ラミア1
世の中にそんな美味い話があるはずがない。
それは、元の世界にいた頃からよく知っている。
前の世界の常識で言えば、こんな過酷な砂漠環境で、か弱そうな人間の女性が肌を露出した格好で生きていけるわけがなかった。
だが、ここは異世界だ。
もし「魔法」というものがあるなら、あるいは可能なのかもしれない。
もし事前に何も聞いていなければ、俺は本当に彼女をただの人間だと思い込んでいただろう。
しかし、今目の前にいる美女は、クソ魔導士が語っていた『妖女ラミア』に間違いなかった。
だとすれば、あの言葉が頭をよぎる。
――『ただし会うと男を食い殺すらしいけどな』
つまり、俺の運命はここで決まりだということだ。
俺はこの砂漠の真ん中で絶望していた。
だから、明日には干からびて死んでしまっても構わないと本気で思っていた。
その証拠に、ここ数日は食べ物を口にする気力さえ失っていたのだ。
だから、その終わりが少しばかり早まったところで、どうでもよかったのかもしれない。
なぜなら、今、目の前にいる妖女は、狂気的な叫びを上げた俺に対して、ひどく優しく微笑みかけていたからだ。
「私と、良いことしない?」
微笑むその顔は、まるで天使のように見えた。
相手が男を喰らう妖女だと分かっていてもだ。
今まで出会ったこの世界のどの住人よりも、その微笑みは優しく思えた。
「貴方の夢を、何でも叶えてあげましょう?」
そう言われて、咄嗟に口から飛び出した言葉。
――『俺の童貞を貰ってください』
食事もしていない俺に、そんな元気があるわけがなかった。
本当は、単なる虚勢だ。
死を前にして、自分はただの餌ではなく、一人の「男」なのだという虚勢。
……そこに「童貞」という余計な自白を混ぜてしまったのは、我ながら最悪だったけれど。
こんな極上の美女に出会って、どうせこれが最後なのだ。
せめて男としての生きた証を、その美しい女に刻みたかったのだろう。
すると、女はにこやかに微笑みながら、応じた。
「いいわ、貰ってあげる。……ところで、貴方を何と呼べばいいかしら?」
「丈二です。呼びにくかったら、ジョーとかジェイとか呼んでください」
「そうね。じゃあ、ジェイと呼ばせてもらうわ」
そう言うと、美しい女は一歩、また一歩と近づいてきた。
距離が縮まるにつれ、俺の身体を揺らしたのは妖魔に対する恐怖ではなく、「圧倒的な美女が近づいてくる」という事実に対する震えだった。
彼女は俺と正面から向き合うと、右腕を俺の頭の後ろから回し、肩を抱くようにして強く抱きしめてきた。
何ということだろう。
美女の顔が、目と鼻の先にある。
本当に綺麗だった。
目を合わせていられないほどに美しい。
透き通るようなきめの細かい肌。
その顔がどんどん近づいてくる。
濡れた唇が迫るにつれ、胸の高鳴りは破裂しそうなほどになり、頭に血が逆流した。
身体が密着する。
彼女の身体からは、砂漠の熱を和らげるような、少し冷たくて心地よい体温が伝わってきた。
そして、豊かな二つの膨らみが俺の胸を圧迫し、興奮を容赦なく跳ね上げる。
限界まで疲弊しているはずなのに、俺の愚息はかすかに自己主張を始めようとしていた。
唇が触れ合った。
俺の乾燥してひび割れた唇に、彼女のみずみずしい唇が優しく重なる。
ほんの短い時間だった。経験のない俺は、息を止めてその時間をじっと耐えるしかなかった。
彼女の唇の柔らかさと、少し冷たい感触が、狂おしいほど鮮明に伝わってきた。
本当のことを言えば、まともな食事をしていない俺は、立っているのすら奇跡のような状態だった。
だから今の俺は、完全に彼女の身体に支えられていた。
彼女がそっと腕の力を抜くと、俺はそのまま砂の上にしなだれ込み、横に寝かされた。
妖女は衰弱しきった俺の隣に、そっと添い寝するようにして寄り添ってくれた。
「ジェイ、こんなに疲れ果てて……。この砂漠で、今までよく頑張ったのね」
彼女がそう呟いた瞬間、俺の目から熱い涙がボロボロと溢れ出した。
涙が止まらない。
なぜだ?
そうか、この理不尽な世界に連れてこられてから、初めて誰かに優しくされたからだ。
張り詰めていた心の糸が千切れ、感情が制御できなくなっていた。
まともに声が出ない。
「さ、さび……寂しかった、んだ。誰かに、話を……話を聞いて、欲しかったんだ……っ」
『話を聞いてほしい』。
その言葉こそが、俺の本心だった。
俺の飢えの本質は、本当は性欲なんかじゃない。
ただ、誰でもいいから話し相手が欲しかったのだ。
自分の存在を認めて、言葉を聞いてもらえるだけで、それだけで救われたのだ。
だから、涙が枯れるほど溢れて止まらなかった。
「寂しかったんだ……!」
子供のように泣きじゃくりながら、俺はただ彼女の身体にしがみついた。
「ジェイは寂しかったのね。私で良ければ、いくらでも話を聞いてあげるわ」
しかし、不思議な妖女だ。
普通、妖魔というものは、俺のように衰弱した人間を見つければ、好機とばかりにすぐ餌として貪り喰らうものではないのだろうか。
「俺は、こんなに弱っているんだぞ。……すぐに食べないのか?」
「無粋な話はしなくていいわよ。
今はジェイが夢を与えられる時間。
対価は、もっと後のことよ」
対価は、俺の命なのだろう。
けれど、今はその話をしないでおいてくれるらしい。
どこか奇妙な安心感に包まれ、俺はぽつりぽつりと話を始めた。
「俺、仕事中だったんだ。小林があんな無責任なことを言うから……」
ラミアには何のことかさっぱり分からない話のはずだった。
だが、俺はお構いなしに、これまでの理不尽な出来事や前の世界の話をすべて吐き出した。
ラミアはまるで何もかも理解しているかのように、適切なタイミングで相槌を打ち、真剣に俺の言葉に耳を傾けてくれた。
相当な聞き上手なのだろう。前の世界の常識など通じるはずがないのに、彼女の瞳はまっすぐに俺を捉えていた。だから俺も、まるで元の世界の親しい友人に弱音を吐くように、夢中で話し続けた。
話が進むにつれ、感情の高ぶりとともに声は涙を帯び、砂漠での絶望的な孤独と苦しさを訴え始めた。
やがて激しい嗚咽に変わり、俺は言葉を続けられなくなった。
ラミアは「辛かったのですね」と優しく囁くと、静かに子守唄のような美しい歌を歌い始めた。
その調べは、俺の凍りついた心を温かな安心感で満たしていき、急速に強烈な眠気が襲ってきた。
(眠い。……そうだ、ここで寝てしまったら俺は……。
そうか、これで終わりなのかな。
そう言えば、結局童貞のままだ。
でも、最後の最後にこんな優しさに触れられたんだから、もういいか……)
そう満足を覚えながら、俺は意識を手放した。
「ジェイ、ジェイ……起きなさい、ジェイ」
顔を覗き込む、心配そうな声で目が覚めた。
視界が開けると、ラミアがすぐ近くで俺の顔を見つめていた。
「……俺、生きているのか?」
俺が掠れた声で答えると、ラミアはホッとしたように表情を和らげた。
「当たり前よ。そんなことより、夜になると凶暴な虫たちが出てくるわ。ここを移動しましょう」
言われてみればそうだ。
夜の砂漠は虫や小動物の独壇場になる。
しかし、移動すると言っても、一体どこへ?
「どこに行くんだ?」
ラミアは躊躇なく、とんでもない返答をした。
「地面の中かな。ジェイは地面に潜れる?」
地面に潜る能力など、当然だが俺にはない。
「潜れませんが……」
ラミアもそれは分かっていたようだ。
「やっぱりね、そうでしょうね。困ったわ、どうしましょう?」
そこで俺は、毎晩使っていた自分だけの退避所へ彼女を誘うことにした。
「俺の居住スペースに移りましょう」
ラミアは不思議そうな顔をした。
「居住スペースって、何かしら?」
俺はいつもの要領で、空間に結界の術式を展開した。
床の広さは少し大きめ――二人分が余裕で横になれる広さで構築する。
即座に完成したシェルターへ、俺はラミアを招待した。
「狭いですけど、どうぞ」
「ジェイは器用なのね! こんなに面白いものを作れるなんて」
二人で結界のドーム内へと入る。
「あら……中はとても快適ね」
「そうですね。エアコン完備ですから」
「エアコンって、なあに?」
ラミアはまた不思議そうに首を傾げていた。
ひと心地ついたところで、俺はずっと気になっていた疑問を口にした。
「それより……なぜ、俺が寝ている間に殺さなかったんですか?」
するとラミアは、ふっと妖しく微笑んで言った。
「無粋な話は止めてって言ったでしょう? まだ、ジェイの童貞を貰っていないもの」
その返答は完全に想定外だった。
「ごめん、本当のことを言うと、疲れ果てていてそういう行為をする元気が今はないんだ」
俺が正直に白状すると、ラミアは不思議な行動を起こした。
彼女がしなやかな腕を前に突き出すと、その手のひらから物質的な「黒い光」が溢れ出したのだ。
その光は驚くほど温かく、俺の身体を包み込むと同時に、劇的に体力を回復させ始めた。
細胞の隅々にまでエネルギーが満ちていく。
回復魔法だ。魔法の世界なのだから、あっても不思議ではない。
「ラミア、回復魔法が使えるんだね。凄いな……」
ただ、王女たちが使っていたエレメントの光とは明らかに違う「黒い光」が気になり、俺は尋ねた。
「それって、どのエレメントの力なの?」
「これは闇魔法よ。エレメントとは別の原理の魔法。五元素魔法も使えるけれど、こういう癒やしや呪いは光魔法か闇魔法が中心になるの。私の基本は闇魔法ね」
この世界には、五大元素の他に「光」と「闇」という魔法原理が存在するらしい。
そういえば、俺の魔法も看守から「エレメントが見えない」と言われていた。
もしかしたら、光や闇の類なのだろうか。
「俺の魔法も、光とか闇なのかな……」
そう呟きながら、俺は掌の上に小さな術式を展開し、地下からわずかに水を呼び出してみせた。
それを見たラミアは、目を見開いて驚いていた。
「ジェイの魔法は不思議ね……。闇でも光でも、ましてやエレメントでもないわ。一体どうやって現象を発動させているのかしら?」
やはり、ラミアほどの使い手でも俺の「科学の理」は見抜けないらしい。
本格的に、俺がアクアの勇者ではないという証明でもあった。
「そうだ……お腹、空いていませんか?」
質問を口にしてから、俺は「しまった」と内心焦った。
そりゃそうだ、俺は彼女の餌なのだから。
しかし、彼女はいたって平然と答えた。
「空腹で死にそうってわけじゃないけれど、お腹は空いているわね」
やっぱり、そうだよな……。
「……やっぱり、俺を食べるのか?」
するとラミアは、ぷっと頬を膨らませて怒ったような顔をした。
「ジェイ、無粋な話はしないでって何度言えば分かるの? そういう意味じゃないわよ」
「あ、ごめん……。そうだ、材料ならあるんだ。ご馳走するよ」
俺は数日前にレンズの熱で狩っておいた、ネズミに似た小動物の肉を取り出した。とりあえず、地下から抽出した純白の塩を振って香ばしく焼いたものと、塩味でじっくり煮込んだスープを作って分けることにした。
結界で作った皿の上に並ぶ料理。
ラミアは興味深そうにそれを見つめ、感心したように声を漏らした。
「人間って不思議ね。食べ物を色々と工夫して調理するのね。……でも、すごく良い匂い」
彼女は焼いた肉を細い指先でつまみ、一口齧った。
「――っ、美味しいわ……! 何これ、不思議な味がする」
「それは塩だよ。地下から引っ張ってきたんだ」
ラミアが「美味しい」と言って食べてくれる姿を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなった。
このままこの土地で野垂れ死んでも、結局は砂に還るだけだ。
それなら、彼女に食べられて死ぬ
……つまり、彼女の一部として生き続けるという選択肢も、悪くないのではないか。
そんなことすら考え始めていた。
ただ、俺の頭の中に、一つだけ小さな、けれど切実な願いが浮かび上がった。
「ラミア。もし出来るなら……少しの間だけでいいんだ。
この生活を続けさせてもらえないだろうか?
難しいことなんてしなくていい。こうして一緒に話をしたり、食事をしたりして過ごしたい。
もちろん、食事は俺が毎日作るから」
ラミアは手を止め、何も言わずに俺を見つめた。
「俺は、対価から逃げるつもりはない。
ラミアに食べられる
……いや、対価を払うつもりはちゃんとあるんだ。
だから、ほんの少しの間だけ、一緒に暮らしてほしい。
今すぐに対価を払えと言うなら、仕方がないけれど……」
必死に訴える俺の言葉を聞き終えると、ラミアはくすりと艶っぽく笑った。
「今日はジェイに美味しいご飯をご馳走になったものね。
いいわよ、少しの間だけなら、付き合ってあげる」
「ありがとう……。そんなに長い期間じゃなくていいから。
最後に、俺の童貞をラミアに貰ってもらって、それから対価を払う。
そうして、俺はラミアの一部になるんだ」
俺がそう真面目に語ると、ラミアは「ふふふ」と楽しそうに肩を揺らした。
「そんなに気を使わなくてもいいのに。
ジェイ、人間の寿命なんて、私から見ればほんの一瞬のようなものよ。
だから何も気にしなくていいわ。
貴方の気が済むまで、そうしていればいいじゃない」
彼女は本当に、底知れない優しさを持った妖女だった。
ラミアが、すっと俺の傍へと距離を詰めてくる。
「――いまのご馳走の、対価よ」
そう囁くと、彼女は再び俺の身体にその豊かな肉体を密着させ、唇を重ねてきた。
今度の口づけは、少しだけ長かった。
経験のない俺にとっては、優しく触れ合う唇も、密着した身体の柔らかさも、頭が狂いそうになるほど刺激的だった。
ラミア。
最後に彼女の一部になる予定の俺だが、今はもう、彼女の存在そのものが俺の世界のすべてになっていた。




