第1章------(3)
突然だった。空が真っ黒な雲に覆われたかと思うと、稲妻が光った。大地は不気味に揺れ続け、不穏な予感をしきりに感じさせる。横田四丁目の住人たちがあちこちの家屋から飛び出してきて、騒ぎはじめた。
「これは……」
真吾はうめくように言った。
「おいらの畑が」
真吾の桃畑は今、全ての色彩を失い、灰色になっていた。かつての美しさは見る影もない。丹精こめて作った桃は腐りはてて地面に落ちて、若々しかった木も痩せほそり、針金のようになっていた。
変化は桃畑だけではなかった。四丁目全体が黒い雲が現われる前とは全く違う様相をていしてきていた。
「待てよ。こりゃあ――いくらここが不思議だらけのへんてこな世界だとしたって、こんなことあり得ないぞ。誰か、役人を連れてこい。どういうことか説明させろ」
佐吉も蒼白になりながら言う。その途端だった。役人が空中からにゅっと頭だけ出した。真吾たち四人はそのこと自体には驚かなかった。霊人である彼らはそうした現れかたをすることはいつでもできる。ただ、この不躾な現われかたは相手を驚かせてしまうので、通常はあまりしない。
「私たちだってわかりません! 我々は何も聞いていない。でも空気が動いている。霊界が変動しています。避難を。シェルターへ」
年若い姿をした役人はよほど慌てていたのだろう。首から上だけをだした姿だったが、本人はそのことに気づいていない様子だった。
「私も急いでいます。何かわかったらお知らせします。ああ、上司が召集をかけてる。では、これで」
言うなり、空中へ消える。その場に残された真吾と佐吉、マルコとベアトリーチェは顔を見合わせた。佐吉は低い声で言った。
「やばいぞ。これは本当の緊急事態だ。役人が何も知らされてないなんてな」
「……そうみたいですね」
「とりあえず皆でシェルターへ向かおう」
真吾は言った。他の三人も頷いた。
緊急避難用のシェルターは横田四丁目のはずれにあった。だが、真吾の記憶によれば、そこは一度も使われたことがなかったはずだった。
そもそも普段、人々はシェルターがあることすら忘れている。
なぜなら、平時、シェルターは堅く閉ざされ、その入り口さえどこにあるかわからないように隠されている。だから人々は、霊界の全ての町がそうであるように、この横田四丁目にも避難用シェルターが備えつけられていることを知識として知ってはいても、その形状や大きさ、正確な位置などは知らなかった。
「シェルターってどこにあるの?」
ベアトリーチェが至極当然な質問をした。マルコはわきあがる恐怖を押さえつけるようにして、妹に言った。
「四丁目のはずれだ。行けば、多分、わかるよ。今はシェルターの入り口は開いているはずだから」
「はずれって、どこだよ」
佐吉が焦ったように聞く。マルコは視線をさまよわせた。
「それは――はずれは、はずれですよ……人のあまり住んでいない――」
「そんなことはわかってる。だからそれがどこかって聞いてるんだよっ」
佐吉が不安に耐え切れなくなったように叫んだ。その佐吉の肩を真吾が掴んだ。
「大丈夫だ、落ち着け」
落ち着いた声音に三人は、はっとなる。 真吾は頷きかけるようにしながら佐吉とマルコ、ベアトリーチェを見た。
「お前たち忘れてないか? ここは霊界だ。死後の世界なんだ。リアルみたいに、どんな時でも自分の足で歩いていかなくちゃ目的地に着かないわけじゃない。心に念じれは、行ける。お役人はシェルターに逃げろと言ったんだ。だったら、そこへの道は開かれているはずだ」
「そ、そうか。そうだな」
気を取り直したように佐吉が言う。マルコもいくぶんほっとしたように頷いた。
「そうでした。ベアトリーチェ、手を結ぼう。手を貸してごらん」
「はい。兄さま」
ベアトリーチェが片手をさしだすと、マルコは妹の手をとった。
「僕たちは先に行ってますよ。あまり長くここにいると妹が怖がりますから。失礼」
と言って、鮮やかに姿を消す。佐吉が「おい、俺も連れてゆけ」と叫んだが、その言葉を言い終わらないうちに二人の姿は消えていた。佐吉は口をとがらせた。
「あいつめ。さっさと逃げやがったな。俺たちも連れて行ってくれていいものなのに」
「それだとマルコの負担が大きすぎるよ。ちなみに、おいらは自分ひとりの体だけなら何とか運べるけどな」
真吾が言うと、佐吉は泣きそうな顔になった。
「おい、まさかお前まで俺を置いてくつもりじゃないだろうな」
生命ポイントが低い佐吉はマルコのように瞬時に移動することができない。生命ポイントが低いのは佐吉が普段から仕事をさぼりがちであるためだったが、真吾はそのことには触れず、仕方なさそうに笑った。
「一緒に走ってゆこう。それならいいだろ?」
「ああ」
佐吉は大きく首を縦に振る。真吾は目を閉じて、霊人の波動をとぎすませてシェルターの位置を確認すると、佐吉を振り返った。
「向こうだ。行こう」
「わ、わかった」
真吾のようにシェルターの位置を感じとることができない佐吉は頷くことしかできない。とにかく二人は走り出した。瞬間移動ができなくても、走ることなら佐吉もできる。彼らは真っ黒な空におおわれた横田四丁目の細い道をひた走りに走った。
だが、民家の密集する四丁目の中心部を突っ切ろうとした時だった。それまで小刻みだった揺れが急激に大きくなり、体を支えて立つことすら難しくなってきた。
「し、真吾。待ってくれ……」
佐吉が転び、真吾が手を貸そうとする。その真吾も体をぐらつかせ、地面に尻餅をついた。
「わわ、わわわ――」
佐吉があんぐり口を開けた。
「なんてこった」
その声音には絶望の響きが混ざっていた。
大地が不気味にめくれあがっている。めくれあがった地面はどんどん高くなって、小山のようになったかと思うと、ぱくりと裂けた。その裂けたところから、凄まじい腐臭が舞いこんで来、いくつもの黒い不吉な影が飛び出してきた。
「あれは――」
「悪魔の竜だ」
真吾は呆然と言った。
先ほどから足の下から聞こえていた、唸り声のような鳴き声だった。
悪魔の竜とは、地獄を管轄する堕天使たちに仕える生き物で、炎のような真っ赤な目と堅いうろこにおおわれた黒い巨体を持っている。アフターワールドの霊人たちの間では恐怖の対象として知られている。
その竜が凄まじい咆哮をあげながら、何頭も、横田四丁目の空を飛んでいた。
「ど……どうしよう――もう、無理だ」
佐吉は恐怖に震えながら言った。真吾も、もう無理に揺れに逆らって立ち上がろうとはしなかった。
「悪魔の竜が出たってことは、とうとう、四丁目は地獄に併合されてしまうんだ」
そのことをはっきり感じる。
それがなぜ、今、起こったのかはわからない。つい先ほどまではそんなことは微塵も感じさせない、いつもどおりの横田四丁目だった。けれども、今は違う。四丁目が地獄に併合されれば、真吾たちもいずれ地獄へ落ちてゆくようになるだろう。彼らは四丁目以外に霊界で生きる場所を見つけられなかったのだから。
「あそこ、人が――」
佐吉は震え上がった。
竜の口に何人かの霊人がくわえられていた。勿論、それは四丁目の住人たちだった。佐吉や真吾の顔見知りたちで、彼らは竜にくわえられたまま、泣き叫んでいた。
「やめろー。連れてゆかないでくれッ」
「地獄には行きたくない。勘弁してくれぇ」
だが、竜は容赦なく巨体をうねらせ、下へ降りてゆく。下とは、つまり、四丁目の大地に空けられた大穴の下――つまり、地獄だった。
「わぁぁぁッ」
仲間の悲鳴を聞きながら、真吾は必死でシェルターの位置を確認しようとした。シェルターの入り口はまだ開かれている。だが、四丁目の変動があまりに大きくなったら、入り口は閉ざされてしまうかもしれない。
「佐吉。よく聞け、シェルターはあっちだ。走るぞ。後ろを振り返るな。止まったら、置いてゆくぞ」
「ああ」
佐吉は短く答えた。
彼らは必死で走った。もう、上空を旋廻する悪魔の竜を仰ぎ見ることはしなかった。だが、竜たちが増えるにつれ、ふたりの足は地面にどんどんめりこみはじめた。体に圧倒的な重さを感じ、走っていた足が遅くなり、やがて前に一歩を踏み出すだけでも渾身の力を必要とするようになった。
「もう、走れねえ。前に進めない」
「しっかりしろ、佐吉ッ」
立っていることができず、両手をついてしまった佐吉を真吾が引っ張り上げようとする。やはりポイントの低い佐吉のほうが真吾より早く動けなくなってしまったようだった。
「俺は――一足先に地獄に行ってるよ……」
「諦めるな、佐吉!」
「今からでもお前だけでも逃げてくれ。お前だけなら、まだ、飛べるだろう? シェルターに……そこでしばらく匿ってもらえ。運が良かったら、中間霊界のどこかにとどまれるかもしれねぇ」
「ばか、諦めるな」
真吾は必死に言う。佐吉は青ざめた顔で、あらためて感心したように言った。
「お前は、本当に、いいやつだなあ。俺はお前の畑が好きだったよ。行けよ、さっさと。もう、いいから」
「そんなこと言うな。お前も一緒に逃げるんだ。それにどのみち――おいらにももう飛ぶ力は残ってないんだ。走っているうちにどんどん力を吸い取られてしまって、おいらも、もう……」
真吾は半泣きになって笑った。佐吉は絶句したように友人を見た。
「それは悪かったなあ。俺のせいか。俺のせいでお前まで地獄に行かせることになるなんて、すまなかった」
「お前のせいじゃないっ」
真吾は叫んだ。
その時だった。信じられないことが起こった。
黒い雲の向こうから白い光の一群がやって来た。翼のついた白馬に騎乗している騎士たちが見える。
「あれは……」
真吾は目を見張った。
その威厳のある、煌びやかな姿を見たことは、過去に一度だけある。それは何かの祭典で、地獄以外の全霊界の空が特別にひらけた時だった。その時、白い姿をした彼らは、はるか上空のパラダイスで祝いの舞いを披露していた。
「あれは天の御使い、天使たちだ」
式典の時とは違い、天使たちは武装していた。誰もが凛々しく、美しい姿形をしている。そのなかの数騎が横田四丁目の空に駆け下りてきて、弓矢を引いた。天使の弓矢が勢いよく悪魔の竜の太い首に突き刺さる。竜は絶叫をあげて、空中で悶絶しはじめた。
「――俺たち、助かるかもしれねえぞ……」
佐吉がわななくように言った。
(2018年1月31日改稿)