序章 双子の妹、救いの夢を見る
巴琴乃にとって、夢の世界は幸せの象徴そのものだった。
どんなに現実でつらいことがあっても、夢はあたたかく琴乃を迎えてくれる。特に夢の中で時折出会う〝彼〟との逢瀬は、琴乃にとって唯一の救いだった。
そして今日も、琴乃は彼に逢う。
彼と逢うのはいつも、双子の月が爛々と輝く美しい夜空の下でだ。
「今晩は」
今日もぼうっと双子月を眺めていると、後ろから声がかけられる。振り返ればそこには、〝彼〟がいた。
美しい銀色の長髪が風に流されて煌めき、柔らかく細められた金色の瞳とかち合う。大輪の白い彼岸花が浮かび上がる白の着流しに漆黒の羽織を肩にかけ、彼はいつも通り片手に持った真紅と金の煙管を吸った。
ゆるゆると、煙管の火皿から糸のような煙がたちのぼって、ゆっくりと解けていく。
琴乃のかたわらに咲く深い紫の藤の花がさわさわと揺れて、甘い匂いが鼻をついた。
埋もれるほど咲き乱れる藤の花は、いつだって満開だ。琴乃の周りにだけ連なるように垂れて、さわさわと心地好い影と光をもたらしてくれる。
彼と逢うときの夢はいつも現実味があって、夢なのに匂いがある。頬に触れる風も、着物の重みも、握り締める手の温度も感じられるのだ。そしていつも月の下、美しい藤の花に囲まれている。
夢の世界だからか、普段ならみすぼらしい自分も綺麗な振袖を着ていて、黒髪にも艶があって、指先や爪も割れてないし自分ではないみたいだった。
それでも声は出せない。出さない。手も伸ばせない。夢の中で助けを求めても虚しいだけだということを分かっているし、それで夢が壊れてしまうのが嫌だったからだ。
だって、夢が壊れてしまって、もう二度とこの夢が見られなくなってしまったら。
……私はもう、立ち上がれない。
月が二つ浮かんでいて、藤の花が芳しい香りを風にまとわせながら咲き誇って、彼が咥える煙管から漂う煙草の匂いが空にのぼっていく。
匂いは心なしか、彼と逢う夢を視続けるほど強くなっている気がする。
それでも、何も変わらない。そこから先、この光景が進むことはなかった。
けれど、彼に逢うたびに救われる。もう少しだけ、生きていても良いかと思える。それだけで、琴乃は幸せだった。
すると、空が白んできて星と月が霞み始める。いつも通りの夢の終わりだ。だから琴乃もいつも通り、目をつむって最後まで夢の世界に浸る。できる限り長く、ここでの記憶を噛み締めていたいからだ。
普段ならそれで、夢から醒めるはず、だった。
「ねえ、」
彼の声がする。驚いて目を見開けば、彼が琴乃に向かって手を伸ばしていた。
「何かあったら、呼んで、」
彼の姿が、光の粒になって溶けていく。
「ぼくの、なまえ、」
咽せるほどの藤の香りと煙草の匂いが、混じっていく。まるで隠そうとするように、匂いが濃くなっていく。
それでも、琴乃は確かにその名前を聞いた。
「僕の名前は、〝さかえ〟」
何かあったときは、どうか僕の名前を呼んで――




