第1章------(11)
「それで、地獄はどうだった」
大天使ラファエルが美しい顔で聞いてきた。真吾は、無事に天使に救出されて、中間霊界に戻ってきたことにホッとしながら、答えた。
「四丁目の友達に会いました」
「そうか」
「与作は以前の与作ではなくなっていた」
「なるほど」
天使は顎をひいた。地獄は堕天使の領域である。パラダイスに住まう天使たちは、地獄へ足を踏み入れることは滅多にない。だが、地獄がどのような場所であるかについては、よく知っているようだった。
「そういうこともあるだろうな」
ラファエルは肩をすくめた。それから真吾に目を向けた。
「こちらのほうは――もう知っているだろうが、とりあえずベリアル軍は追い払った。だが、横田四丁目は消失した。意味はわかるな?」
「はい……」
真吾は言った。地獄を探索して、再び、中間霊界に戻ってきた時、横田四丁目だった霊界はなくなっていた。
もともと、四丁目は一度目の襲来で痛めつけられていた。もう、四丁目そのものに中間霊界として存続するだけの力は残っておらず、地獄に落ちてゆく運命でしかなかった。地獄からの再襲来は、それを少し早めただけに過ぎない。
真吾は瞼を閉じて、開いた。
「わかってます。覚悟は――してました」
かれは渇いた声で言った。
四丁目が地獄に落ちた瞬間、真吾はそのことを感じ取っていた。その瞬間、全身の力が抜けた。そうして、「なるべくしてなるようになった」という妙に納得する思いがわきあがってきた。
失う前は、四丁目を守ろうと必死になっていた。だが、本当に失われてしまうと、かえって、必死だった自分が滑稽に思える。
(結局、四丁目がなくなったって、おいらたちはこのアフターワールドで生きていかなきゃならないんだ……)
住むべき中間霊界を失った真吾は地獄に行くことになるだろう。
けれども、それで終わりではない。地獄に行っても暮らしは続く。真吾たちは永遠に生きていかなければならないのだから。地獄へ落ちるということは、新しいその地で、今より不自由な暮らしをはじめるだけということだ。
そう考えると、やみくもに地獄を恐れていた少し前の自分が愚かに思える。すると、真吾の思念を読んだように、ラファエルが口を開いた。
「お前は地獄へ行かない。以前、私はそう言わなかったか?」
「え――」
真吾は驚いて、顔をあげた。天使は繰り返した。
「地獄へは行かない」
「うそ」
真吾はぽかんとなった。だが、よくよく思い出してみると、確かにラファエルはそのように告げていたような気がする。
確か、真吾が地上の子孫に降臨する前だった。四丁目がはじめに地獄から攻撃された後、事務的で冷たいラファエルの態度に怒った真吾が食ってかかったとき――
横田四丁目の残った住人たちのなかで、わずか数名だけが他の中間霊界に残れると天使は言った。その数名のなかに、なぜか真吾も含まれていた。
「……――」
真吾は黙り込んだ。かれは本気でそのことを忘れていた。いや、頭のどこかでは覚えていたはずだったが、かれにとって仲間の大半が地獄へ落ちるということは、かれ自身が地獄へ落とされるのとほとんど同じ意味だったのだ。
天使のほうも、心底、驚いた顔をした。そうして、小さく噴出した。
「お前」
ラファエルは真吾の思念を読める。天使は真吾が本当に自分自身が地獄に行くつもりになっていたことを知って、呆れたようだった。
「忘れていたのか? いや、本当に――忘れていたんだな。それはわかった。だが、信じられない。普通、お前にとって、お前自身が今後、どうなるかが最も大切なことではないのか」
「まあ、そうだけど……」
真吾は顔を赤くしながら言う。天使は肩を震わせながら、笑い出した。
「面白いやつだな! たまに人間のなかにはどうしようもなく面白いやつがいるが、お前もその一人か」
「……――」
真吾は天使の言葉の意味はわからなかったが、どうやら自分が馬鹿にされているらしいということは感じていた。それで、余計にむすっとなる。大天使はひとしきり笑うと、改めて真吾を見た。その目には以前の冷たさはなかった。
「なるほど。お前の仲間を思う気持ちはよくわかった。お前は自分のことなどすっかり忘れて、仲間たちを助けるためだけに四丁目を救いたかった。それが失われたと知って、自分も仲間たちと一緒に地獄へ行くつもりになってしまっていた」
「まあ、ひらたく言えば、そうですけど」
真吾は天使を睨みつけた。だが、そもそも仲間たちが地獄に行き、自分が中間霊界に残れるということ自体がかれは納得できない。
(おいらだって、地獄に引っ張られるだけの過去はある。おいらと四丁目のやつらとたいした差はない。佐吉たちが地獄に落ちるんだったら、おいらだって落ちるべきだ。与作だってあんなに心のやさしい奴だったのに、地獄に落ちて――)
かれは唇を噛みしめた。
「でも、おいらの考えが読めるんなら、わかってるでしょうけど、不公平です」
「不公平か」
天使は楽しそうに聞き返した。真吾は真面目に頷いた。
「そうです。おいらだって、与作と同じで、リアルの時に強く人を恨んでしまった。おいらはリアルの時に自分のためだけに生きてしまった。だから、霊界でのレベルは低いし、いつも腰が痛い。それに、おいらはあの戦争に参加した――あの戦争で……人を殺した。だから、だから――」
最後のほうの言葉は震えながら言う。天使はいつの間にか真顔に戻って、真吾を見つめた。
「だから、自分には中間霊界に残る資格はないと?」
「そうです。できれば――あのまま四丁目で暮らしたかったけど、仲間たちが地獄に落ちるのにおいらだけ残るなんてことは……」
「お前は生前の自分の罪を自覚しているのだな」
「そんな、たいそうなことじゃないんです。ただ、おいらは……」
真吾はこみあげてきた涙をぬぐった。かれはよく泣く。抑えられない思いにかられた時、涙が勝手に目から噴出してくる。生前もそうだった。悲しくて泣き、怒っても泣き、嬉しくても泣いた。
天使は静かな声で聞いた。
「なら、お前も地獄へ行くか。お前が強く望むのなら、そうはからってやることもできる。ただし、地獄へ行ったら、それぞれのレベルに応じた霊界に属するようになるから、以前の仲間と同じ霊界で暮らせる保障はないがな」
「は、はい。それでいいです」
真吾は腹にぐっと力をこめた。
地獄が恐ろしくないといったら嘘になる。
嘘にはなるが、地上界の子孫に降臨して、四丁目を存続させるためのポイントを稼げなかった真吾はその責任を取らなければならないような気がした。
「……」
天使は興味深そうに真吾を見つめていた。と、その時だった。大天使は何かに気がついたように立ち上がった。空のずっと上のほうを見上げ、それからおもむろに白い翼を折りたたみ、衣をととのえて跪く。
真吾は驚いてラファエルを見た。このプライドの高い大天使が膝をついたのが信じられなかったのだ。ラファエルが膝をつくと、付近にいた他の天使たちも、いっせいに地に膝をつきはじめた。その様子は、一枚の絵画にも似ていた。
ラファエルは厳粛な面持ちになった。瞳を閉じて、遠くから語りかけてくる声に耳をすますようにした。
「――はい。わかりました……我が主。光の君よ」
低く、呟くように言った。
◇
ラファエルが沈黙していた時間は長くはなかった。
次に顔をあげた時、ラファエルは普段の自信に満ちた大天使の顔に戻っていた。かれは立ち上がり、呆然としてる真吾を見下ろす。
「光の君から御言葉をたまわった」
「光の君?」
真吾はきょとんとする。天使は少しだけ苛ついたようだった。天使の真吾を見る目はだいぶんやさしくなっていたが、せっかちな性格は変わらないようである。
「創造主だ。これでわかるか」
「あ。はい――創造主……ええぇ?」
真吾は腰を抜かした。
霊人であるからには、アフターワールドを創造した存在を「創造主」と呼ぶことは知っている。
真吾たちは日頃、その存在を「おてんとさん」と呼んでいた。けれども、真吾にとって「おてんとさん」は地上界に存在する太陽と同じような意味でしかない。その「おてんとさん」と会話できる天使は、やはり天の御使いなのだと感心する。
「そのう……おてんとさんから――何か……?」
おっかなびっくり真吾は聞いた。大天使は美しい顔に眉間を寄せた。
「光の君は、今後、お前を我々の仕事に協力させろと仰せだ。今回のことで、お前は大きな条件をひとつ積んだようだぞ、桜田真吾。それが天に認められて、特別にチャンスをやることになった」
真吾には意味がわからない。かれは渇いた唇を舐めた。
「それは――また、地上に降りて、おいらの子孫に降臨しろってことですか」
「それだけじゃない。今後は正式な天使の僕として働いてもらうことになるだろうから、様々な霊界を行き来することになるだろう」
真吾の顔色は冴えない。天使に協力することが、結果としてかれ自身にどのような恩恵をもたらすのかわからないのだ。天使は言い方を変えた。
「もう一度、横田四丁目を作ってみないか? お前の力で」
「――え……」
「我々の仕事に協力したら、それが叶う。勿論、もとからの横田四丁目を復活させることはできない。だから、新しい、お前自身の横田四丁目を作りなおすのだ」
「な、仲間は?」
真吾が咄嗟に聞く。やはり、自分のことより、仲間を思う気持ちのほうが先に出てくる。そんな真吾の反応を見て、天使は微苦笑した。
「仮の措置になるが、お前が望むなら、地獄行きの仲間をひとりだけ中級霊人にとどめてやっていい。その者にもお前の仕事の手助けをさせろ。それが条件だ。どうだ、受けるか?」
「は、はい!」
真吾はわけがわからないながらも、大きく頷いた。頷くしかなかった。




