第1章------(1)
その日、少年は朝の水汲みを終えて、自慢の畑を見渡した。
やさしい、淡い色合いの水色やピンクの土壌に若々しい枝をはった桃の木が植えられている。その桃も色とりどりだった。赤やピンク、紫や茶色、黄色や緑、とても桃の――と言うより、そもそも植物の色合いからかけ離れすぎていたが、全て桃だった。
今のところ害虫被害や病気の気配はない。作物は順調に育っている。このまま次の太陽が中天にあがる頃になれば、まずまずの収穫を得られるだろう。そんなことを考えて、少年は満足そうに頷いた。
「じゃあ、今日も元気に働くかっ……と」
胸で深く呼吸をすると、少年は自分自身に話しかけるように言った。それから汚れた両手をあわせて、天に向かって神妙に頭をさげる。
「今日も良い日になりますように。良い行いをして、他人に親切にして、おいしいおまんま食べられますよーに。おてんとさん、どうかよろしくお願いします」
少年の名前は桜田真吾。
ぼさぼさの黒髪とよく動く黒い目を持った、ちょっと可愛らしい顔立ちの日本人だった。
かれはこの死後の世界で十六歳の姿をしていたが、現実世界では六十四歳まで生きた。だから、本来、かれは六十四歳の初老の男の姿をしているべきだったが、霊界に来て、なぜか十六歳の姿になった。
霊界の役人は「そういうことはよくあるものだ」と言った。人間は死後の世界に来て、自分の生きたどの年代の姿にもなることができる。それは本人が無意識に選ぶことであって、自分自身の意思でなれるものではない。だから真吾が十六歳の姿になったのは霊界においては必然だったのだと。
とにかく、真吾は霊界で若い姿を取り戻していた。
明治三十三年生まれのかれは、現代の同年齢の日本人に比べて、小柄である。だが、かれは今の日本人と違って生命力に溢れていた。いつも前向きでへこたれず、元気いっぱいだ。
真吾は生き生きした表情と屈託ない笑顔をもつ少年で、真吾が笑いかけると誰もがつられて微笑みを返してしまうのが常だった。
それは幼子の無垢な笑顔というより、六十四年の人生を生ききったひとりの男の慈愛の微笑みだった。真吾の人生は苦労が多かった。だが、困難にぶつかるたび真吾はひたむきに、心をねじ曲げることなく、誰を恨むこともなく、感謝して乗り越えてきた。そうして、最期は心から満足して死んだ。
そんな真吾のパステルカラーの桃畑を眺める目には涙があった。
「本当にいつ見ても、おいらの畑は綺麗だなあ」
感嘆するように言った。
◇
生前、真吾は畑仕事をしたことがない。
かれは尋常小学校を出た後、和菓子屋に奉公に入り、和菓子職人の道へ進んだ。母親が元気だった頃、猫の額ほどの庭に広げたささやかな家庭菜園が、真吾の知る畑の全てだった。そのかれがこの世界に来て、桃畑を管理しているのだから不思議なものだと思う。
しかもこの桃畑はかなり個性的だ。
もともと真吾本人が農業の素人だからなのだろうか。この畑にはパステルカラーのピンクや水色、うすい紫やオレンジといった、本来、あり得ない色彩が溢れている。土も木も変わった色合いだったが、変わっていたのは畑だけでなくて、果実によってくる害虫も、透き通る羽根をもった妖精だったりする。妖精が熟した桃をつまみ食いするのである。
実に不思議な畑だったが、桃は育つ。たとえ水色と青の水玉模様の桃であっても、鼻を近づければ甘い香りがし、かじると瑞々しい果肉がこぼれてくる。そしてこれらの桃を育てることが、この世界における真吾の仕事だった。
労働はこの死後の世界で生きてゆくうえで、不可欠な条件だった。
真吾はこの世界に来たはじめの頃、管理局の役人に「どんな仕事をしたいのか」と訊ねられて、
「綺麗なものを育てたい」と答えた。
「なぜ綺麗なものを?」
「今まで汚いものばかり見てきたからさ。おいらは毎日、綺麗なものだけを見て、人様に喜んでもらえるものを作りたい」
「なるほど」
そんなやりとりがあって、こうなった。
もっとも、働かなくても、食べてゆくこと自体はできる。
なぜなら、この世界の住人なら誰でも、念じれば、食料を自分の目の前に魔法のように出すことができるからだ。
ただし真吾の場合、その際に現われる食物は凍ったジャガイモだとか、黒こげてほとんど食べられるところのない目刺しだとか、料理とは言いがたいものばかりだった。
真吾はけして美食家ではなかった。
かれにとって貧しい暮らしは当たり前のことだったし、口に入るものがあるだけでも有り難いと思っている。だから、凍ったジャガイモでも感謝して食べることができたが、粗末な食事はどうしても戦時中を思い出してしまう。
先日も自分で食料を出してみたら、それがサツマイモのつるの葉だったので、とてもイヤな気分になった。
「おいらの人生。いろいろあったが、あの戦争は……きつかったなあ。本当に、もうあんな思いは二度としたくない」
真吾は晩年までそう呟き続けた。
百年前、当時、日本中が狂乱していた。
思想が統一され、大部分の国民は日本が世界を相手にした戦争で勝つと信じきっていた。真吾も召集されて、決死の覚悟で戦地に赴いた。そして、敗戦後の脱力感。あの日、突如として正義だと信じていたものが姿を消し、国中が混乱に陥った。愛国の精神に燃えていた者ほど、その脱力感は大きかった。軍隊は一日で秩序を失い、自殺者が増えた。
「あんな思いはもうたくさんだ。人間は鬼にも悪魔にもなる――戦争は人を滅茶苦茶にする……」
それでかれは霊界に来てからも毎日、勤勉に働く。
働けば労働の達成感が得られるし、管理局から、おいしい、暖かい食事を貰うことができる。また、いくばくかの労働の報酬を受け取ることもできる。
「よいしょっと。お前たちの様子を見せてくれ。今日の調子はどうだ?」
真吾は梯子をかかえてきて、桃の木の脇に置いた。その梯子に登り、枝や葉を愛しそうになでていった。
「うんうん。良い艶だ。きれいな色だ。元気そうだな。お前たち、幸せか? 今、水をたんとやるからな。今日も暑くなるのかな。と言うか、暑くなれよ~。おいらは空気は暑いほうが好きだ」
にこにこと、人に話すように桃に話しかけてゆく。
すると一瞬だけ、桃畑の色合いが濃くなった。真吾のまわりの気温も二、三度、上昇した。だが、それだけだった。桃畑はすぐもとの色に戻り、気温の上昇もそれきりだった。
「ふむん。おいらの力じゃここまでか。まあ、仕方がない」
真吾は顎を撫でた。
「おいらがレベルアップして力を得ることが出来たら、この畑くらいはもうちっと自由に扱えるようになるはずだとお役人は言っていたけど」
それは本当のことだった。力をもった霊人が念じれば、真吾の畑どころかこの辺り全体を、たちまち本当に暑くできるのだが、この死後の世界に来て五十年たらずの真吾にその力はまだない。
そう。ここは本当に不思議な世界だ。一言で言えば、死後の世界。あるいは霊界。この世界に住む多くの人々はこの場所を「アフターワールド」と呼ぶ。
また、人々が生前暮らしていた現実世界を「リアル」と呼ぶ。
真吾は北海道札幌市の出身で、和菓子職人だった。明治三十三年生まれ。その時代を生きた全ての人々がそうであったように、二つの世界大戦に翻弄された生涯をおくり、昭和四十年、六十四歳の時に心臓の病気で息をひきとった。
真吾は死後、しばらくの間、リアルとアフターワールドの間をさまよっていた。その放浪はアフターワールドにおける自分の居場所を定めるための儀式のようなもので、期間は早ければ半年、長ければ、数十年にも及ぶ者もいた。
真吾は十年ほどで、自分の居場所を見つけた。
そうして今、桃畑を管理している。かれは永遠にここで暮らし、桃を育て続ける。管理局の役人からはそう聞かされている。
そう、永遠に。
「永遠――と言ったって、おいらにはピンとこないけどなあ」
真吾は農作業する手をとめて、呟くように言った。
アフターワールドには無数の霊人たちが暮らしている。
その数は膨大すぎて、すでに誰も数えることをしていない。何しろ、有史以前からの、地球上で生きて死んだすべての国のすべての人々がこの世界にやって来ているのだから、その数は絶大としか言うしかない。
もしここがリアル――地上界のどこかの国なら、たちまち住む場所も食料も不足して、人々はまた愚かな戦争を繰り広げるに違いなかった。
けれども、アフターワールド、つまり霊界では事情が異なる。
霊人たちは地上で生きていた頃と同じ意味での肉体を持っていない。彼らは存在しているけれども、あくまで精神的な存在であり、物質的なものはいっさい持たない。それで彼らはいつでも自分の好きなときに現われたり、姿を消したりできる。
また、アフターワールドでは霊界そのものも無数にあって、それらが複雑にかさなりあって存在している。そのかさなりあった霊界同士がぶつかることもない。それぞれの霊界には無数の霊人たちが暮らしているが、住む場所に困ることもない。アフターワールドには無限の広さがあるからだ。
真吾もはじめて霊界に来た時はびっくりすることだらけだった。いや、五十年たった今でも本当の意味では馴染めていない。どうしても地上で生きていた頃の価値観や常識と比べてしまう。
「この世界は永遠だ。永遠ということは時間という概念がない」
はじめに役人に教えられた時、真吾はぽかんと口を開けた。
「時間がないって……?」
役人は地上から霊界にあがってきたばかりの新人霊人のそうした反応に慣れているようで、肩をすくめた。
「つまり、地上のような一日、一週間、一か月、一年といった歳月の経過による物質的な変化がこの世界では起こらない」
「変化が、ない」
まだ何のことかわからずきょとんとしている真吾に役人は続けた。
「そうだ。だから永遠なんだ。こちらの世界では何も変わらない。何も成長しない。時間がたって作物が成長したり、変化することは基本的にないのだ。だが、創造主のはからいで本当は時間はないのだけれど、何かを一定期間やって、それが条件として認められれば、恩赦が与えられるようになってる。それが善なるポイントとして加算され、霊人たちのレベルアップにつながってゆく」
「??」
「とにかくお前の仕事は桃を育てることだ。毎日、桃を育て、それが実をつけたら、良いことが起こるかもしれぬ。そのように考えておけばいい」
当時、真吾は役人の言葉の意味をほとんど理解することができなかった。五十年経った今では、不可思議ながらも、ぼんやり理解できる。
「時間という考えがない。お役人はそう言った。確かに、おいらは何年ここにいても年をとらないし、そもそも六十四の爺いの時に死んだのに、こっちでは若い頃のままだ。確かに時間はない。あるのは条件だけだ」
条件とは、このアフターワールドの創造主の意向にそった何らかの仕事をして、その成果が認められることだと真吾は理解していた。
「つまり、この世界はおてんとさんを中心にまわっていて、おてんとさんに与えられた仕事、この桃をたくさん育てれば、良いことがあるってことだ」
真吾は可愛らしい顔で頷いた。
ついでに言えば、真吾の属する霊界は比較的、地上界と近いところにあるので、地上界でのことわり――時間の流れらしいものが、何となく存在している。いや、存在しているように見せかけている。
一日のなかに朝昼晩らしいものがあるし、非常に大雑把ではあったが、季節もある。だから、一見、季節が流れて、作物が実るように見えるのだが、実際にはそのかりそめの時間の経過は、作物の成長に何の影響も与えていない。
「そう言えば、この前、いきなり真冬に桜が咲いたときは、びっくりしたなあ。ついでに与作んとこの夏みかんも実ってさ。あれは美味かった」
何でも、その時は創造主から特別な恩赦があったとかで、アフターワールド全体の空気が少し変わった。それでそのことを喜んだ桜やみかんの木が時ならぬ花をつけたり、実りをつけた。その上、季節までもその喜びで、一瞬で春になり、夏になった。
「桜やみかんが喜ぶって、意味わからんけどなあ。ここはやっぱり不思議な世界だ。わけがわからん。でもそうなのだから仕方がない。受け入れるしかない」
真吾は一本ずつ丁寧に桃の木を見てまわりながら、現実的に呟いた。
袋がけした桃の育ち具合をチェックし、病気の兆候がないか確認してゆく。桃は昨日と同じで、おおむね順調に育っていた。真吾はにんまりした。
「じゃあ、水やっておこうか。お前たちも咽喉が渇いたろ?」
親しい友達に話しかけるように桃に話しかけ、スプリンクラーの用意にかかる。今の真吾のレベルでは道具なしで雨を降らせることはできない。
「おいらは死んで、この霊界で永遠に暮らす」
真吾は鼻歌まじりに呟いた。この言葉は霊界にきて五十年の間、かれが何度も自分自身に言い聞かせてきた言葉だった。
人生は現実世界のそれだけではなかった。死んでからも続きがあった。それだけだ。そのことに不満はないが、真吾はやはりこの世界のすべてのことが不思議でならなかった。
「この世界は不思議なことだらけだ。おいらの分からないことがたくさんある。それを教えてくれる学校もないし、知りようもないんだけどな」
霊界における真吾の教師は管理局の役人だけである。あとは自分で体験したこと、感じたこと、あるいは身近に住んでいる他の霊人たちから聞いたことなどだけが知識のすべてである。
そもそも、アフターワールドにおける真吾の姿自体も不思議のひとつだった。
真吾は六十四歳でリアルでの暮らしを終えたくせに、アフターワールドでは十六歳の姿をしている。
十六歳というのは、生前、和菓子職人だった真吾が、奉公先の和菓子屋で、はじめて餡たきなどの和菓子作りの下準備にかかわる仕事を与えられた年齢だった。それまで奉公先で与えられる仕事は雑用ばかりだった。庭の掃除や主家の子供たちのお守りや、台所のおマサ婆さんの手伝い、御主人様のちょっとしたお遣いなどばかりで、だから、真吾は生まれてはじめて与えられた餡たきの仕事が嬉しくて、誇らしくてならなかった。
十六歳の頃、真吾は希望に溢れていた。
二十三歳のときも幸せだったが、その直後、とてつもない不幸に叩き落されたから、真吾としてはそちらは思い出したくない。だから、十六歳の頃が、真吾の人生のうちで最も幸せだったのかもしれない。真吾はそんなことを考えた。
もっとも、十六歳の少年の姿をしていても、真吾の意識はあくまで六十四歳だ。
いくら不思議だらけのアフターワールドでも、本人の意識まで若返らせることはできない。また、真吾のなかには六十四歳当時の体の不調の記憶もまだあって、それらが時々、真吾を悩ませる。
往年の持病の心臓病。腰痛。それから痔。
「テテテテ……」
真吾の腰痛はいつも突然、やって来る。この日も、桃畑のスプリンクラーの用意をするためにしゃがみこんで、立ち上がろうとした瞬間、痛みがやってきた。
「ううう……」
真吾は若々しい顔を歪めながら痛みがおさまるのを待った。しばらく耐えていると、少しだけ痛みがおさまった。真吾はそろそろ歩き出し、切り株に座り込んだ。
かれは目をつぶって深呼吸し、呼吸をととのえた。何度か繰り返し、目を開ける。自慢の桃畑の鮮やかな色彩が視界に飛び込んでくる。今日のかれの畑は一段と可愛らしい配色だった。
そして空もまた真吾の畑に負けないくらい多彩な色あいをしていた。
この世界でも空は一応、青かった。
ただ、この空は気まぐれで、少しも同じ「青」でいることはない。水色っぽくなったり、黄色みが混ざってきたり、紺碧の海のようになったり、どんどんうつろい変わってゆく。付近の里山に住む動物たちも、妙な形のものが多かった。
(本当にここは奇妙な世界だ……それにしても、なんて綺麗な空なんだろう)
かれはしみじみ思う。
リアルからこちらの世界に来たばかりの霊人は、この不思議さについてゆけず、パニックを起こす。
「……とにかく、死んでからも、おいらたちは生きてゆかなくちゃならないってことだ。この霊界はとんでもなく広い場所だと聞いている。おいらもいつかその広い場所に行きたいけど、いつになるかわからない。でも、真面目に働いていれば、いつかレベルがあがって行けるようになるだろうとお役人が言っていた。おいらも自由になりたいなあ。そうしたら気持ち良いだろうなあ」
腰の痛みがおさまってきたので、真吾は「よっこらせ」と声をかけて、立ち上がる。かれはスプリンクラーの用意を再開した。
◇
アフターワールドは無数の霊界がかさなりあって構成されている。
最上位が「天国」であり、その後に「パラダイス」、「高級霊界」と続いてゆく。真吾の暮らす場所は「中間霊界」と呼ばれるところで、アフターワールドのなかで最も広範囲におよぶ霊界だった。
この中間霊界には色々あって、どんよりくすんだ霊界、いつもイヤな臭いがする霊界、地上の都会とほとんど変わらぬ霊界、山ばかりの霊界、美しい霊界もあれば清らかな霊界もあり、荘厳な霊界もあれば、切り立った岩山ばかりの峻厳な霊界もある。そうして、中間霊界の下層に「地獄」がある。
その中間霊界の片隅に、桜田真吾は住んでいた。
この場所は横田四丁目と呼ばれていた。と言っても、横田三丁目や五丁目があるわけではない。四丁目だけが存在しているのだ。
中間霊界、最下層〈横田四丁目〉
天気がとても良ければ、雲の合間から、天の光が漏れることもあるが、本来、この霊界は常にぶあつい雲に覆われている暗い霊界だった。
真吾の畑のあたりだけは奇跡的にほのぼのした色彩が広がっていたが、それ以外の場所では、むしろ足下から地獄の怨嗟の声が聞こえてきてしまったりする、ちょっと危険でスリリングな霊界だった。
それでもそこはそこに住む人々にとって、永遠の地であった。真面目に働いて、報酬を受け取り、ささやかな幸せを手に入れる。
その四丁目に危険が迫っていた。
(2018年1月24日改稿)