第1章------(10)
「与作っ……!」
真吾は叫んだ。与作は薄汚れた、入り組んだ路地をどんどんすすんでゆく。
もともと岩のなかに作られた町だからなのだろう。岩の町は外からの光がいっさい差し込まない。表通りは出店や家々の明かりに照らされていて、それなりに明るかったが、奥へ入れば入るほど真っ暗になっていった。また、進むにつれて、だんだん、妙な臭いがするようになってきた。
(なんだ。この町は)
空気に腐臭が混ざっている。昔、リアルで生きていた頃、戦火で焼けた町にただよっていた空気と似ている。
(まさか、どこかに死体置き場が……?)
ぎくりと思うが、ここは死後の世界であることを思い出す。霊人たちは既に死んでいる。だから、もう一度、死ぬということはあり得ない。
(じゃあ、この臭いは何なんだ)
わけがわからなかった。そして、恐ろしかった。その恐ろしさは、町の奥深くへ入るにつれて、真吾のなかで膨らんでいった。路地の片隅でボロ布を纏い、うずくまっている霊人が何人かいる。それらが真吾をじっと見ていた。
「何か……食べ物を」
「どうかこの子だけでも」
やせ細った赤子を抱いた女もいた。その抱かれた赤子を覗き込んで、真吾は息を飲んだ。赤子は骸骨だった。女の体もあちこちが腐り落ちていて、骨がのぞいている。
「!」
よく見ると、あたりにうろついている霊人の多くが、体のどこかを失っている。腐ってもげた手足を、無事なほうの手で引きずりながら歩いている霊人もいた。
(……――)
腐臭の原因がわかった。この町に住む霊人たち自身からしているのだ。
なぜ、彼らがそのような姿をしているのかはわからない。
横田四丁目では、腐った体を持った霊人などひとりもいなかった。だから、真吾はアフターワールドではそういう霊人は存在しないのだと思っていた。だが、その考えは違ったようだった。
(どうして……)
霊界での姿は、本人が無意識に選ぶものだと聞いている。
本来、霊人たちは、死後の世界に来て、自分がリアルで生きたどの年代の姿形にもなれる。ただし、自分で選んでそうなるのではなく、あくまで無意識に現われるのが、霊界での姿だった。
(あの人たちは、生前、あんな酷い姿になったことがあるんだろうか――)
真吾は震えながら思った。そうして、霊人たちの視線から逃げるように、何とか与作の後姿を追いかけていった。
「なんでっ――逃げるんだ。おいらだよ、真吾だよ。わからないのか……?」
必死に呼びかけるが、与作は足を止めない。
「与作!」
ついに、真吾は与作を見失った。
道が途切れてしまった。路地が突然、行き止まりになり、眼前に高くそびえる岩壁が現われた。その岩の壁には無数の穴があいていて、それがどうやらこのあたりの霊人たちの住居のようだった。
与作はその穴のひとつに逃げ込んだようだった。けれども、そのひとつひとつを探してまわる気力は、もう真吾にはなかった。
「どうして……」
真吾は肩を落とした。
ひとつだけわかることは、与作が真吾を拒否したことだ。そのことは、真吾に大きなショックを与えた。
与作は横田四丁目で夏みかん畑を作っていた。真吾の桃畑を見て、自分も何か作ってみたいと言い出して、見よう見まねで畑仕事をはじめたのだ。何も知らなかった与作に、真吾は一生懸命教えた。だから、真吾は与作を弟のように可愛がっていた。与作は少しひっこみじあんな性格だったが、真吾を慕っていた。
その与作が先日の悪魔の竜の襲来によって、地獄に連れ去られてしまったと知って、真吾はとても落胆したものだった。
「与作っ!」
真吾は暗闇に向かって、叫んだ。
「もう、おいらのこと忘れちまったのか。お前の新しい家がここにあるのか? ここでは、お前は畑をしていないのか? お前の畑を見せてくれ。お前の作ったうまい夏みかん、また、おいらに食わせてくれよう」
声が、岩の壁に響く。真吾はしばらく待ってみたが、与作からは何の応答もなかった。無数の壁の穴から、ざわざわとこの地に住まう霊人たちの気配だけがした。
(……)
真吾は拳を握りしめた。
これほど明確に拒否されているのだから、もう与作と話をすることは諦めるべきなのか。それとも、もう一度だけ、訴えかけるべきなのか。真吾は迷った。
(お前はおいらに会いたくないのか? もう、おいらたちは友達じゃないのか)
認めることは辛かったが、事実なのだから、仕方がない。
真吾は肩を落とし、後ろを向いて、来た道をとぼとぼ歩きはじめた。その時だった。かすかないらえがあった。
(――そうだよ)
相手は伝えてきた。真吾は弾かれたように暗闇を見回した。相手の弱々しい思念が伝えてくる。
(もう、僕たちは友達じゃない……本当は、僕はずっとあんたが嫌いだった。誰ともすぐ友達になって、誰からも好かれて――僕が欲しくてたまらないものをたくさん持っている……僕は、あんたが嫌いだ、真吾)
「え……」
真吾は思わず、声を出した。
「誰だ。今の、まさか、与作――なのか?」
その波動は与作に似ていた。だが、その思念を与作のものだと認めることは、咄嗟に真吾には出来なかった。
なぜなら、横田四丁目では、与作はそんなことを言ったことは一度もなかった。また、与作が真吾を羨んでいるだとか、嫌っているとか、そういう負の感情の波動を見せたこともなかった。だから真吾は、かれが与作に好意を抱いているのと同じように、与作も真吾にたいしてそうなのだと信じていた。
「お前は、誰――だ」
真吾はうろたえた。
相手の波動が揺れた。自分の思念で真吾を傷つけたことを知って、暗い喜びを感じているようだった。相手はそれで力を得たように、少し力強い声となって、真吾に意思をつたえてきた。
(僕は与作だよ。あんたが追いかけてきた、与作だよ。兄ちゃん。――知らなかったのか。そう、僕はあんたが嫌いだよ。大嫌いだ)
「――嘘だ」
真吾はつぶやくように言った。
与作は「嘘じゃない」と言った。真吾はさらに大きな声で「嘘だ」と叫ぶ。
と、真吾の前にふわっと生暖かい空気があらわれたかと思うと、それがもやもやと人の形になった。与作だった。
真吾は凍りついた。
与作は変わり果てた姿をしていた。
姿形は横田四丁目にいた頃と同じだったが、霊人の内面から発する波動が全然、違う。基本的な波動は本人のものであり、間違いなく与作なのだと識別できるが、その他の部分が別人のようだった。真吾は息をのんだ。目の前に現われた、かつての友人を凝視する。
「お前……」
与作は以前と変わらない真吾を見ると、少し寂しそうに、笑ってみせた。
「ほら。驚いただろう? だから会いたくなかったんだ。どうだい、これで満足か」
「……」
「何だよ。何も言えなくなるくらいなら、はじめから放っておけば良かったんだ。なのに、あんたはしつこく追いかけてきて、大騒ぎして、このあたりの霊人たちをたたき起こしてしまった。後で責められるのは、僕なんだよ。いい加減にしてくれないか、お節介真吾」
真吾はなおも凍りついている。かれはまだ目の前の相手が本物の与作だということが受け入れられないのだ。
「ばーか」
与作は暗い目で真吾を見た。
「僕を追いかけてきて、後悔してるね? と言うか、どうしてあんたがこの霊界にいるんだよ。あんたは四丁目に残ったはずだろう? 僕は知ってるんだ。あんたは中級霊人のままで、地獄の住人になってない。よそ者め」
「…………」
真吾は涙を手でぬぐった。
与作が真吾を嫌っているという言葉は本当だ。波動でわかる。今、与作がわざわざ真吾の前にあらわれたのは、真吾の心を傷つけるためだということもよくわかった。
だが、真吾は可愛がっていた与作が自分を傷つけようとしていることも悲しかったが、心やさしかった与作のなかにこんな負の感情があったことがもっと悲しかった。
「おまえの夏みかん――」
真吾が弱々しく言いかける。その声には与作への愛情があふれていた。その波動を感じたのだろう。与作は目を大きく見開くと、わめくように言った。
「みかんなんて、もう、やめた! あんなもの、ここじゃ、何の役にも立たない! ここで食料を集めるのは本当に大変なんだ。いつだって、腹いっぱい食えることなんてない。知ってるか? この霊界では岩を掘って、その岩くずを食べるんだぜ」
「……」
「もちろん、美味いわけない。岩は岩だ。だから、隣のやつの食い物を奪って、なんとか生きのびる。昔、リアルで他人の物を盗んでばかりいた霊人が標的だよ。やつらの持ち物は何でも奪っていいことになっているんだ。どんな物でもなっ……」
吐き捨てるように言うと、与作はにやりと笑った。陰のある、暗い笑顔だった。真吾の目から大粒の涙がぽろぽろこぼれた。
◇
地獄がどんな場所であるかは、知識としては、知っていた。
与作は内気で、心優しい霊人だった。だが、その心にほんの僅かでもリアルの恨みが残っていたら、その恨みがこの地では爆発的に大きくなる。そして当人は――地獄にいる限り――その感情に焼かれ続けなければならない。
おそらく、与作のなかには生前、何らかの鬱屈があったのだろう。
その恨みが誰に対するものであるのか、真吾は知らない。
横田四丁目では現われなかった。だが、地獄に来て、その恨みが増幅された。与作が真吾に向けた敵意は、本質としては、生前の与作を傷つけた、他の誰かに向けられるべき恨みがすり替わってあらわれたものだった。
(与作――)
真吾は思った。かれは、真吾を岩の町から追い出して、暗い、勝ち誇ったような顔で消えていった与作を思い出した。
(あいつは、あんな気持ちを抱えたまま、あの町で生きていくのか)
それはとても苦しいことだと思う。
真吾は与作の苦しみを思い、悲しくなった。
そして、それは真吾にとっても他人事ではなかった。
(おいらだって、地獄の住民になれば、どうなるかわかったもんじゃない……)
はっきり、わかる。
真吾のリアルでの人生のなかにも、恨みは残されていた。そのことを自覚している。四丁目を失って、地獄へ落ちれば、真吾も間違いなく与作と同じような運命を辿ることになるだろう。
(お幸)
かれは、記憶を噛みしめた。
後悔しても、遅かった。霊界では何も変えられない。せめて、もう少し、現実世界で他人のために生きることが出来ていれば霊界でのポイントになったはずだったが、それも真吾にはない。
(地獄はやっぱり恐ろしい場所だ。人の本質が――暴かれる)
かれは思った。
真吾は黒い大地に佇んでいた。
岩の町へ行った後、他の町にも行ってみた。だが、程度の差こそあれ、どこも同じような状態だった。かれは地獄の暗い空を見上げ、天使からの迎えを待ち続けた。




