葉桜の下で
今回は男の子の会話に挑戦してみました。ゾーニングのため「ボーイズラブ」のタグを付けていますが、私はあくまで友情を描いたつもりです。また、本文中に「痴漢」というセンシティブな単語が登場しますが、実際の事件を揶揄したり、被害者を中傷したりする意図はありません。それが苦手な方はブラウザバックをお勧めします。
衝撃を感じて、夏目ソウスケは目を覚ました。
「おいおい夏目くんは余裕だね!昨日寝る間を惜しんで勉強してたんだ……なら帰っても良いよ?」
顔を上げると、柳川先生の張り付いたような笑顔が目に入った。その声は嬉しそうだが、目は笑っていない。
「すいません……」
「ちゃんとやれよ……」
柳川先生はそう言うと、眠っている他の生徒の机を蹴りに行った。
柳川先生が視界から消えた後、ソウスケは「余裕ではない」と先生に反論した。もちろん、声には出さずに。中間考査が二週間後に迫っているのに、余裕であるわけがない。しかし、数式の描かれたプリントを見ていると眠くなってしまうのだ。特に午後の授業は。
家に持ち帰って、教科書の解説を見ながらやった方が解る。無理に授業中に終わらせる必要はないと考え、ソウスケは眠らないことだけに努めた。シャープペンシルで手の甲を突いてみたり、プリントの隅に落書きしてみたりしていると、また柳川先生の声が耳に入った。
「サクヤも余裕だな!今回は自信家が多くて、俺期待しちゃうな!」
先生が今起こしたのは、折笠サクヤだ。柳川先生はサッカー部の部員を下の名前で呼ぶのだが、折笠は帰宅部だ。どうやら先生は彼の中性的な容姿と珍しい名前を面白がっているらしい。対する折笠は、その名前で呼ばれることを嬉しく思っていないらしい。先生に何も言葉を返さず、再び数式を解き始めた。
折笠は寡黙な少年だ。弁当を食べる時も教室移動の時も、誰とも話さず、たった一人で行動している。勉強はそこそこできるらしいが、運動については解らない。何しろ誰とも話さないため、それ以上の情報が得られないのだ。
ソウスケがプリントを眺めながらそんなことを考えていると、終了のチャイムが鳴った。今日の授業はこれが最後だ。柳川先生はプリントの残りを次の授業までにやってくるように言うと、ニヤニヤしながら教室を後にした。
帰り支度をしているソウスケは、折笠の方を見ていた。いつもなら自宅で待っている妹のために、急いで荷物をまとめてるのだが、今日は無口なクラスメイトのことが気になって仕方がない。教材をリュックに詰め込む手元を見ようとしても、折笠の方に目が行ってしまう。折笠は誰とも話さず、ケータイで誰かと連絡を取ることもない。リュックを一つ背負うと、彼は教室の出入り口に向かった。
「ちょ、ちょっと待ってッ……!」
ソウスケの机は出入り口のそばにある。その近くを折笠が通りかかるときに、ソウスケは彼に声をかけてみた。
「何の用だ、夏目ソウスケ?」
折笠は無表情で尋ねる。ソウスケはその時初めて折笠の声をしっかり聴いた気がした。彼の声は低いが、他の男子のような下品な感じはしない。上品な色気のあるその声でラブソングを歌えば、乙女を虜にすることは容易いだろう。ソウスケはそんな感想を抱いた。
「お、折笠くん、放課後空いてる?数学のプリントで解らない所があるんだけど……」
解らない所があるのは事実だが、それを教えてもらうのが折笠である必要は無かった。ただ、何となく今日は彼と話がしたかった。どこか儚げな雰囲気のあるその声を、もう少し聴きたかった。ソウスケはそのための理由を考えたつもりだった。
「すまない、今日は予定がある……」
ソウスケの望みはあっさり潰えた。折笠はそれ以上のことは言わずに、一年三組の教室から出ていった。ソウスケは慌てて彼を追った。
「なぜついてくる?」
「いや、中間考査の範囲が結構難しくて……折笠くんに教えて欲しいんだ。いつなら大丈夫?」
リュックを担ぎながら折笠についていく。折笠はそんなソウスケに遠慮せず足早に玄関を目指す。
「お前がよく話している山城アオバがいるだろう?彼と教え合えばいい……」
「アオバはダメだよ。アイツもバカだから。むしろ僕と一緒に折笠くんの集中講義を受けたいくらいだよ……」
不意に折笠が立ち止まり、ソウスケの方を向く。ソウスケは彼の視線に射抜かれて、動けなくなってしまった。まるで、ヘビに睨まれたカエルのように。折笠は溜め息を一つ漏らすと、口を開いた。
「遅い時間になっても構わないなら、俺の用事が済んだ後に市立図書館で教えてやろうか?」
「うん、そうしよう……それで、用事って何?」
ソウスケの質問に折笠は顔をしかめた。どうやら聴かれたくないことだったらしい。
「お前には関係ないことだ。先に図書館に行って待っていろ」
それから折笠は待ち合わせの時間を指定して、すたすたと去ってしまった。どうしても折笠の「用事」の内容が気になるソウスケは、彼をつけてみることにした。
折笠は駅前行きのバスに乗り、終点の一つ前のバス停で降りた。そこでは駅前の通りで遊ぶために、多くの高校生が降車する。ソウスケもその流れに混じって折笠を追った。
折笠は市立図書館に向かう通りを一人歩いていた。彼の「用事」とはこの通りにある商業施設に関係していることなのか?怪訝に思ったソウスケは、通りに面した建物を一つ一つ確認していった。保険会社の入ったビルや銀行、ショーケースで秋物の婦人服を展示する百貨店。「普通」の男子高校生がそんなところに用があるとは思えない。折笠のような少年はその「普通」から漏れるだろうが、やはりどの建物にも入る気配は無かった。
ふと、アニメキャラクターが大きく描かれた看板がソウスケの目に留まった。その看板を掲げたビルにはアニメやゲームに関連する商品を取り扱う店が入っている。まさか、折笠が昨今のアニメに興味を示すはずがない。そう思っていたソウスケは、折笠が迷うことなくそのビルの中に入っていく様子に自分の目を疑った。
その店舗にはソウスケも何回か足を運んだことがあった。妹に頼まれてアニメ関連の書籍やCDを買いに行ったのはつい先週のことである。その時にソウスケは店内にぎっしりと詰め込まれた美少女キャラクターのグッズを見た。
そんな二次元の女の子と、折笠という人物をどうしても結びつけることができない。どちらかというと、それはいつも話すアオバの専門分野である気がする。彼はリュックに同人ゲームのキャラクターがデザインされた缶バッジをたくさんつけている。しかし、折笠のリュックにはキャラクターグッズどころか、ストラップの類も付いていない。まるで教材を運ぶ道具以上の役割を求めていないかのように。
ソウスケはこの状況を全く理解できなかった。
店内で鉢合わせすることを恐れて、ソウスケはビルには入らなかった。入り口が見える場所でケータイをいじりながら、折笠が出てくるのを待った。
ふと、SNSを通して妹から連絡が届いた。彼女は帰りの遅い兄を心配しているらしい。ソウスケはクラスメイトと自習してから帰ることと、それを親に伝えてほしいことを返信に入力した。
「そこで何をしている?」
低く色気のある声を聴いたのは、メッセージの送信ボタンを押したのとほぼ同時だった。びくりと肩を跳ねさせ、ソウスケは声の主を見た。
「先に図書館に行っていろと言ったはずだ」
折笠は咎めるような目でソウスケを睨む。二人の間に沈黙が訪れる。実際の時間は一秒にも満たなかったが、ソウスケには十分にも二十分にも感じられた。
先に沈黙を破ったのは折笠だった。
「ついてくるなと言っても聴かないからな、隠しても仕方ないか……」
そう溜め息混じりに言うと、彼は歩き出した。ソウスケはケータイをポケットにしまいながらそれを追った。
「『隠す』って、何を?」
「質問に答えるのは図書館を出た後だ。それまでプリントのこと以外、お前の質問には答えない」
折笠は図書館の近くにある公園に向かった。そこは滑り台しかない小さな公園だが、大きな桜の木が一本植えてあり、春にはその下のベンチでちょっとしたお花見ができた。しかし、今の季節に花は咲いていない。夏には青々としていた葉は、オレンジ色に変わり始めていた。
公園に着くと、ソウスケは例のベンチの上に人影を認めた。ソウスケたちと同じデザインの制服を着た少女……。スカートを規定の長さで履き、眼鏡をかけて本を読む姿は、優等生そのものだ。
ソウスケは彼女を知っていた。合同クラスでよく一緒になる清永セツナだ。ぱっと見はいかにも「文化系」という雰囲気を醸すが、体育の授業では男子にも劣らない身体能力を見せた。体力テストのシャトルランで、サッカー部の男子と並んで最期まで粘っていたのは今でも覚えている。たしか彼女は折笠と同じ上屋西中学校の出身だった。
「待たせたな……」
「折笠くんごめんね、わざわざ……」
折笠は清永に声をかけた。その声はいつもの不愛想なものとは違い、少し嬉しそうな感じがした。対する清永も、折笠の顔を見て笑みをこぼした。この二人が笑顔を見せあう関係にあるとは、ソウスケは夢にも思っていなかった。
「なんで夏目くんがいるんですか?」
清永の目がソウスケに向けられる。二人の関係を怪しんでついてきたと言えるはずもない。ソウスケが返答に困っていると、折笠が口を開いた。
「彼とは勉強を教える約束をしている。すまないが、今日はあまり話している時間は無い」
そう言いつつ、折笠はカバンから何かを取り出した。それは先刻のアニメグッズ専門店の袋で、中にはなにやら書籍が入っているようだった。
「一応確認してくれ、これで間違いないか?」
折笠は清永に袋を差し出した。袋を受け取った彼女は、中身を確かめると「大丈夫だよ、ありがとう」と伝えた。ソウスケは折笠が渡したモノが気になったが、図書館を出るまで質問はとっておくことにした。
「俺と夏目ソウスケはこの後図書館に行く。君は暗くなる前に帰るんだ」
折笠に頷くと、清永は袋をカバンにしまってからベンチを立った。
「じゃあね」
そう言い残して、清永は足早にその場を去った。折笠はその後ろ姿を暫くの間眺めていた。二人の関係に対するソウスケの好奇心は強まるばかりだったが、それは勉強会が終わるまで我慢しなくてはならなかった。もっとも、折笠が全てを包み隠さず話してくれるとは思えないが。
*
折笠のおかげで、プリントの問題を全て解くことが出来た。彼の解説は柳川先生より簡潔で解りやすく、不愛想な事を除けば理想の数学教師だと思った。
図書館を出たころには、日はとっくに落ち、辺りは真っ暗だった。ソウスケと折笠は徒歩で駅のバスターミナルまで行き、帰りのバスを待った。時刻表によると、次のバスが来るまで三十分近くある。バス停にはソウスケたち以外の人はいない。
「結局、折笠くんの用事って何だったの?清永さんに渡したものと関係あるの?」
ソウスケはやっと折笠に質問することが出来た。折笠の方もソウスケが「用事」の内容を聴いてくることを予想していたらしく、驚いているようには見えなかった。しかし、彼が回答を述べるまでには少し時間を要した。恐らく、話して良いことと悪いことを分類していたのだろう。
「お前が口の軽い人間だとは思わないが、これから話すことを誰にも言わないと約束してくれるか?」
ソウスケは無言で頷いた。それを確認してから、折笠は話し始めた。
「俺が清永セツナに渡したのは、アニメグッズ専門店で販売されているマンガ雑誌だ。男性同士の恋愛――BLを主題とした作品が掲載されていて、彼女はその購読者だ……」
BLという言葉を聴いてもソウスケは驚かなかった。美男子が愛し合う姿に心をときめかせる少女が一定数いることはソウスケも承知している。ソウスケの妹もBL作品を愛好しており、彼女が先日お遣いを頼んだのも、少年漫画の男性キャラクターが恋愛をする同人誌だった。
「じゃあ、なんでその雑誌をプレゼントしたの?清永さんの誕生日だったの?」
「いや、違う」
誕生日プレゼントではないとしたら何だ?ソウスケはさらに問いただそうとしたが、折笠の目を見て止めた。いつも通りの能面のような顔だが、目には闇が浮かんでいる。哀愁とも悔恨ともつかない何かが黒い瞳から滲み出ているようだった。どうやら、ここから先はあまり明るい話ではないらしい。
息を吸い、折笠が口を開く。
「セツナは……毎月雑誌の発売を楽しみにしていた。自習に図書館を使っていた俺は、たびたび彼女があの店から出てくるのを見かけていた。だが、夏休みが終わった辺りからそれを見なくなった……」
そこまで聴いて、ソウスケは折笠が拳を強く握り締めていることに気付いた。どうやら、清永があの店に行かなくなったのは、受験勉強が理由ではないらしい。もっと深刻な理由があるのだ。
「ちょうど今ぐらいの時期だった……俺があの公園で彼女を見かけたのは。そう、その日も雑誌の発売日だった。俺が『雑誌を買いに行かないのか』と聴いてみると、彼女は『あの店には行きたくない』と言うんだ……」
そこで折笠の眉間に皺が刻まれた。歯を食いしばり、その間から息を吐きだす。怖い顔だった。ソウスケは恐る恐る尋ねた。
「なんで清永さんは店に行きたくなかったの……?」
折笠は気持ちを落ち着かせるように深呼吸をすると、再び口を開いた。
「夏目ソウスケ……お前は一方的な力の前に押さえつけられる恐怖を想像したことはあるか……?」
「……?」
ソウスケはその問いの意味が解らなかった。
「彼女は……セツナは、夏休みの間に痴漢に遭ったんだ……あの店で……」
痴漢……。折笠が口にしたその言葉は、ジョークで言っているのとは違う重みを持っていた。しかし、ソウスケは葉桜の下で本を読む清永の姿と、その言葉をすぐに結びつけることはできなかった。
「『何で清永が?』っていう顔だな」
「うん……どうして清永さんが被害に……?」
「世の中で勘違いされがちだが、痴漢の被害に遭いやすいのは露出の多い服を着ている人ではない。むしろ露出の少ない、いたって真面目な服装をした人が被害に遭うことがある。そういう人は『奴ら』には手を出しても抵抗しない、格好のターゲット見えるんだ。もちろん例外はあるが『奴ら』はそういうところを目安に得物を見定めているんだ……」
折笠の声は怒気を含んでいた。彼はさらに続けた。
「犯行の場所がアニメグッズ専門店だったのも偶然じゃない。『奴ら』はアニメには興味なんて無いが、目当てはそれを求めて来店する人だ。もちろんこれも例外はあるが、アニメ趣味を持つ人は他に比べて自身が無さそうで、大人しい傾向にある。また、自分の趣味を後ろめたく思っている為に、一人で店を訪れることもある。これらの条件を見て『奴ら』は得物を選ぶ指標にしているんだ……」
「そして清永さんは、その条件を満たしてしまった訳か……」
折笠は頷く。全く、理不尽な話である。学校は性犯罪を予防するという名目で服装指導をするが、むしろ清永のように校則に従っていた者が狙われてしまったのだ。もしかしたら、自分の妹がお遣いを頼んでいたのは、そのような危険を察していたからなのかもしれない。折笠もまた、清永を危険から守るために毎月アニメグッズ専門店に足を運んでいたのだ。
「折笠くんは、どうしてそこまでしようと思ったの?」
「さあな、自分でもよく解らない。ただ、あんな連中の為に『好きなこと』を諦めなければいけないのは、なんだか悔しい気がしたんだ」
折笠はスッと息を吸って、高ぶっていた気持ちを落ち着かせた。
「それに、セツナとの関わりの中で良いこともあったんだ。彼女は会う度に、俺に様々なアニメを勧めてきた。その内の何作かを見てみたが、味わい深いものだったよ。今まで日本のアニメをバカにしていたが、その認識を改めさせられた……」
そう語る彼の声はなんだか嬉しそうだった。図書館に行く前に、公園で清永に話しかけた時と同じ声だ。
ともあれ、折笠と清永の関係は悪くはないようだ。恋愛という訳ではないが、折笠が清永のことを大切に想っているのは間違いなく、また清永も趣味を共有できる相手を得たことは幸運だっただろう。
その後折笠は清永に勧められたアニメの話を続けた。それはバスケットボールを扱った少年漫画を原作としたアニメだった。BL同人誌が溢れているあの作品である。ソウスケはまさか男色の気があるのかと思って折笠に聴いてみたが、彼は失笑し「男性に性的な目を向けたことはない」と否定された。
話を聴くうちにソウスケは折笠が案外自分と波長の合う人間なのではないかと考え始めた。もっとこの少年と話がしたい。そう思ったソウスケは、折笠に一つの提案をしてみた。
「ねえサクヤ、文芸部に入部してくれないか?もしだったら清永さんも一緒に?」
「……?」
「実は、一年生が僕ともう一人しかいないんだ」
「もう一人というと、山城アオバか?」
「そう。部員が足りないと文集を発表できないから、サクヤたちが来てくれると助かるんだ……」
嘘を言っているつもりは無かったが、文集云々はソウスケにはどうでも良かった。ただ、サクヤと話をする時間が欲しかった。そして、もっと彼と清永の関係を見守りたかった。
「だめ……?」
ソウスケはサクヤを見つめた。彼はバツが悪そうに眼を逸らしたが、フッと笑って答えた。
「悪くない話だ。俺もソウスケに興味がある。セツナにも話しておこう」
「やった!」
ソウスケはサクヤの手を取って激しく振った。いつもは不愛想なサクヤも、この時は微笑を見せていた。
「よろしくね、サクヤ!」
「こちらこそよろしく、ソウスケ」
二人の足元にオレンジ色の葉が飛んできた。どこの桜の葉なのかは解らないが、それは涼しい風に吹かれてまたどこかへ飛んでいった。ソウスケにとって、今年の秋は出会いの季節となった。
――終――