第1章------(4)
アフターワールドは戦争状態である。
知識としては、アフターワールドで暮らす全霊人たちはそのことを知っている。けれども、その前線の詳細を知る者はほとんどいなかった。誰もが、霊界のどこかで天使軍とサタン軍の戦いが繰り広げられていることを知りながら、それを遠い国の出来事のように感じていた。
真吾たちも同様だった。
中間霊界最下層にいる彼らにとって、まず優先させなければならないのが、この霊界で生き抜くことだった。労働をして、日々の糧を得て、ささやかな幸せをつかむ。それだけが彼らの生きる目的であり、全てだった。
だから、突然、横田四丁目が戦場になったことは、彼らにとって受け入れがたいことだった。だが、悪魔の竜が地獄に去った後の四丁目の様子を見て、彼らはあらためて霊界は戦争状態であることを知ったのである。
「こんな……」
真吾は変わり果てた自分の畑を眺めて、呆然と言った。
パステルカラーの畑もその空も灰色になっている。全ての木々は枯れきっていて、鮮やかな色をした葉も瑞々しく実っていた桃も無残に地に落ちていた。真吾は一本の桃の木のそばに立って、膝をついた。根元の土を掴んで、手のひらから落とす。渇ききって、重みを失ってしまった土は、指の間から霧散するように落ちていった。
「土じゃない――まるで灰だ」
手のひらに残った小石を指ですりつぶすようにすると、瞬く間に崩れていった。
「この土には命のかけらもない。何もない。おいらが作ってきたものが、全部なくなってしまった……」
だが、それは真吾の畑だけではなかった。横田四丁目全体が、灰色の町となってしまっている。
「たった数時間で変わってしまった。ついさっきまでいつもどおりの四丁目だったんだ。それがこんなにあっけなく――」
戦争は生活の全てを焼きはらい、奪いとる。
生前、二つの大きな世界大戦を経験している真吾はそのことを身に染みて理解していた。だが、霊界に来て、なぜかそこで行われている戦争と自分は無縁であると信じこんでしまっていた。
「おいらは……どうすればいいんだろう」
元のような元気な畑を作る気力はなかった。いや、たとえ気力をふりしぼって、再び頑張ろうと決意したところで、真吾ひとりの力だけでは到底、それは不可能だったろう。横田四丁目そのものの土地の力が失われているのだから。
「戦争かあ」
かれは呟いた。
真吾の黒い小さな目には遠くを見つめるような光があった。かれは、ぼさぼさの髪を乱暴にかきあげ、農作業でよごれた両手をあわせた。天に向かって、神妙な面持ちで頭をさげる。
「おてんとさん。竜にくわれて地獄につれてゆかれた仲間たちが、少しでも地獄で楽に暮らせますように。この世界がなんで戦争しているのかよくわかりませんが、この戦争が早く――終わりますように。お願いします。本当に……」
霊界の戦争の歴史は長い。
その戦争は既にリアルでの年月で換算して、二十万年近く続いている。その当時から天国からおとされた堕天使たちが地獄の版図を広げようとして、あちこちの中間霊界に攻撃をしかけてきている。天使軍はそれを防ごうとする。それがこのアフターワールドでの戦争のあらましだった。
天使は自分たちから地獄へ攻撃しない。攻撃された時だけ、防戦する。その天使軍が横田四丁目に現れたということは、四丁目が地獄から攻撃されたということだ。また、四丁目自体に堕天使たちの標的になる何かしらの要因があったということになる。
変わり果てた畑を眺めていた真吾はようやく立ち上がって、思いをふりきるように歩きだした。
「四丁目は地獄に吸収されてしまうのかな」
かれは独り言のように呟いた。
今回は幸運にも、天使たちによって悪魔の竜を退散させることができた。下から突き破られた地面の大穴も塞ぐことができた。先ほど慌しくやってきた役人の話によると、四丁目は今、何とか中間霊界にとどまっているということだった。
四丁目の住人たちはもろ手をあげて喜んだ。けれども、真吾はそのことを手放しで喜ぶことは出来なかった。
なぜなら、土地が復活していない。
四丁目は変わり果てた姿のままである。
それを元の土地に戻すためのポイントなど、四丁目の貧しい住民たちは誰ひとり持っていないのである。
四丁目がなんとか中間霊界にとどまっているのは、天使たちがまとう強烈な光のオーラの影響に他ならない。そして天使たちは仕事を終えたら去ってしまう。そうしたら、四丁目を中間霊界にとどまらせるだけの条件はないのである。
だから、もう、横田四丁目は再び悪魔の竜に攻撃されなくても、その後はみずから地獄に吸い寄せられてしまうのではないかと、真吾は危ぶんでいた。
「やっぱり、ここにいましたか」
声がして、振り返ると、マルコが隣に立っていた。ベアトリーチェの姿はない。真吾が問いかける前にマルコのほうから言った。
「妹はシェルターに置いてきました。まだ、本当に安全になったのかわかりませんから」
「そうだな。おいらも、あの子はシェルターにいたほうがいいと思う」
真吾は低い声で言った。真吾の霊人の波動を感じて、マルコは困惑した表情になった。
「じゃ、真吾もそうしたほうが良いと思うんですね」
「ああ」
真吾は頷く。すべてを言葉に現さなくても、マルコは真吾の不安の真意を正確に読み取ることができる。
「復興は無理ですか」
「わからん。でも、難しいだろう。援助がなければ――おいらたちだけの力じゃ無理だな」
真吾は正直に言った。マルコが嘆息する。
「ですね」
二人は遠くの空を眺めるようにした。
空がゆっくり黒ずみはじめている。それが夕焼けなのだろう。今までなら、真吾の畑のあたりは鮮やかな絵の具を落としたような壮大な夕焼けが繰り広げられた。だが、それが今は真っ黒だ。
いや、黒とはいえ、色彩があるだけ、マシだった。四丁目の他の場所はそれすらなかった。マルコはくやしそうに唇を噛んだ。
「四丁目の暮らしは気に入っていたのですが、これで終わりですか。僕たち、全員、地獄行きなのかな」
「お前たちは大丈夫だ」と真吾。
「かなりポイントを溜めているだろう? それで他の中間霊界に入れてもらえ」
「でも、それじゃあ、真吾と永遠の別れになってしまいます」
マルコは泣きそうな顔になった。真吾は首を横に振った。
「大丈夫だ、いつかきっと会える。お互いがそう念じていたらな。霊界は永遠なんだろう? だったら、その永遠のうちのどこかで会えるさ。おいらはこのまま四丁目から離れられなくて、地獄に行くことになるだろうけどなあ」
「……」
マルコはうつむいたきり、答えなかった。真吾はマルコの細い肩をかるく叩き、歩きはじめた。マルコも後を歩きはじめた。そうしながら、真吾は考えていた。
(おいらは地獄に行く)
ほとんど、それは確信に近い思いだった。考えただけで、身震いする。
地獄は恐ろしい。
そこに住む霊人たちは自分のことしか考えていない。いつも飢えていて、空腹を満たすために歩きまわるが、地獄には食物がない。それでわずかな食物を奪い合うのだが、彼らは食べても食べても腹が満たされることはない。地獄の食糧は、一見、どんなご馳走に見えても、少しも腹にたまらないのだ。
また、行動の自由が中間霊界にくらべて極度に少なく、霊人のなかにたまった不平や不満が膿みのように噴出し続ける。その状態で永遠に生きなければならないことは、霊人たちにとって恐ろしい苦痛だった。
(地獄でも畑は作れるのかな……何も実らなそうだけど)
横田四丁目では朗らかに生きてきた真吾だったが、真吾にもリアルでの恨みはある。不幸が多かった人生を恨んだこともある。自分を裏切った相手を殺してやりたいと思った瞬間がある。
最終的に、かれは直面した全ての困難を乗り越えた。かれはリアルでの人生を本当に満足して、また感謝して受け入れたが、一時、若い頃はそうではなかった。
霊界の法は厳格だ。
真吾は自分のリアルでの人生のなかで、ほんのわずかでも恨みが残っていれば、地獄でその恨みが爆発的に大きくなることを知っていた。
(おいらは、本当にもうお幸のことを恨んでないのか?)
わからなかった。
だが、その女のことを思い出そうとすると、胸が痛い。
その胸の痛みが相手の女に心から同情しての痛みなのか、それとも真吾の自己中心的な思いによる傷みなのかが、わからなかった。もし、真吾のなかに僅かな恨みが残っていて、地獄に落ちて、あの瞬間の身を裂かれるような憎悪の気持ちを永遠に持ち続けなければならないのだとしたら――
そこまで考えて、真吾はため息をついた。
「おい。お前がこの町の責任者か」
突然、上空から声が降って来た。真吾とマルコはびっくりして上を向いた。白い大きな翼をひろげた天使が空中に立っている。
真吾は目を疑った。一目でその天使が上級天使であることがわかる。破壊された四丁目の後片付けにあたっている天使たちとは違う、白銀の炎のように燃え盛る美しい髪を持っている。
そしてその美貌。
天使は性別を持っていない。男でも女でもない天使は誰もが美しい姿形をしていたが、目の前の天使の美しさは格段と凄みがあった。天使は顔にかかった金髪を無造作にかきあげると、ふたりを見下ろしたまま宣言するように言った。
「私は大天使ラファエル。今回は大変だったそうだな。至急、この町の責任者に会いたいのだが、お前でいいのだろうな。桜田真吾」
「お、おいら……?」
真吾はきょとんとなった。