壱章-① 双子の妹、終わりを望む
巴琴乃の朝は早い。
使用人より早く起きて、家に代々伝わる手鏡を磨き上げてから、それを襟元に忍ばせて屋敷の掃除をする。それが決まりごとだった。
東都に家を構える巴家の屋敷には、昔ながらの木造建築の母屋と煉瓦造りの離れ、そして表からは絶対に見えない位置に使用人たちが住む家屋がある。
離れは、西洋文化が流行り出した頃造ったもの。そして、華族ならば誰もが造らせているものでもあった。
だから離れは、自分は華族の一員あると誇示するために、琴乃の父親が建てさせた。
琴乃が掃除をするのは主に、この離れだ。母屋は人の出入りが多いため、みすぼらしい見目をした琴乃を父親が置きたがらない。
だから琴乃は今日も、掃除道具一式を抱えてまだ闇が残る屋敷の中をできる限り身を縮めて歩く。
琴乃に与えられている使用人部屋の隅からここは、そこそこ距離がある。
「今日は、いつもより暖かい」
与えられている着物は、使い古したものを繕ったお古だ。綿も入っておらず、冬に使うにはいささか薄手すぎる。
ようやく雪が降らなくなってきたことを喜びながらも、琴乃は夢の内容を思い出していた。
(どうしてあのお方は、今日だけ違うことを仰られたのかしら……?)
起きたばかりだからか、未だに藤の花の香りと煙草の匂いがする気がする。
いつもと違う点と言えば他にもあって、胸元辺りにある赤い痣が濃く、また大きくなっていた。昔はどのような形をしているのか分からなかったが、今では蕾のような形だということがくっきりと分かる。
この痣は幼い頃からあって、初めのうちは薄く汗疹のようだったのだが、歳を重ねれば重ねるほど色濃くなっている。今年で十六になった今、それがただの痣ではないことはよく分かっていたが、どういうものなのかは全く分からない。
「もしかしたら、死の刻印なのかも」
そう呟いてから、ぼろぼろの手と、申し訳程度に結ったぱさついた髪を見ながら、割れた唇をそっと湿らせる。
(……だって巴家の双子の妹に生まれてしまった私には、これから先どう足掻いても幸せな未来など待ち受けていないのだから)
それは巴家が、双子の片割れを虐げ、片割れを神のように崇めることで成り立つ呪術を受け継いできた、術者の家系だからだ。
術者というのは、この皇国において重要な役割を果たすもの。それは人ならざるものな討伐であったり、戦においての一騎当千の戦力だったり、神たる帝や平民を守るための抑止力にもなるものだ。
術者として優れていれば権力を得ることができ、同時に生計は安定する。
その中でも子々孫々を繋いで受け継ぐほど、力は増すと言われてきた。
そんなふうにして代々力を受け継いできた者には今や爵位が与えられて、帝から重宝される。
巴家も、伯爵家を賜る華族だ。
そして巴家の繁栄に欠かせないのが、琴乃だった。
双子というのは、親よりも繋がりの深い唯一無二の存在だ。
それを陰陽一つの存在として扱い、片方の陰を濃くすることで陽を際立たせる。
それが、巴家の繁栄のための呪術。
だから琴乃は自分の能力など関係なく、ありとあらゆる人間から虐げられてきた。本来なら琴乃よりも立場が下の使用人たちも、例外ではない。主人がむしろ、琴乃をいじめることを命じていた。
雇われ始めた頃は躊躇っていた人たちも、無条件に虐げていい存在が近くにあると豹変する。特に琴乃は双子の姉と顔作りはそっくりなので、姉から注意をされたりこき使われた使用人たちは、姉への憂さ晴らしも兼ねて琴乃をいじめた。
だから琴乃は、いつだって独りぼっちだ。助けてくれる人などいない。
何度も死んでしまおうかと思ったけれど、その度に止められたり、傷も残すことなく治されてしまえば死ぬ気力すらなくなってしまった。
だから、夢の世界だけが琴乃にとっての救いだ。
琴乃は口の中で「さかえ」という名前を転がした。
「とても、綺麗な名前」
ほう、と吐息とともに言葉を紡ぐ。白い息が一緒に漏れた。
大切なものだと思ったので、名前は口にしない。けれど思ったことを誰もいない虚空に投げかけるのは、琴乃の癖だった。
でないと、声の出し方を忘れてしまう。自分の存在そのものも消え失せてしまうような気がした。
そんなふうに自分の存在を確認してから、琴乃は離れの外の雪掻きをする。土を掘る際に使うシャベルを使うので重みがあって、琴乃の細腕では使いにくいのが難点だった。
それでも雪掻きをなんとか終える。、今度は離れのエントランスホールの清掃だ。はたきを使って調度品についている埃を落とし、中央にある階段の手すりを雑巾で拭いていく。それが終われば床のモップがけだ。全体に水で濡らしたモップをかけてから、乾いたモップで拭っていく。
それが終わった頃、大抵使用人たちをまとめている女中頭がやってくる。そして琴乃が掃除した箇所を確認して、だめ出しをする。
「ここの調度品、埃が取れていないじゃない。やり直して」
「はい」
「階段の隅の汚れが取れていないじゃない。どこに目がついているの」
「はい、申し訳ございません」
「ほんと、出来の悪い娘ね」
「……申し訳ございません」
女中頭に指摘されるたびに、頭を下げる。ここで反抗しようものなら、平手が飛んでくることを琴乃は身をもって知っていた。平手だけならいい、女中頭の機嫌が悪いときは執拗に蹴られたりもする。
だから、ひたすら謝って嵐が去るのをぐっと堪えるのだ。
掃除の出来が良かろうが悪かろうが、琴乃が罵倒されることに変わりはないのだから。
けれど真面目にやらなければ、片眉を吊り上げた女中頭がカンカンに怒る。だから手は抜けない。
琴乃はひび割れた指先に冷えた水が沁みるのを堪えながら、再び雑巾をかけ始めた。
そうして指摘されたところを掃除していたら、日はもう顔を出している。その頃一度部屋に戻ると、大抵冷めた食事が置いてある。ご飯の表面が乾いているくらい置かれていたそれを、お腹の中に押し込むのだ。
下手に残したり食べないことで餓死しようとすると、無理やり口の中に食事をねじ込まれる。そのときのことはあまり思い出したくないくらいの苦痛だった。
羽交い締めにされて、口に食事を遠慮なく流し込まれるからだ。味など関係なく、流動食のようにどろどろしたものを管を使って入れられたときは、心が砕ける音がした。家畜のようだったからだ。
なので食べる。食事が用意されているのは、死なれても困るからだ。
それでも、週に何度かは食事なしというときもあった。
痛みに対する感覚が麻痺してしまった琴乃にはよく分からないけれど、同じ苦痛を与え続けても、呪術としての効果は薄いのだとか。
だから一つの苦痛に慣れないために、日によって与えられる苦痛が変わる。
琴乃からしてみたら全て同じなのに、おかしな話だと思う。
朝食が終われば、また離れの掃除だった。人を招くということがない限り、離れの掃除は琴乃だけの仕事だ。
そして昼過ぎまで、廊下や個室の掃除をする。
その後にやってくる時間が、琴乃は苦手だった。
――父親がやってくるのだ。




