参章-① 空白華嫁、外の世界に触れる
琴乃が孤月院栄の許婚になり、屋敷での生活を始めてから早数日。
彼女は、現状を理解しきれずに困惑していた。
それもそのはず。琴乃は毎日三食、今まで食べたことがないような美味しい食事を与えられ、仕事をするようなこともなく、栄との時間を過ごしていたからだ。
衣食住の心配をすることすらない。無理強いはおろか、虐げてくる人すらおらず、むしろ皆一様に親切だ。琴乃は許婚なのだから、と仕事などしないでいいと言ってくれる。
つい先日まで毎日働かされて人としての尊厳すら与えられないまま日々死にたいと思いながら生きてきたのに、唐突にそんなことを考える心配すらない場所に放り込まれると言い知れぬ不安が襲ってくる。
まるで足元に何があるかも分からない、真っ暗闇に放り出されたような気持ちだった。
そんなもやもやした痛みとも違うものを抱えながら、琴乃は日々生きる。
そんな日々に変化がもたらされたのは、栄の一言からだった。
孤月院家で過ごし始めてから早一週間。春も盛り、花々が一斉に咲き乱れる頃合いのこと。
夕食の席で、栄が言ったのだ。
「せっかくだし、今日は僕とデートでもしようか」
聞き慣れない単語に、琴乃は目を瞬かせて困惑してしまう。箸と茶碗を持ったまま固まっている琴乃に、栄は「ああ、そっか、分からないよね」と言いつつ言い直した。
「お出かけだよ、琴乃。逢引とも言うね」
「あ、逢引、ですか……?」
ますます困惑してしまう。外出がそもそも初めてだということにも不安を覚えるが、栄のとなりに自分がいていいのかという不安も大きかった。
秋穂を含めた女中たちが一日も欠かすことなくお手入れをしてくれたこともあり、カサカサだった手も唇も、ぱさついていた髪も見違えるように美しくなったとは思う。しかしそれでも、中身は琴乃だ。結彌乃のようになれはしない。
そんな琴乃が栄のとなりに立って外に出る。
明らかに不釣り合いだ。
内心慌てたが、普段からあまり自分自身の気持ちを伝えることがない琴乃は、口を開閉させるだけで精いっぱいだった。その上元々表情に乏しい琴乃は、それを上手く表に出すことができない。
「うん、屋敷の中に居続けても退屈でしょ? せっかく天気もいいから、外に出よう。うん、決定」
そうしているうちに、栄は琴乃と逢引することを決定してしまった。
いつになく強引な栄の様子に困惑したが、栄が決めたのなら、と琴乃はこくんと一つ頷いて了承する。
(でも……一度も外に出たことがない私が外に出て、大丈夫なのかしら)
そんな不安を抱えたまま、琴乃は秋穂の手によって着替えさせられたのだ。
*
美しい桜の振袖を身に包んだ琴乃が栄とやってきたのは、東都の中心部に位置する街にある百貨店だった。
百貨店どころか商店にすら入ったことがない琴乃は、まず往来を行き交う人々の多さに圧倒された。同時に、自身が誰からも虐げられる立場であったことを思い出し、体が勝手に硬直する。
しかし馬車から降りると同時に繋がれた手を思い出し、ハッと我に返った。
栄だ。
普段の着物姿とは違い、今日の彼はスリーピーススーツを着こなしている。華族であるということを知られると厄介なので、地味な薄墨色だった。しかし薄墨色でまとまっているスーツは道行くほかの紳士も着ている色なのに、その中でも栄はより一層こじゃれて見える。
どんなに服装で誤魔化しても隠しきれないものがあるのだと、琴乃はぼんやり思った。
「さ、行こうか」
「は、は、い」
喉を詰まらせながらなんとか返事をし、琴乃は頷く。他の建物よりも何倍も大きく綺麗な百貨店に怖気づきそうになったが、栄に迷惑をかけてはいけないと己を奮い立たせた。
そして導かれるがままに、百貨店の扉をくぐった。
――中に入って早々、琴乃は息を吞んだ。
(き、ら、きら……)
目が眩むほどの光が、天井から降り注いでいる。シャンデリアだ。巴家の洋館にも似たようなものがあったので、分かる。しかしその洋館よりもはるか高くに天井があり、そこから宝石のようなきらめきを持った大型のシャンデリアが釣り下がっていた。
まるで藤の花のようだ。藤棚を下から見たら、こんな感じなのではないだろうかと思う。
一番目を引いたのはシャンデリアだったが、次に目に留まったのは階段のようでいて階段とは違う何か。それは百貨店の一階と吹き抜けの二階を繋ぐようにして、中央に二本は知っている。
何が階段と違うのかというと、段差自体が動いて乗客そのものを上へ運んでいる点だ。
(どんな仕組みになっているのかしら……)
琴乃が思わずそれを凝視していると、栄がにっこり笑いながら説明してくれる。
「あれは、自動階段だよ」
「自動階段……です、か?」
「そう。段差の部分だけが自動で動いて、上下する仕組みになっているんだ。西洋の機械文化を取り入れたものだね」
「そう、なのです、ね」
栄の説明に一つ、二つと頷く。見たことがない物への恐怖心は少なからずあるが、栄がそばにいてくれるからか好奇心が少しだけ湧き上がってくる。
それよりどうしても気になってしまうのは、人々の視線や声だった。
琴乃に視線が向けられるのは、決まってなじられるときだけだった。
罵倒され、蔑まれ、何をどう頑張っても一度だって褒めてもらえない。むしろ周りの人が進んで琴乃を貶め、家族はむしろそれを望んだ。
こんなにもたくさんの人がいるのに、味方などただの一人もいない。
そんな経験しかないからか、その全てが自分に向けられているのではないかと錯覚し、琴乃の体がまた硬直する。そのせいか呼吸が浅くなって、じっとりとした嫌な汗が出てきた。
そうしたら、栄が繋いでいるほうの手に力を込めてきた。
思わず見上げれば、栄が優しい眼差しで見つめてきた。何も言うことはないが、大丈夫だと言ってくれているようで落ち着く。
(あ……味方は、いらっしゃったわ)
それに、ここにいる人たちは巴家の人間ではないのだ。だから大丈夫だと自分に言い聞かせ、琴乃はどうにか呼吸を落ち着けた。だが顔を上げるのが怖くて、自然と視線が下に向いてしまう。
それでも栄は気にすることなく、琴乃の手を優しく引く。そしてゆっくりとした歩調で歩き出した。
「百貨店に来るのは初めて?」
「は、はい……」
「そっか。じゃあ、僕が案内するよ。下から少しずつ見ていこうか」
「お、お願いいたします」
歩きながら、栄はさらに話をしてくれる。
百貨店というのは、この大きな建物の中に複数の専門店が入っている商店のことらしい。本来ならばそれぞれの専門店に足を運ばねば買えないものも、ここにくれば大抵揃うのだそうだ。
着物といった衣服から化粧品、洋服、小物専門の店、文房具店などなんでも入っていると聞いたときは、とても驚いた。
「琴乃はあんまり自分の好みを言ったりしないから、なら一通りのものが揃っている百貨店が良いかなって思って」
何より驚いたのは、栄が琴乃のことを慮った上で百貨店を選んでくれたということだった。
そこまでしてもらうような存在ではないと申し訳なく思うのと同時に、胸にぽうっと光が灯ったような、くすぐったい何かがこみ上げてくる。
先ほどとはまた違った意味で落ち着かない気持ちがなんなのか分からないまま、琴乃は一階にある店から順々に回っていった。