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happy birthday

作者: まさみ

一度目の誕生日。顔も知らぬママが額にキスして祝福してくれた。

二度目の誕生日。私にはなにもない。

挿絵(By みてみん)

カプセルの蓋が開いた瞬間、金属の棺の中で停まっていた少女の時間が歯車が噛みあうようにゆっくりと動き出した。

象牙のように滑らかな肌、薄桃色の可憐な唇。

アーモンド型の目はストロベリーソーダの色素を溶かし込み、豊かな黒檀の巻き毛が腰に纏わり付く。

それはむかしむかしの童話の一場面を思い起こさせた。

お后に美貌を妬まれ、魔の森に追放された白雪姫。

桜桃の唇で瑞々しい林檎にくち付け、真珠のように白い歯で果肉を齧った刹那、彼女の体に毒が廻り、麗しの姫は哀れ還らぬ人となったのである。

小人たちは嘆き哀しみ喪に服し、最愛の姫を色とりどりの花で埋もれたガラスの棺に横たえた。


とこしえに美しくあるように。

唇は黙して何も語らず、紅玉の目は決して開かず、象牙の肌は冷え冷えとさながら氷のように。


沢山のチューブで繋がれた金属の棺から息を吹き返した少女は、王子さまのキスの訪れを待たず自ら目を開けた。


「…………」


錆びた歯車が軋み、停滞した時がゆっくりと動き出す。

美しい少女は虚ろな目であたりを見回し、白く華奢な爪先を絨毯に降ろすや、赤ん坊のように覚束ない足取りで部屋中を見て回った。

部屋の中央に設えられた流線形のカプセルは銀の光沢を纏い、宙で静止した棺の蓋はウスバカゲロウの羽のように透明だ。

カプセルの右手には猫足のテーブルが一脚、その上には白磁の水差しがちょこんとのっかっている。


左手には巨大な本棚があった。

目の位置にある本の背表紙を撫で、指先に付着した埃を物珍しそうに眺めていた少女は、正面を向いて目を瞠った。

正面はガラス張りで、外の光景が180°の大パノラマで見渡せた。


それは不思議な光景だった。

暗黒の宇宙を照らす無数の微小な星と大小の惑星。ガラスを隔てた鼻先を透明標本のような魚が通過してゆく。

透けた皮膚に脈動する小さな心臓。

宇宙を遊泳する未知の生命体に見とれた少女は、蝶番が軋む音にハッとして振り返る。

リノリウムの廊下を背に白衣の男が立っていた。

均整のとれた長躯、知性を帯びた切れ長の双眸。銀縁眼鏡で端正な鼻梁を強調したその男は、窓辺の少女に優しく微笑みかける。

「おはよう、白雪・リフレイン」

白雪・リフレイン。

知らない。けど懐かしい響き。

少女はきょとんとして男を見詰めた。白衣の男は革靴で絨毯を踏みしめ、一直線に少女の下へ歩み寄った。

「覚醒直後で記憶が混同してるらしい。長期の冷凍睡眠被験者にはよくある症状さ」

れーとーすいみん?ひけんしゃ?何を言ってるのかさっぱりわからない。

男は当惑した少女の肩に手をおき、安心させるように微笑む。

「いいかい?よく聞くんだよ。君の名は白雪・リフレイン、年齢は14歳。出身地は地球だ」

「ちきゅう?」

「あの星さ」

男が指差した先を見て、少女は窓ガラスに張り付いた。

それは覚醒した少女の目に一際美しく輝いて見えた、宇宙に浮かぶ青い惑星。

「今は地球暦3010年……病が完治した君は今日、200年の冷凍睡眠から目覚めたんだ」

「ちきゅう……」

その名を舌に載せた刹那、砂漠に湧く地下水のような甘い郷愁が、体の底から湧き上がってきた。

地球。

私の故郷。

おかあさんとおとうさんがいる星。

「かえりたい。ちきゅう、かえりたい」

「今はまだ無理だ。いくら病が完治したとはいえ君の体調は万全ではない。激しい運動や外出は禁物だよ」

男は膝を屈め、少女と同じ目の高さで胸の名札を指さす。

「申し遅れたね。私は君の担当医だよ」

「たんとーい……おいしゃさん?」

「そうだ、お医者さんだ。よろしく、白雪」

若い医師が握手を求めてさしだした手を、白雪はぎゅっと握って自分の胸に引き寄せた。

服の生地越しに控えめな胸のふくらみを感じ、医師はぎょっとして腰を引いた。

少女は彼の狼狽など少しも斟酌せずに、医師の手を胸にあてにっこりと微笑んだ。

「よろしくね、せんせい」

刹那、医師は自分の立場も少女の年齢も忘れてその笑みに魅入られた。

一点の曇りもない、赤子のように無垢な笑顔。

医師を正気に戻したのは、白雪の訝しげな声だった。

「せんせい、どうしたの?」

ハッとして顔をあげた。白雪が小首を傾げている。

医師は慌てて彼女の胸から手を放すと、頬を仄かに赤くして言った。

「……詳しい話は、君の記憶が完全に戻ってからだ。今日はこれまで。なにか困ったことがあったら、すぐにナースコールするんだよ」

「なーすこーる?」

「カプセルの右手の壁にボタンがあるだろう。あれを押すんだ」

「うん、わかった」

「それじゃ、また」

白雪の従順な受け答えに医師は胸を撫で下ろし、踵を返して去ろうとする。

その裾を遠慮がちに誰かが掴む。

ふと振り向くと、頬をふくらませた白雪がいた。

医師は膝を屈め、拗ねたように唇を尖らす白雪を下から覗き込む。

「どうしたんだい?まだ何か用があるのかい」

「……やだ」

「うん?」

医師が顔を近付けると、白雪は目に大粒の涙をためて俯く。

「……いっちゃやだ」

唇から漏れたかすかな呟きに、医師は困惑げに眉をひそめる。

「……私はこれから仕事があるんだ。他の患者のカルテの整理をしなければいけないし、会議にも……」

「いっちゃやだ」

まるで駄々っ子だ。

医師は苦笑して白雪の肩に手をおいた。

「わがままをいって困らせないでくれ。私がいかないと、他の患者さんが寂しがるんだ」

「……さびしいの?」

「ああ」

「しらゆき、さびしいのやだ。みんなもさびしいのいや?」

「そうだ」

白雪は視線を揺らして躊躇したが、小さく嘆息して白衣から手を放した。

医師は微笑して白雪の頭に手をおいた。

「いい子だ、白雪」

頭におかれた温かな手の感触に白雪は唇を綻ばせたが、ふいに表情を曇らし、不安げに潤む目で医師を見上げた。

「せんせい、またくる?」

一途な目で乞われて医師は胸が詰まったが、微笑を繕って白雪の視線を受け止めた。

「ああ、もちろんだ。明日の朝にくるよ」

「ほんとう?」

「本当だ」

「ゆびきりげんまん」

白雪がさしだした白い小指に小指を絡め、医師は二・三度揺らした。

「うそついたらはりせんぼんのーますっ。ゆびきった!」

白雪は医師と小指を繋げたまま、白い頬を紅潮させにこりと微笑んだ。医師はつられるように微笑した。


翌日。

白雪の病室を訪れた医師は、部屋の惨状を目の当たりにして立ち尽くした。

「なにをしてるんだ!?」

絨毯の真ん中に寝そべり、分厚い書物を広げていた白雪が喜び勇んで跳ね起きた。

「せんせい!」

白雪は両腕を広げ医師の胸に飛び込もうとしたが、絨毯を埋めていた本に躓き、勢いよく顔から転倒する。

医師に助け起こされた白雪は照れ笑いしてちろりと舌の先を覗かせた。

医師は脱力して白雪に聞く。

「で?どうしてこんなことをしたんだ」

白雪の病室に敷かれた絨毯は一面本の海と化していた。本棚は空。白雪は「だってえ~」と口を尖らせた。

「せんせい、あさくるっていったのに、ぜんぜんこないんだもん。しらゆき、つまんないからごほんよもうとおもったのに、ここのごほんじばっかで、しらゆきちっともわかんない。ちっともたのしくない。せんせい、なんでこのへやのごほんにはえがないの?」

医師は片手で額を覆って呟く。

「退行現象か……」

「たいこーげんしょー?」

白雪をカプセルに導いた医師は、彼女をカプセルの縁に座らせるや噛み砕いて説明する。

「退行現象とは、頭の怪我や長期の睡眠がもとで子供のころに戻ってしまう現象のことさ」

そして、白雪が腰掛けている流線形のカプセルを意味ありげに一瞥した。

釣られて自分の腰の下に視線を落とした白雪は、銀の光沢帯びた人工の繭の脇腹を踝で軽く蹴る。

カプセルが涼やかな音をたてた。医師は白雪の目を見詰め、抑揚を欠いた声で述べた。

「君は二百年間このカプセルの中で眠っていた。今の君の状態……記憶喪失や退行現象がそれだ。白雪、現実の君は14歳の女の子なんだ。14歳といえば思春期の真っ只中だ。極端に異性を意識したり父親に生理的な嫌悪感をもったり……そういう悩み多き年頃なんだ。しかし今の君の精神年齢はどう高く見積もっても……実年齢より10は下だ」

白雪は大きな目を瞬き、小鳥のように小首を傾げて訪ねた。

「それって、いけないことなの」

医師は驚いて白雪を見返す。白雪は哀しそうに目を伏せた。医師は小声で言った。

「……いけなくはないさ」

白雪の目を見返す勇気が湧かず、医師は目を伏せた。カプセルに腰掛けた白雪の足が揺れていた。

「……せんせいはわたしがじゅーよんさいのほうがいいの」

白雪の目に大粒の涙がたまる。

「しらゆき、よくわかんない。おへやちらかしたのがわるかったの?ごめんなさい。しらゆきあやまるよ。でも……でもしらゆき、わかんないよ。しらゆき、おきたときからこうだったもん。いまのじぶんしかしらないもん。だから……だから……」

白雪は堪えきれずにしゃくりあげた。

「もとにもどるほうほうなんか、わかんないよお……」

ポツ、ポツ。絨毯に染み込む涙。

白雪は鼻水を啜り上げながら言葉を繋ごうとしたが、医師はそれを遮り彼女の肩を抱き寄せた。

「いいんだ、白雪。君はそれでいいんだ」

医師は乾いた手で白雪の背中を擦りながら、彼女の嗚咽に耳を傾ける。

「いそぐことはないさ、一緒に記憶を取り戻していこう。ゼロからひとつずつ学んでいこう」

医師の腕の中で白雪はこくこく頷いた。

「……せんせい、ひとつおねがいがあるの」

「なんだい」

「……しらゆきにもよめるごほん、もってきてくれる?」

医師は砕顔して我が子にするように白雪の頭を撫でた。

「ああ、わかった」

「ほんとう?」

「約束するよ」

白雪は向日葵が花開くようにパッと顔を輝かせ、医師の腰に抱き付いた。

「せんせい、だいすき!」


翌日、医師は絵本を持参して白雪の病室を訪れた。

病室のドアを開けると、窓辺にぺたりと座り込んでいた白雪が振り向いた。

「せんせい!」

弾むように駆けて来た白雪は、医師が手にした大判の絵本を見て顔を綻ばせた。

待ちきれずに彼の手から絵本を奪い取り、絨毯に膝を折って表紙を開く。

平仮名と青のパステル画で綴られた絵本は医師が期待した以上に白雪の興味を引いたようだ。

白雪は大きな活字を指で辿っていく。

「……あおい、さかなは……ひとりぼっち……おかあさんをさがして……」

小児病棟から拝借してきた絵本は幸いにも白雪のお気に召したようだ。

ページをめくる音とたどたどしい声が病室に流れる。

白雪に手招きされた医師は、彼女の背後からそっとページを覗きこんだ。

そのページはパステル調の青一色で塗られていた。

一瞬海かと錯覚したが、九個の惑星が浮かんでいるからして背景は宇宙らしい。白雪は嬉々としてページの真ん中を指差す。

「おさかな!」

白雪が指さしていたのは、絵本の主人公とおぼしき一匹の魚だった。白雪が窓を指差す。

「おさかな、いたよ!まどのむこうにいた!」

「ああ……宇宙魚だね」

「うちゅーぎょ?」

「宇宙を泳ぐ魚さ」

医師が窓辺に立つ。白雪は絵本を胸に抱いて医師の隣に立った。

「白雪、本当は宇宙に魚はいないんだよ。魚は海にいるんだ」

「うみってなあに?」

「海は塩辛い水がたくさんあるところさ。海には色んなお魚がいる。青、赤、オレンジ、ピンク……凶暴な魚やおとなしい魚、のんびりやの魚もせっかちな魚もいる。けれどここには海がないから……本当なら魚は宇宙にいちゃいけないんだよ」

白雪は絵本を抱きしめ真剣な顔で考え込んでいたが、顔をあげてこう言った。

「せんせい、ここどこなの?」

薄々予期していた質問だった。

医師は取り乱すことなく、白雪と会話する時の癖で膝を屈めた。

「人工衛星だよ」

「じんこーえーせい?」

医師は一呼吸おいて続けた。

「そうだ。この衛星には、地球の環境にそぐわない遺伝子を保有した者が数多く居住している。先人の代から続く大気汚染や環境破壊が原因で、地球のバランスは崩れた。二百年前、地球に住む一部の人々が遺伝子に異常をきたし始めた。彼らの遺伝子は地球の汚染された空気に拒絶反応を示し、癌細胞が急速に体を蝕んでいった。地球を脱して宇宙に逃れるしか彼らに選択の余地はなかったんだ……」

医師は白雪に向き直り、知的な双眸に憐憫をこめて諭す。

「白雪。君は、地球外変異遺伝子保有者第一号なんだよ」

白雪は結露した血のように赤い目を瞬き、医師の憂い顔から窓の外へと視線を転じる。

無数の微細な星を擁した宇宙、その真ん中に浮かぶ青と白の美しい斑模様の惑星。

白雪は遠く離れた地球を見詰める。

「あそこにおかーさんとおとーさんがいるの?」

窓辺に立ち尽くした医師を仰ぎ、白雪は無邪気な問いを繰り返す。

「ちきゅうはしらゆきのほし。おとーさんとおかーさんも、ちきゅうにいる?」

医師は躊躇するように視線を揺らしたが、白雪の期待に満ちた紅い目に気圧され首肯する。

「……ああ」

白雪はガラスに手を付き、初めて水族館を訪れた子供のように青い惑星へと手を振った。

「おかーさんとおとーさんにも、しらゆきがみえるかな?」

白雪は医師を振り返り照れたように笑い、医師は口を閉ざして曖昧に微笑したのだ。


覚醒から三日目、白雪は初めて医師以外の人間を見た。

白い服を纏った女性と聴診器をぶら下げた老いた医師で、彼らは白雪を椅子に座らせて診察を始めた。

白雪は爪先を揺らし彼ら一人一人の顔を観察する。

カルテを持った看護婦が二人、白雪の手首を取り脈を図る医師の背後に控えている。

ドアの方に視線を転じれば、中年の医師が二人、ちらちら白雪を見ながら声を潜めて会話していた。

白雪は簡単なテストを受けた。

初めて握る鉛筆の感触が嬉しくて、白雪の胸は弾んだ。病室に運び込まれた机は爽やかな木材の薫りがした。

白雪は老医師に促されるがまま五枚のペーパーテストを受ける。答案に目を通した医師は「ふむ」と顎を撫でて唸った。

テストが終わると白服の一団は器材を片付けて白雪の病室から退去する。

彼らの話す言葉は難しくて白雪にはちっとも理解できなかったが、「退行現象」「精神年齢」「四歳児程度」「記憶の欠落」という断片的な言葉が印象に残った。

病室を辞す前、老医師は白雪に聴診を施した。

「……やはり遅かったか」

「?」

白雪はきょとんとする。

老医師は聴診器を畳み、皺に埋もれた黒い目で白雪を見据えた。

「白雪・リフレイン14歳RH+A型。君は自分が冷凍睡眠に就いた理由を考えたことがあるかね」

白雪は首を傾げた。

「しらゆき、なんでねんねしてたのかわかんない」

医師は薄く嘆息する。

「……君の癌細胞は進行していて当時の医療技術ではとても手に負えんかった。放置しておけば、そう遠くない将来娘は死ぬ。髪の毛は一本残らず抜け落ち、唇の色は褪せ、枯れ枝のように痩せ細り……君の親御さんはそれを見るのが忍びなかった。だから愛娘をガラスの柩に入れたのじゃ」

医師は重々しく告げる。

白雪は疲れた顔をした老医師を気遣い、心配そうに眉を曇らせた。

「……50年後か100年後か。それより遥か先の未来でもいい、医療技術が進歩し娘が完治するならば……親御さんは一縷の望みを託し、娘を収納した冷凍睡眠装置をこの衛星に送ったのだ」

医師は眠気を払い落とすように首を振った。

「……しかし、不可能じゃった。50年後でも100年後でも、全身に転移した癌を癒す術は発見されなかった。当時製造された冷凍睡眠装置の寿命は200年。君をあのまま放置しておけば体に霜が張り付きき、どのみち確実に凍死しておった。……苦悩と度重なる議論の末、私たちは装置の寿命が尽きる前にカプセルを開くことにした。既に故人となった親御さんも、装置の耐用年数限界が来たら娘を強制覚醒させる事に同意し、書類に判を捺したんじゃ」

柩の中で自分が死ぬことにも気付かず眠り続けるか、最後に起きて幸せな日々を過ごすか。

両親が白雪に望んだのは後者だった。それを親のエゴだと、自己満足だと責められようか?

白雪はだんだん不安になってきた。話してることは難しすぎてわからないが、自分を見詰める医師と看護婦の目がとても哀しそうだったから。

医師は目を伏せて告白した。

「……白雪。君の寿命はあと三日だ」

白雪はぱちぱちと瞬きした。

ジュミョウってなあに?

老医師は耐えきれず目を伏せる。

「親御さんの予想は外れた。200年後の未来でも君を病から救う術は確立されなかったのじゃ……」

医師は顔を歪めて言った。

「酷な宣告じゃが、白雪。君は、死ぬために生まれてきたのじゃよ」


しぬためにうまれてきた?わからない。しぬためってなに?

……しらゆき、しぬってことがわからない。

けど、うっすらとおぼえてる。めをとじるとまっくらになる。しらゆき、しってる。

しぬってことは、つめたいまっくらやみにとじこめられちゃうことなんだ。

そうしたら、ちきゅうをみてきれいだなとおもったり、おさかなをみてかわいいなとおもったり、ぜんぶできなくなるんだ。

……そんなの、しらゆきじゃない。

……しらゆき、おきたばかりなのに。しんじゃうの、やだ。

その晩、毛布に包まって白雪は考えた。窓の外には宇宙が広がっていた。星は冷たく冴えて瞬き、地球は相変わらず美しかった。

あと三日。

あと三日。

その言葉が、白雪の脳裏を彗星のように過ぎって消えた。


四日目。

白雪は病室を訪れた医師に絵本を叩き付けて泣き叫んだ。

「せんせいのばか!だいきらい!」

白雪の豹変に医師はうろたえるも、絨毯に立ちはだかった白雪の華奢な肩が震えていることに気付き、意を決し足を踏み出す。

「白雪……、」

「こないで!」

甲高い金切り声が鼓膜を貫く。医師は構わず歩を進める。

白雪は本棚に飛び付き、医師めがけて狂ったように書物をぶん投げた。

医師は避けることもなく、毅然とした足取りで白雪に歩み寄る。本が顔にあたり銀縁眼鏡が弾け飛ぶ。次いで腹にあたり体をくの字に折る。

しかし、医師の歩みが止まることはなかった。

分厚い本の洗礼にも屈せず遂に白雪の下に到達した医師は、本の角で切れたこめかみから血を流し、彼女の肩に手をおこうとする。

白雪は肩を激しく振ってその手を払い落とす。

医師は所在なげに手を浮かし、切れ長の目に憂いを湛えて白雪を見下ろした。

「……白雪、わかってくれ」

「どうしてうそついたの」

「君のためを思って言ったんだ」

「うそつき」

「本当のことを言えば、君は……」

「だいきらい!」

白雪は両のこぶしで医師の胸を叩きまくる。

「だいきらいだいきらいだいきらい!しらゆき、どうせしんじゃうんだ!あとみっかでしんじゃうんだ!それなら、なにもしらないほうがよかった!ねむるようにしんじゃえば、ないたりおこったり、せんせいをきらいになることもなかったのに……」

赤く腫れたこぶしから力が抜けてゆく。

白雪はぺたりと絨毯に座り込み、大きな声で泣きじゃくった。

「……ばか……」

天井が高い病室の底を嗚咽が流れてゆく。

医師は小さく咳き込み押し黙っていたが、白雪の嗚咽が止むのを待って口を開いた。

「……私は間違っていたのかもしれない」

白雪は泣き腫らした目を上方に向ける。

医師は窓辺に歩み寄り、宇宙に浮かぶ衛星と惑星が織り成す銀河の縮図に見入った。

「上司から君の担当に任命された時、正直困惑した。200年も冷凍睡眠装置に入っていただなんて、まるでお伽噺の眠り姫だ。そんな娘になんて事実を報告すればいい?両親はとっくの昔に死に、君はたったひとり死を待ち侘びる身だと言えばよかったのか?……そうすればよかった。だができなかった。ただひたすら無邪気な君に、残酷な現実を突き付けたくなかったんだ」

ガラスに映った医師の目に心許ない灯が揺れる。

「勝手な言い分だとわかっている。恨まれても憎まれても仕方ない。しかし、私は……君に、幸福だけを知って逝ってもらいたかったんだ」

白雪は医師の隣に立った。

医師は前を向いていた。

「……許してくれ。私は……」

「せんせい」

白雪の凛とした声に振り向いた医師は、白雪の視線が指し示す先を見て彼女の真意を悟る。

白雪は地球を見詰めていた。

「わたし、ちきゅうにかえりたい」


交渉には一日を要した。

医師は白雪の外出許可をとるため偏屈な上司と衝突を繰り返し、白雪はその間病室でしずかに絵本を読んで過ごした。

その絵本は医師と会った翌日に彼が持って来たもので、白雪のいちばんのお気に入りだった。

内容は、迷子の魚が母親を捜して旅する話だ。

氷山が浮かぶ北の海で母魚とはぐれた子供は、夜空に輝くひしゃく座に拾われて宇宙へ放り投げられる。


「宇宙にいけばすべてが見渡せるよ。お母さんがどこにいるか一目でわかる」


ひしゃくに唆された小魚は宇宙から地球を見下ろしたが、地球は広く海は大きく、母魚の居場所はちっともわからない。

だが小魚は諦めなかった。

隕石の隙間をすり抜け、土星の輪をくぐり抜け、遥かなる宇宙を旅して地球の海に帰還した小魚はめでたく母と再会を果たす。


最後のページは故郷の海で抱き合い、極彩色の熱帯魚の群れに祝福される母と子の姿でしめられていた。


「そうしてこざかなはははざかなとふたたびあうことができました。めでたし、めでたし……」

ぱたんと絵本を閉じ窓辺に歩み寄る。窓の外を透けた魚が横切ってゆく。

宇宙魚は衛星に隔離された患者の心を癒すために造られた、宇宙でしか生きられない特殊な魚だ。

白雪は窓ガラスに頬を寄せ、ぼんやりと宇宙を泳ぐ魚を追いかける。

「おさかなさんはうみにかえりたくないの?」

故郷を忘れた白雪の問いは分厚いガラスに弾かれ、宇宙魚のもとにまで届かなかった。


最期の日。

白雪は医師に手を引かれリノリウムの廊下を歩いた。

今日、白雪は盛装していた。

一枚布の青い患者服から看護婦が持ってきた純白のワンピースに着替え、ぴかぴか輝くエナメルのローファーを履く。

白雪はスキップしながら歩く。カツン、カツン、軽快な靴音が廊下に反響する。微笑ましい白雪の姿は通りすがりの患者や医師たちの顔を綻ばせた。

消毒液の匂いに満たされた廊下を抜け、患者たちでごった返したホールを抜けると銀色の扉の前に出る。

巨大な扉だった。医師が扉に手をかざす。ピピ、という電子音。医師の指紋を照合し、ゆっくり扉が開いていく。

「わあ!」

白雪は歓声をあげた。そこは格納庫で、大小の宇宙船が係留されていた。

医師に先導され一隻の宇宙船に乗船した白雪は、物珍しげに内部を見回して計器を突付いた。

医師はコックピットに乗り込むと、念のため燃料の減りを確認し操縦棹を握る。

計器の調整を終えてエンジンを噴かす。ゴゴ、という噴火のような振動が足元から伝わってきた。

「さあ、出発するぞ」

医師が振り向く。白雪は上気した頬で頷く。

地球に到着したのは8時間後だった。

「着いたぞ、お姫様」

医師に揺すられた白雪は眠い目をこすり、もぞもぞと毛布の中でぐずる。

「地球だ。お前の生まれた星だ」

毛布を蹴飛ばして跳ね起きた白雪は、まどろっこしそうにボタンを押し、金属の扉の前で足踏みした。

シュウウ、蒸気音。

幕が上がるように扉が上昇し、目の前に夢にまで見た地球の光景が広がってゆく。

白雪は大きく目を見開いた。


鉛色の空の下、草一本ない荒野が視界の果てまで広がっていた。

乾いてひび割れた大地には人っ子一人おらず、灰を塗した雲を裂いて風の鳴き声だけがこだましていた。


ステップに立ち尽くした白雪に歩み寄り、医師はしずかに言った。

「……地球は50年前に廃棄された惑星なんだ」

荒野に吹き渡る凍えた風が、少女の豊かな黒髪を揺らす。

「君が眠りに就いてから地球の環境はどんどん悪くなる一方だった。地球は病んでいた。愚かな人間は地球の悲鳴に耳を塞ぎ続けていたが、それももう限界だった。あらゆる動植物のホルモンに異常がおき、遂には全人口の八割が癌で死滅する事態にまで追い込まれた。人類は地球に見切りを付け、遥かなる宇宙に新天地を求めた……。私の、父の代のことだ」


無人の惑星。

息絶えた星。

嵐のように雲が流れ、風が吹き、ひび割れた大地がわななく。


ステップに立った白雪はそっと目を閉じる。

これは、終末の風景だ。

太古から連綿と続いてきた人類の歴史には終止符が打たれた。

これは、墓標なのだ。

人類の墓標。惑星の墓標。


「風邪をひくぞ」

冷たい風に身を晒した白雪を心配して医師は言ったが、口にした刹那自分の愚かさを呪った。

白雪の寿命はもうわずか。

細い肩に伸ばしかけた手をきゅっと握りしめ、懺悔するように顔を伏せる。

白雪は目を閉じ、天に懇願する。


おねがいします。

わたしは、もうすぐしにます。

このほしは、もう、しんでいます。

でも、わたしのこきょうなんです。

わたしがうまれそだって、くるおしいほどにこがれたほしなんです。

だから、おもいでをよみがえらしてください。

このほしのさいごのこえを、わたしにきかせてください。


静かに瞠目する白雪の頬に何か、冷たいものが触れた。睫毛がかすかに嵩む重さにうっすら目を開ける。


空から一片の白い塊が落ちてくる。

白い塊は白雪が見ている前で音もなく降り積もり、ひび割れた赤茶の皮膚に薄化粧を施していく。

「……雪だ」

驚きに打たれた医師が白い息を吐く。

「ゆき……」

虚空にひとさし指を伸ばす。

空から舞い落ちたひとひらの雪が、綺麗な半円を描く桜貝の爪に付着した。

白雪は雪の冷たさを感じて目を閉じた。温かな暗闇の底で声がした。やさしい声、心地よい声。


『あなた、この子の名前は白雪にしようと思うの』

力強い声が応える。

『白雪か。お伽噺の白雪姫に負けないような美人になってくれよ』

女は銀の鈴を転がすような声で笑った。

『お伽噺の白雪姫……それもあるけど。ねえあなた、この子が生まれた日をまさか忘れたわけじゃないでしょう?』

『12月24日だ。忘れるわけがないだろう、イエスさまと同じ日に生を受けたんだ』

『12月24日……あの日は、雪が降っていたわ。天使の羽のように真っ白な雪がね』

聖母のように慈愛に満ちた声が、やさしく耳朶をくすぐった。

『雪のようにまっしろな心の持ち主に育ってくれますように。そう願って、白雪とつけたのよ』


リフレイン、リフレイン。

一度目の誕生日。顔も知らないママが額にキスして祝福してくれた。

二度目の誕生日。私は空から雪を贈られた。

でも、一番の贈り物は、ママとパパがくれたこの名前。

白雪・リフレイン。


「……先生」

吐く息が白く溶ける。白雪はステップを降り、大地を薄く覆った雪を真新しい靴で踏みしめた。

浅い靴跡が白い大地に刻印される。

これは白雪が地球に降り立った痕跡。白雪が生きていた証拠。

白雪は林檎のように頬を染めて振り向いた。

「ありがとう」

白雪は後ろで腕を組んでへへっと悪戯っぽく笑った。医師は微笑としたが、目の前が雲って笑うことができなかった。

白雪は医師の手を引いてステップを降りると、慈悲深い聖母のように天に両手を広げてくるくる回った。

雪の白さに黒檀の髪と靴が映え、紅潮した頬と熟した桜桃のように赤い唇は、閉じた瞼の裏まで染みとおるほど鮮やかだった。


天から降る雪の中、白雪は踊り続けた。

純白のワンピースを翻してくるくるくるくる廻り続けた。


廻り続けるのに飽きた白雪は新たな遊びを始めた。白い雪に中に倒れこみ、人型のくぼみを作る。

何度も何度もそれを繰り返しさすがに疲れたのか、遂に白雪はくぼみに倒れ伏して動かなくなった。

医師はあきれて白雪に歩み寄った。

「白雪、いい加減にしろ。体が冷えるぞ……」

医師は白雪の肩に手をかけて起こそうとしたが、彼女の肌が陶器のように冷たいことに気付いてハッとした。


白雪は死んでいた。

ゆるやかに上がった唇に至福の余韻を留めたまま。



数日後、白雪の死を看取った医師は無人の病室を訪れた。

本棚の下段には白雪の遺品である絵本が数冊、行儀よくしまわれている。

猫足のテーブルとカプセルが撤去された部屋は殺風景で寒々しい。

本棚に歩み寄った医師は、彼女と会った翌日持参した絵本を取り出し、表紙を開く。

何故そうしたのかわからない。

この殺風景な部屋の片隅に、白雪の生きた痕跡を留めておきたかったのかもしれない。

表紙を開けた刹那、彼の足元に一枚の紙きれが滑り落ちた。

「?」

医師は紙を拾い上げた。紙にはクレヨンの稚拙な字で、こう書かれていた。


『せんせいへ。

きょう、ねるまえにこれをかいてます。

あした、ちきゅうにいくんだね。ほんとうにいくんだね。すごくうれしいです。

こっからみるちきゅうはあおくてとてもきれいだけど、ほんとのちきゅうはどんなところなんだろう。

とてもたのしみです。

せんせい。わたし、せんせいとあえてよかったです。いろいろよくしてくれてありがとうございました。

わたし、せんせいのことだいすき。

ママとパパとおんなじくらいだいすきだよ。

しぬことはまだこわいけど、せんせいがそばについててくれるならだいじょうぶ。


でも、こわいよりうれしいです。

ちきゅうはどんなところだろう?ほんもののおそらはどんないろをしてるんだろう?

かんがえただけでわくわくです。


せんせい、わたしのことをおぼえていてください。

こっからなら、いつもちきゅうがみえるでしょう?

わたしはたぶん、ちきゅうでしぬ。だから、ちきゅうをみるたびわたしのことをおもいだしてね。

やくそくだよ。


さいごに。

ちきゅうがわたしのそうぞうよりうつくしいことをいのってます。


さようなら、せんせい』


ポタリ、ポタリ。

握り締めた紙の上に点々と涙がしみこむ。医師は肩を震わせて嗚咽した。

医師の背後を宇宙魚が横ぎってゆく。

衛星から見る地球は今日も青く美しかったが、両手を広げて白い雪片と戯れる白雪の姿はそれ以上に美しかったと今でも医師は思うのだ。

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