第1章------(5)
真吾は唾をのみこんだ。
頭上から見下ろしてくる一人の天使。天使の態度は尊大で、声には命令しなれた者のもつある種の傲慢さがあったが、真吾は何の反感もいだかず、ただ呆然と見あげるだけだった。
「大天使ラファエル」
白銀の炎のように燃える髪を持つことで知られている、天使軍の総指揮官である四大天使のひとりだ。旧大日本帝国軍の階級で言えば、大将クラスである。生前、戦争当時、一等兵にすぎなかった真吾からすれば、雲の上のまた上の存在だ。
だから、そんな存在が真吾に対して見下した物言いをしたところで、何の不思議もないのだと真吾は思っていた。
(それにしても大天使をこの目で見ることができるなんてなあ。天使は時々、見かけても、大天使なんて……五十年霊界にいて、はじめてだ)
真吾は不思議な生き物を見るような目でラファエルを眺める。
一見、白い大きな翼を持った人間のように見えるが、天使は人間――霊人たちとは根本的に構成要素が異なる。
天使たちは人間たちのように肉体をもった人生を歩んで、その人生を終えた上で霊界に来たわけではない。彼らは生まれた時から霊界の住人で、霊的な存在だった。
そのため、人間のように地上世界のあれこれに影響されることはない。ただ、アフターワールドの中心である創造主の命令により、霊界の秩序をたもつために働いている。人間が霊界の利用者だとすれば、天使は霊界の従業員だった。
真吾がぼんやり立っていると、ラファエルは苛々したように言った。
「もう一度、聞く。桜田真吾。お前がこの町の責任者なんだろうな」
「いえ、違いますッ」
真吾は直立して言った。緊張して、腹から声をだしてしまったのは軍隊時代を思い出してしまったからだった。どうもこの大天使には尊大さがありすぎる。それで真吾もついそのような口調になってしまう。
「違うだと」
天使の柳眉が逆立った。どうやら、この天使はせっかちな性格らしかった。真吾は敏感に相手の波動を感じ、(なるほどなぁ)とひそかに思う。
(昔の上官にもこういうやつが何人もいたなあ。一階級上は朕の命令――おいらもそんなふうに信じていたけど、上官てやつは偉そうにしているのが仕事だから、きっとこれで当たり前なんだ。それにしても霊界の大天使もあの兵長や上等兵と同じだなんて、知らなかった。この人もこれで、色々大変なんだろうなあ……)
過去のあれこれを思い出し、この管理職の天使に同情するように思う。
「桜田、真吾」
天使は怒った声をだした。天使には真吾の心の言葉が聞こえているようだった。
「なら、責任者は誰なんだ。この薄汚れた町のなかでお前の波動が最も高位置にあったから、私はお前を尋ねてきたのだか?」
「え。そうなんですか」
真吾はびっくりして聞き返す。マルコも驚いた顔をした。真吾がマルコに問いかけるような目線を投げかけると、マルコは肩をすくめてみせた。反応の鈍い真吾の態度に、天使の眉間の縦皺がさらに深くなった。
「上から霊視した時はそうだった。だが、話をして、今は確信が持てなくなった。とにかく、誰でもいいから、責任者と話がしたい。お前が責任者でないというなら、その者をここへ連れてこい」
「責任者なんていません」
「え」
「だから、いません。横田四丁目は小さな小さな町です。お役人がいて、住人たちがいる。それだけです」
真吾は真面目に説明した。ラファエルはからかわれていると思ったようで、再びカッとなりかけたが、真吾の霊人の波動に嘘をついている様子がないことに気づき、その怒りを飲み込むような顔つきになった。
「――それだけなのか……?」
確かめるように聞く。真吾は頷いた。
「そうです」
「……」
天使は渋面になった。考え込むように両腕をくみ、押し黙る。それから、真吾とマルコを順番に見比べるように見た。
「決めた」
顔をあげた。天使は自信を取り戻したように豪奢な金髪をふりはらうと、真っ直ぐ真吾を指差した。
「なら、この大天使ラファエルの権限で命ずる。今から貴様がこの町の統括責任者だ。感謝するがいい」
「――へ?」
真吾は間の抜けた声をだした。ラファエルは苛々と言った。
「頭の鈍いやつだな。本当は他の者がいいが、お前がやっぱりここでは一番、高位置のようだから仕方がない。と言うか、お前は多少、ぼんやりしているが、なかなか善い霊人だ。そのお前がなぜこの低い霊界にとどまっているのかが不思議だがな。ふむ。お前、もしかして怨霊つきか――なるほど……」
天使はひとりで納得したように呟いた。そして優雅に翼を動かして空からおりてくると、二人の前に立った。
「今後のことだが、この町はやがて地獄に吸収されるだろう。もともとこの地はほとんど地獄と繋がっている層の薄い部分だ。だから、ちょっと突き上げられただけで、今回のように、たやすく裂ける」
天使の言葉を聞いて、真吾とマルコは顔を見合わせた。そのことは彼ら自身でも話し合っていた内容だった。
「それでこれから町に残った住民を仕分けしなければならない。地獄へ行かせる者、他の中間霊界に移住させる者。判定はこれまでの各々のポイント数による。ポイントが低ければ地獄に行く。高ければ中間霊界に踏みとどまる。わかりやすいだろう」
真吾はぎこちなく頷いた。
とっさに佐吉の顔が浮かぶ。佐吉は天使たちに悪魔の竜が撃退されことで、横田四丁目が助かったと信じて喜んでいる。今頃は仲間たちと祝杯をくみかわしているだろう。その宴会には真吾も呼ばれていて、この後、マルコと一緒に顔をだすつもりだった。
天使は真吾の頭によぎった想念を読み取ったようだが、それを無視するように続けた。
「桜田。お前の役目はその判定の結果を住人ひとりひとりに伝え、すみやかに新しい霊界へ移動させることだ。わかったか」
「そ、それは――あの」
真吾は言いよどんだ。天使が真吾に冷たい目をくれる。真吾は唇を噛みしめると、思い切ったように言った。
「待ってください。地獄に行く人はどれくらいいるんですか」
「そんなことを聞いてどうする」
「おいらの、おいらの友人がたくさんいます。そいつらは……今、とても喜んでいます。四丁目が助かったと信じて。それなのに――」
天使は真吾の言葉を遮るように、片手を振った。
「この状況で喜んでいるほうがおかしい。なぜその者たちはこの町の危機的状況がわからない? それはそれを理解するだけの能力がないからだ。それならそれで幸せだというものだ。お前が心配せずとも、彼らは地獄へ行っても楽しく暮らしてゆけるだろう。では、仕事にとりかかれ。詳細は役人に伝えておこう」
天使は翼を広げた。話を終えて宙に舞い上がるつもりなのだと知って、真吾は引き止めるように怒鳴った。
「おいらの質問に答えてない! この馬鹿天使! 四丁目から他の中間霊界に残れるやつはどれくらいいるんだっ」
「ちょっと真吾」
マルコが止める間もなかった。
真吾は天使の尊大な態度には何も感じなかったが、今の言葉は我慢が出来なかった。地獄へ行って嬉しい霊人などいない。霊人たちは地獄を恐れ、日々を真面目に働き、少しでもポイントを稼ぎ、今より暮らしやすい霊界へあがることを夢見ている。
その真吾を含めた霊人たちのささやかな夢を天使は踏みにじった。真吾が怒りをこめた目で睨みつけると、天使は意外なことに怒らなかった。
「なるほど。それは確かにこちらが非礼だった」
素直に謝る。
「お前たちにとってそのことが私たちが思う以上に重要なことであることを失念していた。こういう仕事ばかりしているので、つい事務的になってしまったのも謝ろう」
「…………」
真吾は驚いて天使を見た。この天使は言葉遣いは冷淡だが、意外と悪いやつではないのかもしれないと思いはじめる。それから、(あ。天使なんだから当たり前か)と思いなおす。
(一応、おてんとさんの御使いだからなぁ。善い存在なわけだし)
なるほど、と納得する真吾の横で、天使が「聞こえているぞ」と不機嫌な声を出す。
「お前の想念はさっきから筒抜けだ、桜田真吾。少しは口を慎め。このラファエルに向かって無礼なやつだ」
「すみません。でも、本当に教えてください。四丁目が地獄に吸収されて、残された住人たちはどれくらい他の中間霊界へ行けるんでしょうか」
真吾が聞くと、天使は憐れむような目をくれた。
「ならば、事実を告げよう。そうだな――お前とそこの少年。それから一人、二人だけだ。他は全て地獄へ行く」
「そんなに少ないんですか」
「そうだ」
美貌の天使は頷いた。予想はしていたことだったが、真吾はショックを受けて後ずさった。よろめきかけた真吾の背中をマルコがささえる。天使は仲間のために本気で青ざめてしまった真吾を興味深そうに見つめた。
「お前は仲間たちの行く末が心配なのか」
「当たり前です」
「なぜ。たまたま同じ霊界で暮らしている、ただの他人だろう? 中間霊界最下層のこの町の住人なら、霊人のレベルが低くて、善行より、むしろ悪行のほうが多い。仲間たちがお前に何か利益をもたらしているとは思えないがな」
「利益とか――そんなんじゃない。仲間なんだ。あいつらはこの町でしか暮らせない」
天使は「ふむ」と言って、真吾を見た。その目には今までとは違う光があった。
「なら、この町を地獄に落とさずにすむ方法に協力してみるか?」
「そんな方法、あるんですか!」
真吾は叫ぶように言った。天使は顎をひいた。
「ある。だが、簡単ではない。お前が私たちの仕事の手助けをするのだ。地上におりて、子孫の善行を集めてくる。地上からの助けがあれば、その効果は絶大だ。お前たちが霊界で働いて稼ぐポイントの数万倍ものポイントが一気に与えられる。どうだ、やってみるか?」
天使は試すように言った。