懐かしいあなたの夢を見ます
女らしくなりてえ、と呪文を唱えるように繰り返していた。バカの一つ覚えみてえに。
バカの、一つ覚えだった。おれの夢。
親父の拳を腹に受け、口汚く奴を罵っては立ち上がり、滅茶苦茶に拳を振り上げ、足を振り下ろす。けれど結局親父には勝てない。悔しくてぎりぎりと歯噛みをして夕陽を背に座り込んでいると、いつの間にかゆかが横に座っている。プリーツのスカートを丁寧に折り畳んで膝の裏で挟んで。ゆかはおれと同じ方向を向いて、頬に風を受けて真っ直ぐな黒い髪をさらさらと揺らして、一緒にぼけっとしばらく座り込む。ゆかは何も言わない。何も言わねえからおれが何かを言う。
「…明日、宿題、あったか?」
「ううん。なかったと思うわ」
ぽつぽつと。ゆかもそんなおれにつき合ってぽつぽつと答える。
「なあ」
「うん」
おれもゆかも、真後ろでとっくに沈んだ夕陽に気付いている。夏ならじめっと湿った、昼間より少しはマシになった風を。冬なら凍え死にそうな極寒の風を、鼻水が垂れそうなのを必死に隠して、青春映画よろしく、中身の空っぽな、下らねえ問答を続ける。
「ゆかは、女らしいな」
「ありがとう」
毎回繰り返すやり取りに、もう既に意味も感情も込めていない。ゆかもわかっている。これはつまり、おれがおれ自身の核心に触れたがっているというサインなのだと。だからサインを示してゆかがいつものように「ありがとう」と言えば、それは了解のしるしで、ああもういいんだ、とおれはもう、みっともなくなるのを隠すのをやめる。そしてゆかが「ありがとう」と言わないことはなかった。
「…詩織はいいこね」
いいこいいこ。それにとっても可愛い。
そう言ってゆかがおれの頭を撫でる。柔らかくてあったかくて優しくて、てきとうな重みがあって。ゆかはゆっくりおれの頭を撫でる。触れられたところからジンワリとあったかいものが広がって、膝頭にきつく押し当てた目頭がさらに熱くなる。
ゆかは、だいすきよ詩織、と母親のようなでっかい包容力と底の知れない愛情を滲ませて言う。
「誰よりも詩織が好きよ。ねえ、誰より詩織は可愛いわ」
醜態を晒すおれを、ゆかはここぞとばかり甘い言葉で愛おしみ、おれはここぞとばかり、ゆかに撫でられる。うっかり嗚咽が漏れ出ることが一度もなかったのは、せめてものお慰み。それだけは褒めてやってもいいのかもしれない。今のおれなら、そんな拷問に耐えられる自信がない。
「ゆかは…女らしいなあ…」
「………」
「可愛くて…優しくて……。女ってのは、ゆかみてえじゃねえといけねえ…。そうだろ?」
惨めに真っ赤になっているだろう目を、手の甲で強く擦り上げてゆかの顔を振り仰ぐと、ゆかはいつも少しだけ困ったような顔をして微笑む。ゆかはおれの押しつける理想に、ただ黙って微笑んでいた。いつも。
おれも答えを期待しているわけじゃなくて、ただ、それも数ある常套句の一つだったに過ぎない。ゆかにイエスもノーも、そのどちらも言ってほしくなかった。おれの理想はゆかだった。ゆかが理想で、ゆかは理想であり続けてほしかった。
「おれってよお、なんなんだろーな。へっ。わかってんだ、自分でもよ。おれは……」
ゆかは卑怯でクソガキなおれの頭を、優しく撫でてくれる。
「…親父のせいだけじゃねえって…。わかってるさ…」
青くせえお決まりの台詞を最後に、おれが一番星を見つめると、ゆかは二、三度おれの頭を撫でて、やめる。おれはきりっと目元と口元を引き締めて、何かを決意したようなポーズをとって前を睨みつける。ゆかは黙っておれが立ち上がるのを待つ。ゆかの目に、滑稽なおれの姿が映っているだろうことを意識して、ますます道化者になってカッコつける。
おれはカッコつけたまんま立ち上がってゆかに手を差し出す。ゆかがおれの手をとって、おれはゆかの小さな手を引き上げる。ゆかが嬉しそうに小さくはにかむ。途端に圧倒されそうだった、観音様みてえな母性の光は霧散して、そこにあるのは蛍みてえにか弱い、青白い透明な光だった。
消え入りそうな儚さに夢中で薄っぺらい体を抱きしめるのも、いつも通りで、ゆかはいつも通り、ちゃんと体温と体重がある。それにほっと安心してゆかを離すと、ゆかはスカートのポケットから清潔なハンカチーフを――いつも違う柄の、女らしいハンカチーフを取り出して、おれの口の端に滲んだ血を拭う。
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女らしくなりてえ、とまるで呪文のように。バカの一つ覚えで。
ああでもおれがなりたかったのは、ガッチリと強くて固い、変形なんか少しもしなそうな男の腕の中で、ビチビチやかましく囀る小鳥みてえなのじゃなくて、ゆかだったんだ。
なあ、女ってそんなにいいもんじゃねえよな。男に抱かれて、男に守られて、いじいじと悲劇に酔って、一人で全部抱え込んだ顔して、ぶちまける量になるまで不満を蓄えて、嬉々として不幸自慢で競って、不幸な分だけ他人を傷つける権利が買えると思い込んで。よお、おれ、女らしくなりたかったけどよ。惨めで女々しくて薄ぎたねえメスにはなれたけどよ。
ゆか。ゆかの手は柔らかくてあったかくて優しくて、てきとうな重みがあって。ゆかはおれの頭を何度も何度も撫でた。
男のガッチリと強くて固い、変形なんか少しもしなそうな腕の中でおれは女になって、女の“男に守られる”っていう、だらけた気分もわかって、天国みてえだと思った。でもガッシリと強くて固い、変形なんか少しもしなそうな腕の中は逃げ場もないのだとわかった。
おれは女になったよ、ゆか。男の腕の中で、抱かれて守られてうっとりと媚びを売る女になったんだ。くだらねえことで泣いて責める、つまらねえ女になったから、もし雄介に捨てられることがあったら、おれは泣いて縋る。雄介がおれを捨てるなんて、ありえねえと笑い飛ばしながら、なあ、おれはいつからこんな例え話が出来るようになったんだろう。
例え話。たとえゆかがあの頃のように、おれの頭を撫でようとしても、おれは振り払ってキチガイみてえに雄介の背中を追っかけるだろう。女じゃとても男の代わりにはならない。おれが体当たりしたら、女の軽い体重じゃ、倒れっちまいそうだ。
ゆかの手は柔らかくてあったかくてやさしくて、てきとうな重みがあって。
時折雄介が、生まれてくる子を慈しむように、節ばった手でおれの腹をなでる。オカマのくせにガッチリと固い肉感のある、雄介の腕の中で。ゆかが観音様みてえな微笑みで、いつまでもおれの頭をなでてくれる夢ばかり見る。
あなたは今、どんな少女の頭をなでて、その甘い涙を舐めているのでしょう。
「いいこね。いいこいいこ。とっても可愛い。ねえ、誰よりだいすきよ」
いいこね。
いいこいいこ。
手の平から滑り落ちたもの全て懐かしく尊いのだとしたら、結局どんな選択をしてもおれは罪人であるしかなかったんだろう。
広い腕の中で夢を見るようにし向けたのは、おれだということを。後ろ姿を追いかける方ならよかった。決して選びはしない道が、その気になればまだこの先に続いていることを確信せずにはいられない。
夢のなかでは、ただおれはいつまでも撫でられて、そのほかになんのストーリーもない。