参章-⑤ 空白華嫁、外の世界に触れる
「琴乃は何も悪くないよ、悪いのは華嫁がどういうものなのかすべて伝えなかった、僕だ」
「いえ、その……私もあまり、理解できていなくて……」
「うん。普通の人の感覚からすれば、理解しにくいことだから。だけど全部説明するよ」
そう前おいてから、栄は改めて華嫁の説明をしてくれる。
「そもそも華嫁というのは、神の力を得た神族血統にとっての代償なんだ」
「……代償、ですか?」
「そう。強大な力を得た代わりに、繁殖を制限された。だから華嫁・華婿という、唯一の印を持った異性だけとしか子が成せない。だから神族血統は相手を運命の伴侶として、とても大切にするんだ。……それに」
栄は胸元をとんとんと、軽く指先で叩く。
「印持ちの伴侶は、大なり小なり色々なものを引き寄せてしまうんだ。……匂いが、してしまうから」
「……匂い、ですか?」
「そう、華の香り。それに引き寄せられるのは人間だけじゃなくて、妖といった悪しきものもいる。そういった有象無象から伴侶を守るのも、神族血統にとっては当たり前なんだ。……だから今回みたいな件も、僕たちからしてみたら普通で、迷惑なんかじゃない。むしろ伴侶も守れない神族血統は、一族の恥さらしだ」
「はじさら、し」
自身の存在が想像以上に重大だということを聞かされて、琴乃は混乱する。
「それに、胸の印は伴侶を守るためのものでもあるんだよ。その胸の華が咲かない限り、神族血統は決して伴侶に手出しできない。華が咲くっていうことは、相手が心を開いて受け入れてくれたっていう証だから」
「この、胸のしるしは……咲くの、ですか……?」
「うん。君たちが心を許してくれるならね。だからその間、僕と琴乃の関係は『許婚』って言うんだ。世間では違う語源だけど、神族血統の間では、華持ちの許しを得ないと結婚できから」
華嫁の許可を得てようやく、本当の婚姻関係を結べる。
だからその前段階は、まだ許されていない婚姻、という意味で『許婚』という漢字をあてがっているのだと、栄は丁寧に教えてくれた。
「そのために、僕たちは必死になって、その華を咲かせようとあの手この手を使って振り向いてもらおうとするんだよ。……そういう、生き物だから」
「――」
琴乃はとうとう、言葉を失った。
それでも、どうにかしてここから出ていく理由を探してしまうのは何故なのだろうか。
(……私では、栄様の伴侶に相応しくないと思ってしまうからだわ)
生まれてから痛みしか与えられていないから、空っぽだった。だから何も返せない。
ましてや、栄ほどの人に許しを乞われるような存在ではない。琴乃が心を許した程度で彼に報いることができるのなら、いくらでもそうしたいくらいだ。なのにそれすらも上手くいかないのは何故だろう。
琴乃は自問自答をする。
今着ている着物もすべて、栄が用意してくれたものだ。
死にたいと思い続けていた日常を変えてくれた。琴乃のことが必要だと言って、温かい居場所まで用意してくれた。
琴乃が何もできなかったとしても、ただ優しく見守っていてくれた。
それがどうしようもなく嬉しくて、申し訳ない。
だがそれを上手く伝えられず唇をわななかせていると、栄が微笑んだ。
「ねえ、琴乃。人間はね、生きていたら他人に迷惑をかけ続ける生き物なんだよ。助け合いをしながら、みんな生きているんだ」
「……え?」
「それでも関係が続いているなら、それは迷惑をかけられている相手が、それを迷惑だって思っていないから。そして僕も、琴乃の存在を迷惑だって思ったことはない。むしろ、もっともっと迷惑をかけて欲しいくらいだ」
「……どうして、ですか?」
「どうして? どうしてかな……それで、僕のことをもっと頼って欲しいし、好きになってもらいたいからかな。……うん、きっとそうだ」
頬杖を突きながら、栄は屈託のない顔で笑った。
「だからさ、お願い。孤月院家にいて。――僕に琴乃を守らせて?」
ぽろり。
琴乃の目から、涙がこぼれる。
どうしてこの状況で泣いてしまったのかは分からない。
しかし、止まらなかった。とうの昔に枯れたものが、栄の一言で一気に噴き出す。琴乃はひどく混乱した。
嗚咽が漏れそうになる口を押さえながらぼろぼろ泣き、それでも耐え切れず手の間からこぼれ出す。
栄の言葉に何か返したいのに、頭が真っ白になって何も浮かばない。それが情けなくてまた泣くから、喉がわなないてますます何も話せなくなってしまった。
そんな琴乃をなだめるように、栄は手を伸ばして涙を拭って言う。
「答えは、まだ出さないでもらえると嬉しいな。そうだな、せめて……春が終わるまで。それまでは、ここにいて欲しい。それまでに巴家との問題も全部片づけるから、ここから出ていくかどうかはそれから決めて欲しいな。……どうかな?」
はいとも、いいえ、とも言えなかった。
だけれど栄が「はい、決まりね」と言って話を通してしまう。それが内気な琴乃にはありがたくて、申し訳なくて涙が止まらない。
結局琴乃はそれから栄に連れられて私室に戻り、秋穂に着替えを手伝ってもらってから、布団に入って眠りについた。
闇夜にただよう琴乃をつつみこむように、どこからともなく甘い藤の香りが立ち込めていた――