に見出した光だったからだ。
(どうか、どうか、どうか、お願い。お願いします)
その人に手を伸ばすように、琴乃は手鏡を握り締めて口を開く。
「さか、え。たす、けて」
お願い、助けて。
小さな小さな声だった。恐怖が絡みついた、掠れた声だった。
しかしその願いは確かに空気を震わせて――
次の瞬間、ガラスが砕け落ちるような音がして――屋敷の屋根が、根こそぎ飛んでいった。