弐章-① 双子の妹、救(さら)われる
それから、琴乃にとっては何も代わり映えしない日々が続いた。
一日、一日と終わりを望んだが、そう簡単に終わってくれない。
あの日以来、夢の彼も別の言葉を話すようなことはなく、しかし藤と煙草の匂いは色濃くなっていって、琴乃が夢から覚めても身を包んでいるようだった。
そんな日々が変化したのは、雪もすっかり溶けて庭先の桜木が蕾をつけ始めた頃。
結彌乃に、許婚ができたというのだ。
その相手はもちろん勝己ではなく、結彌乃の同等の力を持つ良家の御子息だ。家を継がない次男ということもあり、婿養子をする形で嫁いでくるという。
それにより、今まで代わり映えしなかった日々が大きく動き出した――
その日、琴乃は何故だか寝つけなかった。薄い布団の上で、ごろごろと何度も寝返りを打つ。
カビ臭い室内も、薄くて固い布団も、埃っぽい空気もいつも通りなのに、外の音だけが妙に静かでそれが逆に違和感を覚える。
琴乃は、手鏡を胸元でぎゅっと握り締めながらため息をこぼした。
「私が気を立てる必要なんて、ないのに」
おそらく、今朝方恐ろしいものを見てしまったからだろう。琴乃はそう結論づけた。
――琴乃が言う恐ろしいもの、というのは、勝己のことだった。
事の発端は、一週間前。勝己と雄一郎が言い争いをしていたことから始まる。
内容は結彌乃の許婚のこと。勝己は「どうして分家の人間から選ばないのか」と雄一郎に詰め寄っていた。
血によってその家特有の術を守っていく術者の家系は、西洋化が進む昨今でも血の濃さを重要視する風潮が未だに色濃く残る。
勝己が言っているのはおそらく、どうして他所の血を入れるのか、ということだろう。言い方からして、分家筋の総意なのかもしれない。
しかしそれに対して、雄一郎の物言いはすっぱりしたものだった。
「能力の高い者同士を許婚にすることの何が悪い。それに、相手方は巴家よりも名実ともに備えた伯爵家の人間だ。文句があるならば子どもに甲斐性のある教育をすれば良い」
雄一郎は一息でそう言い切ると、「老ぼれ共に伝えておけ」と勝己に命じて去ってしまう。
その場に残された勝己の形相は、それはそれは恐ろしいものだった。
鬼のよう、とはこういうことを指すのだろう。目は吊り上がり、顔は真っ赤で怒りで満ち満ちた顔をした。そしてぶつぶつと呪詛のような言葉を吐きながら、足元にいる蟻の群れを執拗に踏みつけていた。
今思い出しても、震える。琴乃がいた離れの二階の窓からでも分かるくらいの、険悪な雰囲気だった。
今まで雄一郎の前では取り繕っていた勝己がああも声を荒げて怒鳴り散らしていたのだから、彼も相当腹を立てていたのだろう。琴乃と同じく、使用人のことも自分自身と同じ人間だとは思っていない勝己だったが、ところ構わず当たり散らすようになって使用人たちもあまり表に出て来なくなった。
そして雄一郎も、勝己を含めた分家筋の当主たちから文句を言われたからか機嫌が悪い。それもあり、ここ数週間の巴家はお通夜のときのような空気が漂っていた。
そんな雄一郎の堪忍袋の緒が切れたのは、今朝方だ。
「ご当主! ご当主、どうか中で話を!」
「ええい、うるさいわ! お前など中に入れたくもない!」
母屋の玄関前で、激しい言い争いを繰り広げていたのだ。
母屋の玄関先での修羅場は離れの入り口を掃除していた琴乃の耳に入るくらい激しく、思わず物陰から様子を窺ってしまったくらいだった。
そんな琴乃同様、勝己の従者が肩を丸め、腰を一層小さくして付かず離れずの距離で身を縮こまらせている。
勝己の手には名前がいくつも連なる長い書状が握られていて、それを盾に雄一郎に噛み付いている。
「ご当主! ご当主が望んだ通り、分家の当主からの陳述書も集まっています! これでも尚、他家の人間を巴家に入れるおつもりですか!?」
「若輩の割によく吠えるな、勝己。わたしの考えは変わらん」
「しかしそれでは伝統が!」
「ハンッ。世情が見えていないのはどちらだ? 血を薄めないための同族婚など古い。むしろ昨今の研究で、血の繋がりのない第三者を入れたほうが力の強い子ができることは証明されておる。相手の家柄も功績も申し分ない。それなのに何が不満なのだ」
「それ、はっ」
「大方、自分の血筋を本家に入れたいというだけだろう。血に縋るなど愚かにもほどがある」
ぱんっと、雄一郎が陳述書を跳ね除けて笑う。地面に落ちたそれを勝己が慌てて拾うと、顔を歪めて言う。
「あなたが一番、巴家の血に縋っているくせに」
おそらくそれは、勝己にとっての最後の悪あがきだったのだろう。だが雄一郎にとっては、逆鱗そのものだった。
みるみるうちに雄一郎の顔が真っ赤に染まり、そしてあっという間に怒りが噴き出す。
「出て行けッッッ!!」
その声は、巴家中に響き渡るほど大きく響いた。
一連のやりとりを見ていた琴乃は、その怒声に激しく震え上がる。
それから大きな音がしたかと思うと、雄一郎が勝己をステッキで殴り飛ばしていて、勝己の口端から血がこぼれていた。
勝己は自身が殴られたことが信じられないのか、憮然とした様子で雄一郎を見つめている。挙句雄一郎は「二度とこの屋敷の敷居を跨ぐな!」と言い、勝己を外に追い出してしまった――