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第2章------(7)



 男は、切り立った岩山の頂にいた。


 修験者の装束に身をつつみ、目を閉じ、静かな表情で佇んでいる。そのまわりには侵しがたい静謐があった。自らを悠久の自然の一部として認識し、そのなかに溶け込み、大地の鼓動にあわせるように呼吸している。


「あのう」


 佐吉が声をかけようとするのを真吾が「待て」と止めた。佐吉が振り向いた。


「何でだよ」


「今はやめたほうがいい。瞑想中みたいだ」


 と真吾。佐吉は聞き返した。


「瞑想中?」


「うん」


 白い、老いたカモシカがゆったりした足取りで修験者に近づいてゆく。その姿を眺めながら、真吾は言った。


「あの人の霊人はあそこにあるけど、今、その中味はどこかに出かけているよ。帰ってくるのを待ったほうがいい」


「……苦労して、やっとたどり着いたっていうのに悠長だな。あんなの、ただ目を瞑って、立ってるだけじゃないか」


 佐吉は不満そうだった。真吾は肩をすくめた。


「まあまあ。どうせここまで待ったんだ。あと少しくらい待ったって、いいじゃないか。ほら、今のうちに、おいらたちは朝飯でも食べようよ」


 カモシカは修験者のすぐ隣で前足を折り曲げ、億劫そうに腰をおろす。そのまま、修験者の邪魔をしないよう気遣うように鼻先を地面につけて、自らも瞼を閉ざした。


 その様子を真吾は感心したように眺め、空中から鍋をとりだした。続いて、水と少しばかりの白米、それからしなびた野菜クズをとりだすことに成功した。


「お。今日は豪華だな」佐吉が明るい声を出した。真吾も驚いて言う。


「本当だ。白い米が出てきた。野菜も――」


 真吾のレベルでは珍しいことだった。普段はどんなに念じても、食料とも呼べない、かろうじて口に入るものしか出てこない。だが、今朝は野菜粥を作れそうだった。佐吉は空腹を刺激されて、唾を飲み込んだ。


「肉も欲しいな……ニワトリの肉でいいから」


「調子に乗るなったら。無理に決まってんだろ」


 真吾は笑った。だが、次の瞬間だった。真吾の右手に肉のかけらが乗っていた。


「え」


 二人は同時に声をあげた。


「肉だ!」


 佐吉は叫んだ。真吾は自分の右手をぎょっと見つめた。


「違う、おいらじゃない。おいら、まだ念じてない。だいたいこれは本当に鶏肉なのか――もっと違う別の肉だとか……」


「いいじゃないか、そんなこと。さっさとその肉、鍋に入れろよ」


 佐吉は気にせず真吾の手から肉をとると、鍋のなかに放り込んだ。そして、その肉がまた何かの魔法で消えてしまう前にと焦るように、すばやく火をつけ、鍋に蓋をする。幸い肉は消えなかった。しばらくすると野菜と肉の良い匂いが漂いはじめた。佐吉と真吾は互いの顔を見た。


「うまそうだぞ」


「うん……」


「たまらねぇ」


 佐吉はもう我慢できないといったように、粗末な椀に鍋の中身をとりわける。


「うまいっ! お前も食べてみろよ!」


 佐吉は言った。真吾もおそるおそる自分の椀に鼻を近づけた。何ともいえない良い匂いが鼻腔をくすぐる。一口、汁をすすると、生命そのもののような、心地良い熱が体中にしみこんできた。


「……美味しい」


 材料を鍋に入れただけで、何の味付けもしてなかったが、野菜や肉のエキスがちょうど良い具合に混ざり合い、絶妙な味を作り出している。実際、老婆の家でふるまわれた粥よりも、うまかった。


 真吾は夢中になって粥を食べた。


 だが、腑に落ちなかった。


 真吾たちは霊界の管理局で決められた労働をしたわけではない。それなのに、自分の霊力だけで、このような立派な食事を作ることなど、出来るはずがないのだ。いや、以前、横田四丁目の管理局から貰いうけていた食事だって、これほど美味くなかった。


 そこに、野太い声がかけられた。


「それは、この聖域の恩恵によるものなのだ」


 人の気配をまるで感じなかった真吾と佐吉は「ひゃっ」と驚いた。修験者だった。修験者が真吾と佐吉を見下ろしている。いかつい輪郭の、不精髭だらけの顔のなかで、人なつっこそうな目が笑っている。修験者はふたりの間に座った。


「どれ。わしも相伴にあずかろうか。馳走してくれるだろうな」


「え――あ。はい」


 真吾は居ずまいを正した。それを相手は片手で制した。


「いい、いい。くつろいでくれ。馳走になるのは、こちらのほうだ」


「でも。あ、そうだ」


 真吾は老婆から預かったものがあったことを思い出して、荷物を探った。


「ちょっと待ってください。おいたらたちはこれを渡しに来たんです。この山の下に住むお婆さんからです」


「おう。すまんな」


 修験者は風呂敷包みを受け取ると、中を開いた。竹の葉でくるまれた握り飯が出てくる。だが、修験者はそれを食べることはせず、無造作に宙へ放り投げた。すると、握り飯がパッとはじけて、修験者の手にしていた錫杖の先端の輪がひとつだけ増えた。


「え……」


 真吾は目を丸くした。修験者は苦笑して、説明した。


「あれはわしの食料ではないのだよ。あれはむしろ、あの老婆を助けるためのものなのだ。こうやってわしのために握り飯を作り、届けることで、あの老婆はこの霊界で暮らしてゆける。だが、今回は自分でお山を登らずお前たちに運ばせたので、その価値は輪一つ分でしかなかったということだな」


「……」


 真吾と佐吉は顔を見合わせた。


 彼らも霊界の住人だ。修験者が言わんとしていることは理解できる。だが、わかるようで、今ひとつわからない部分もある。真吾は確かめるように聞いた。


「それはつまり、おいらたちが、その、管理局のお役人から仕事をもらって、毎日働いていたのと同じようなこと……ですか?」


「まあ、そうだ」


「あなたはお役人なんですか」


「それは違う」


 修験者は言った。かれは真吾から椀を受け取ると、中味をすすった。


「よい味だ」


「有り難うございます」真吾は言った。それから、思い切ったように聞いた。


「あの、お婆さんはあなたがこの霊界の長だと言ってました。それは、あなたがこの霊界を作った霊人だということですか」


「まあ、そうとも言える」


 修験者は曖昧な言い方をした。佐吉が問い詰めるように言う。


「おっさん、どういう意味だよ」


「おい、待てったら」


 真吾は佐吉を止め、精神を集中させて、修験者をあらためて観察する。修験者から、菊音の波動は感じられない。全く別の霊人だ。


「おいらたちは、この霊界は菊音さんという人が作った霊界だと思ってました」


「なぜそう思った」


 修験者が低い声で聞く。真吾は少し黙って、それから言った。


「菊音さんの波動を追って、この霊界までたどり着いたからです。菊音さんは本来の自分の霊界の家はずっと留守にしていて、地上での仕事も放棄したままです。この霊界は菊音さんが作った個人霊界だと聞いてます」


「誰に聞いた」


「大天使ラファエル様」


 修験者は椀の中身を食べ終わると、真吾を正面から見た。人懐っこく輝いていた目がにわかに鋭い眼光を放っている。修験者は言った。


「なるほど。菊音はまた天使に迷惑をかけてるということか」


「菊音さんを知っているんですか」


 真吾が聞くと、修験者は眉間に深い縦皺を刻みながら、頷いた。


「知っている。あれは俺の娘だ」


「えぇ?」


 真吾と佐吉は頓狂な声をあげた。





「やれやれ。仕方ないな。口で話すのは億劫だから、情報だけ送るぞ」


 修験者は息をつくと、ごつい手を差し出し、真吾の手をとった。そして、彼らが地上界で生きた当時の様々な事柄とともに、霊界に来てからのあれこれの膨大な情報を真吾に送りこんできた。瞬間、雷に打たれたような衝撃が駆け抜ける。真吾は「わっ」と叫び、尻餅をついた。


 真吾は呆然として修験者を見た。


「え……と。おいら――」


「少し待て。混乱しているだけだ。じきに頭のなかに綺麗におさまるだろう。我が一族は京の貴族だった。貴族といっても下のほうの、貧乏貴族だったがな」


 修験者は真吾の頭のなかの情報が落ち着くのを待ちながら、かいつまんで言った。


「菊音はさる宮家の姫に女房として仕えていた。はじめは数年間の花嫁修業のつもりで家から出したのだが、気がつけば、菊音は生涯をその姫に仕えて過ごした。姫の家は父宮がお亡くなりになってから急に没落してな、宮中に頼る者もなく、また姫に通う公達がいるわけでもなく、その日に食べるものにも事欠くような、酷い有様だったという。俺と妻は何度も菊音に家へ戻るよう促した。だが、菊音は長年仕えた姫を見捨てることができなかったようだ」


「……」


 真吾は少し遅れて頷いた。


 その言葉は、今、まさに修験者が真吾に送ってきた情報の通りだった。


 姫は家が没落したことに耐え切れず、次第に精神的な不調をきたすようになった。言動がおかしくなり、奇行も多くなった。邸に使えていた使用人たちは、一人、また一人と消えて行った。邸に残されていた僅かなたくわえを持ち去って逃げた使用人もいた。


 そして残ったのが、いつも姫に厳しくあたって、姫から最も嫌われていた古参女房の菊音だった。



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