第1章------(8)
霊界に戻るなり、真吾は大天使ラファエルのもとへ連れてこられた。ラファエルは平伏する真吾に目をやると、手にしていた巻物をわきへ置いた。
「それで、どうだったのだ」
ラファエルが聞く。冷たい視線を感じて、真吾は拳をにぎる手に力をこめた。
「それは……」
「まあ、お前の想念を読めば、結果はわかるがな。それでも一応、本人の口から報告を聞くのが決まりになっている。言え、お前の子孫からポイントを貰うことはできたのか」
真吾は唇を噛みしめた。天使は真吾が地上で何も出来なかったことを知っている。知った上で、聞いてきているのだ。
(性格が悪い)
真吾は思ったが、その想念もおそらくこの天使には聞こえてしまっている。だが、美貌の大天使は眉ひとすじ動かさなかった。緊張した空気に耐え切れなくなったように、真吾は話しはじめた。
「――その、おいらの子孫は……日本のすすきのというところで暮らしてました。でも、そいつの仕事は女衒のようなもので――おいらが行った時にはもう手がつけられないほど、悪霊が入り込んでしまってました……」
「結果を言え」
冷たい声。真吾は真っ赤になって、言葉を続けた。
「おいらは、何も、出来ませんでした」
「ポイントは?」
「ありません」
「そうか。なら、横田四丁目が地獄に吸収されても、文句はないな。はじめに私が与えた仕事――住民たちの振り分け作業にとりかかるがいい」
天使は事務的に言って、それきりもう真吾には用はなくなったというように、巻物に目を落とす。真吾はたまらない気持ちになって言った。
「でもっ! おいらは何もできなかったけど、四丁目が地獄に落ちるのをただ見ているだけなんてことはできないっ、おいらは何かしたい、おいらたちの町を救いたいんだっ」
天使が目をあげた。
「お前の気持ちはわかったが、無理な相談だ」
「何か、方法がないんですか? おいらの一番近い子孫はああだったけれど、誰か、遠縁の子孫を探してみれば、もう少し、善のポイントを稼ぎやすい人間だってどこかに――」
「無駄だな」天使は巻物を閉じた。巻物の表面に指先をあて、小声で呪文をとなえながら光の文字をしるしてゆく。巻物がほんのり輝いた。大天使は巻物を側近の天使に手渡した。
「天からの命令書だ。他の四大天使に持ってゆけ」
「は」
側近は恭しく巻物を受け取って、懐に入れる。ラファエルはそれから二言、三言、自軍への命令をつけくわえる。椅子から立ち上がり、歩き出そうとして、まだその場に真吾がいたことに気がついたように言った。
「納得できないなら、教えてやろう。いいか、桜田真吾。お前には直系の血統の子孫がいない。生前、お前は結婚はしたが、子をなさなかった。それで、養子の子孫を訪ねていった。そうだな?」
「は、はい……」
「それがお前の最も近い子孫だった。遠縁の子孫たちもいることはいるだろう。だが、それらにはそれらの先祖が大勢ついている。たとえ、その遠縁の子孫ひとりに善のポイントを稼がせたところで、お前がとれる分け前はたかが知れている。とてもひとつの町を救うだけの力にはならない」
天使の言葉はもっともで、真吾は目に涙をためることしかできなかった。
「でも――」
「聞きわけろ。横田四丁目は救えない。見ろ、あの空を」
真吾は天使が指し示した方向を仰ぎ見て、目を見開いた。
「あ……」
空が黒い。
サタン軍が再び攻勢をしかけてきている。
空が黒い無数のものに埋めつくされ、それが横田四丁目を覆いつくそうとしていた。残っていた住民は今は全員シェルターに保護されていたから無事だったが、真吾は住み慣れた四丁目の地が割れて、突き上げられ、のみこまれてゆく情景を呆然と見つめた。
「そんな――」
四丁目の大地がぽろぽろと、砕かれた落雁のように落ちてゆく。
「そんな、そんな。そんな」
真吾の畑も夢も仲間たちとの暮らしも崩れてゆく。
真吾は膝をついた。かれ自身は大天使のつくった浮島のようなところにいたから、危険はない。だが、だからと言って、安心していられるはずはなかった。
「おいらの町が、家が――……ああ――」
霊界にきて五十年間積み重ねてきたものが、崩壊してゆく。その様子を見せつけられることは辛かった。真吾の隣で、ガシャリという音がした。いつの間にか戦装束に身をかためた大天使が立っていた。
「私はこれから戦闘に出る。お前もついてくるか?」
ラファエルは崩壊してゆく四丁目に視線を落としながら言う。だが、そのいつもの、冷たい声のなかには、いくらかの同情心がやどっていた。真吾は敏感にそれを感じた。
「行っていいんですか……」
「お前が望むならな」天使が言う。真吾はためらった。
「おいらは戦えない。何の力にもなれません。それでも――?」
「そんなことは期待していない。お前は私の後ろに乗っているだけでいい。多少、危険だろうが、馬から落ちなければ安全なはずだ」
真吾は目を見開いた。この天使は真吾に横田四丁目の最期を見せようとしているようだった。四丁目の運命は変えられない。例によって悪魔の竜が出てきて、天使たちが応戦しているが、たとえその戦いに勝利したところで、四丁目はもはや地獄へ落ちてゆくだろう。だとすれば、これはラファエルなりの真吾への気遣いなのだろうか、と真吾は考えた。かれは鼻をすすって、頷いた。
「はい。お願いします」
「よかろう」天使は言った。
天使の白馬が空を翔る。
勢いよく空に舞い上がり、前方の、黒い染みのように広がっているサタン軍へ突っ込んでゆく。その様子を真吾は呆気にとられて見つめていた。そこかしこで激しい戦いが繰り広げられていた。天使軍はその美しさに似合わず、勇猛だった。鋭く弓を引き、容赦なく堕天使たちを貫いてゆく。また、飾りふさのついた槍をあやつって、悪魔の竜や堕天使たちの体をなぎ払ってゆく。
ラファエルは部下たちの戦いぶりを満足したように眺めると、馬腹をかるく蹴った。
「私たちも行くぞ」
低い声で言う。「えっ、あの――」真吾が返事をする間もなく、白馬は急降下した。急激な落下を感じて、真吾は悲鳴をあげた。
「ひぇぇぇぇぇぇ」
真吾は自分の悲鳴を聞きながら、恐怖で混乱した頭のなかで、昔、日本軍の大将は戦闘の最前線に出ることなどけっしてなかったと思っていた。
(この天使――大天使のくせに、なんで、前線で戦うんだ。偉いやつは、いつだって自分は安全な後ろのほうで命令だしてるだけなのに……)
すると真吾の心の声が聞こえたのだろう。ラファエルが応じてきた。
「確かに、そういう戦い方をする四大天使もいる。おのれが後方に下がっていたほうが、全体を見ることが出来、効果的な戦術をめぐらせられるなどと言ってな。だが、私は違う。兵の先頭にたって戦う。そのほうが楽しいからだ」
「楽しい?」
真吾は耳を疑った。しかも、落下でよくわからなかったが、今、大天使は笑っていたような気がする。ラファエルは空中で馬を止めると、その美貌に凄絶な微笑みを浮かべた。
「この手で堕天使どもを抹殺できる。天のために、これ以上の喜びはない。行くぞ。あそこに獲物が一匹いる」
ラファエルは槍をかまえた。そして、勢いよく悪魔の竜の群れへ突っ込んでゆく。真吾が呆然としている間に、その首をなぎ倒した。竜の堅いうろこに槍があたった瞬間、凄まじい衝撃がつたわり、真吾は馬の鞍から落ちそうになる。
「ひゃっ……!」
体をもってゆかれそうになって、真吾は情けない声を出した。天使はかまわず馬を反転させ、次の獲物に襲いかかる。その獲物も鮮やかにしとめた。ラファエルの金髪が白銀の炎のようにゆらめている。天使は笑った。
「しっかりつかまっていろ。落ちたら、この下はもう地獄だぞ。地獄をじっくり見たことはあるか?
ちょうど良い機会だから、見学していったらどうだ」
冗談とも、本気ともつかぬことを言う。真吾は恐怖でガクガク震えながら、大天使の腰にしがみついた。
「も、もう少し――後ろに……こんな堕天使だらけのところにいたら危険――」
「戦場とはこういうものだ。ほら、新手が来た。今度は手ごわそうだぞ」
大天使は相変わらず上機嫌だった。真吾は眩暈を感じた。確かに、前方から堕天使たちやってくる。その群れの先頭には黒い馬に乗った、見るからに強そうな堕天使がいる。
「ラファエル様。ベリアルです」
天使のひとりがラファエルのもとへ来て、叫んだ。真吾は耳を疑った。ベリアルはサタン軍のなかでもきわめて上位の堕天使だ。その強さと恐ろしさは、霊人たちの間では、なかば伝説のようになっている。
「ふん……」
ラファエルの顔色が少し変わった。かれは近づいてくるベリアルを睨みすえながら、真吾にだけ聞こえるような小声で言った。
「状況が変わった。遊んでいられなくなった。ベリアル相手にお前を庇いながら戦うことは出来ない。真吾、すまないが、いったんお前を下におろす。バリアーはかけておくから、お前の身に危険が及ぶことはない。多少、怖い思いはするかもしれないが、戦いが終わったら、回収しよう。しばらく、私の馬からおりてくれ」
「え? それってどういう意味……」聞き返す間もなかった。真吾の体は光の輪のようなものに包まれ、宙に放り出された。そしてふわふわ上空をただよいながら、ゆるやかに落下してゆく。落下した先の大地は――そう、地獄だった。
「ちょっと待ってください。おいら、地獄に行くんですか? 今? 本当に? そんな話、聞いてない。安全だって言ったのにっ――そんな……っ」
真吾は真っ黒い大地が近づいてくるのを見つめながら、わめいた。
「戦いが終わったら、助けに行ってやる。有り難く思え」
遠くから、声が聞こえてきた。真吾はパニックになって叫んだ。
「やめて。そんなっ、心の準備がっ。安全だって言ったのにっ、大天使のくせに嘘つきっ!」
その叫びに返答はなかった。真吾は地獄へ降り立った。