博多駅前陥没事故と元寇と巨大人魚
11月8日に書き始めた作品ですが、11月10日の現在では、既に古くなった情報が入っています。
陥没箇所の埋め立て作業は順調に進み、インフラ復旧にも目途が付いたようです。
11月14日には、陥没箇所の通行も可能になるとか。
アメリカ大統領選挙に気を取られたせいでの、この体たらくです。
あまりの復旧の速さに、豊洲の穴も騒ぐ暇があったら、同じように埋めちゃえば良いんじゃない? とか考えてしまいます。
まあ、道路と建物じゃあ違う問題があるのでしょうけれど。
「はかた駅前通り」で大規模陥没事故が起きた。(2017年11月8日)
アスファルトが崩れ、信号機が地中に飲み込まれていく映像は物凄い。
事故が起きたのが、午前5時ごろと交通量が少なく、死者が出なかったのは幸いだ。
地下鉄工事を行っていた作業員の方が、出水に気付き、いち早く付近を通行止めにして規制線を張った判断の速さには称賛を送りたい。
また、事故現場付近に勤務されている方々には、迷惑極まりない出来事に違いない。早期の復旧をお祈り申し上げる。
けれど、都市機能が麻痺したと、欣喜雀躍している在京マスコミのコメンテーターの方やアンチ福岡のネット雀(何故かネットには一定量のアンチ福岡が存在する)には、消化不良の結果に終わるだろう。
一つには陥没事故の起きた「はかた駅前通り」は幹線道路と報道されているが、JR博多駅博多口の主要幹線道路は「住吉通り」と202号線であり、「はかた駅前通り」は博多駅から真っ直ぐに突き出して見栄えが良いけれど、今のところ博多駅に向かう主要幹線道路とは言い難いことがある。
だから、福岡市の交通機能に大ダメージを与える事はない。
これは乗用車で博多駅の駅上駐車場に向かうには、博多口とは反対側の筑紫口側からしか入れない事による。
またバス利用の場合でも、大多数の路線は「住吉通り」経由であり、「はかた駅前通り」経由は2系統しか無い。
同じくタクシー利用の場合でも、「住吉通り」か202号線を走って目的地に向かうか都市高速に乗ってしまうから、「はかた駅前通り」の利用価値は大きくなかった。
地下鉄空港線も「住吉通り」の下を走っている。
なぜこんな事になっているかと言うと、キャナルシティと博多駅を結んでいる「はかた駅前通り」は、長らく盲腸道路だったからだ。
博多駅から「はかた駅前通り」を直進すると、途中からは行き止まりになり、脇道に入って「住吉通り」か202号に逃げなければいけなかった。
それならば、初めから「住吉通り」に乗っている方が面倒が少ないわけで、好んで通りたい道路ではなかったわけだ。
地下鉄七隈線の、天神南駅から博多駅への延伸に伴い、新しく作られた(あるいは作られつつあった)道路だから、未だ市民権を得ていない道路だったと言えるだろう。
もう一つの理由は、事故の起きた場所が、電気・ガス・水道といった都市インフラの大動脈ではなかった事だ。
先に記した様に、「はかた駅前通り」は新しい道路であり、以前路面電車が走っていたような古くからの道ではない。
比較的最近まで建物が建っていた場所だから、インフラの動脈ではあっても、一旦事が起こった場合に致命的な大動脈ではないわけだ。
以上の事から、福岡市全体から見れば被害箇所は限定的であり、事故の処理は淡々と(もしくは粛々と)進行するものと思われる。
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さて、事故現場となった場所が、昔はどのような地形だったかというと、鎌倉時代の博多(那の津)近郊を描いた地図で『博多古図』という古地図がある。
興味があれば、上記名称で画像検索を行えば簡単に出て来るから、試みられたい。
現在の天神~博多駅付近は「冷泉津」と呼ばれる海だ。
陸地は住吉神社以南で、櫛田神社は冷泉津の東端あたりに有るけれど埋立地か砂浜に区画整理された土地の様に描かれている。
今回の事故で、地盤や地下水の問題が取りざたされるのは、そのためだ。
現在でも櫛田神社の境内には、霊泉鶴の井戸から不老不死の命水が湧き出ているが、塩分を感じる水だ。
ただ、この地形が元寇の時に侵攻軍を撃退するのに一役買っている。
博多湾は平尾から平和台に向かって突き出した半島で二分され、東側が冷泉津、西側が草香江と呼ばれる海になっている。
平和台と現在呼ばれている場所は、昔には鴻臚館と呼ばれる国際貿易事務所があり、江戸期には福岡城が築かれた。
博多から平和台、平和台から原付近への移動には、舟を使うか平尾付近まで迂回して陸上移動を行っていた。
博多湾の南端付近は、河川堆積物によって浅くなり、海というよりも低湿地帯になっていたから、大型の貿易船は、糸島半島の今津や唐泊に入港することが多かったようだ。
1274年11月の文永の役で、元軍は二日をかけて、今津・姪浜・百道浜に分散上陸を行ったが、部隊をまとめて兵力差を生かすことが出来ず、博多方面への最大進出地は、小部隊による平和台付近への進出のみで各個撃破されてしまう。
迎え撃った幕府軍側も小部隊だったから(大半は博多付近の防衛に付いていた)、なかなか元兵の首級を挙げられる処まではなかなか行かないけれど、博多方面から増員される兵力が増えるにつれ、敗走する元兵は祖原高地を失い、次第に姪浜に押し込められるようになっていく。
着上陸作戦で、橋頭保を築くのに失敗した元軍は、博多湾から離脱するが、その夜に爆弾低気圧で大被害を受ける。
このように、「今より広いが、とても浅い」当時の博多湾岸の地形が元軍の大型輸送艦(戦艦)の動きを制限したのだ。
まあ、地形だけじゃなくて、防具や武装の問題もある。
元兵は、兜は被っていたけれど、鎧は高級将校がチェインメイルかプレートメイルを着用していたのみで、一般兵は布の服だ。
しかも、ほぼ全員が歩兵だ。
幕府軍重装騎兵の騎射攻撃には脆い。
また元軍弓兵の練度も、動員兵だから高くはなく、集団射撃に頼らざるを得ない。
集団射撃を行えば、矢の使用量は増加するから、補給が滞れば無力化してしまう。
元軍が姪浜橋頭保を放棄して海上に逃げた原因の一つに、矢の備蓄が低下して継戦不能と判断した事が、元軍側の記録に残されている。
「てつはう」という手投げ弾が活躍したことになっているけれど、4㎏~8㎏ある手投げ弾を、前進しながら野戦で敵騎兵相手に有効使用するのは無理ゲーというもので、撤退援護か祖原高地の防御戦闘でのみ有効であったと思われる。
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博多湾の博多側が、冷泉津と呼ばれる事になった理由に触れておこう。
これには150m近い大きさの超巨大人魚が絡んでいる。
博多の街は、古代には奴国の港として「那の津」だった。
鎌倉時代には港湾部分が「袖の港」という名で呼ばれている。
元寇が起きる約50年前の、1222年に袖の港近くで81間(147m)の人魚が網に掛かった。
櫛田神社の西側、当時まだ海だった部分での出来事だ。
なんじゃそれは!と思うけれど、何時の時代にも真面目な人はいるから、朝廷に報告を出した。
朝廷からは冷泉中納言という人物が派遣され、人魚を検分している。
人魚の肉は不老不死の妙薬とされるから、食べようかという意見もあったみたいだが、冷泉中納言は「人魚の出現は吉兆だから、丁重に葬るべし。」として、塚が築かれた。
冷泉中納言、上手い事言って逃げたなとか思ったりするわけだが、彼の宿泊所としたのが「浮御堂」と呼ばれる場所で、現在は龍宮寺というお寺になっている。
龍宮寺の境内には、今でも人魚塚の石碑が建っている。場所的には櫛田神社のすぐ南側だ。
龍宮寺の人魚伝説と、櫛田神社の不老不死の命水には、もしかしたら何らかの関連が有るのかも知れないが、私は確認出来ていない。
浮御堂というのは、海中もしくは湖中に突出したお堂型の建造物だから、浮御堂部分までは海だった事が分かる。
冷泉中納言の宿泊所があった海という意味で、その後その部分が冷泉津と呼ばれるようになったのだ。
さて、巨大人魚の正体だが、当然クジラ説は出ている。
現に龍宮寺から少し離れた場所では、1964年にシロナガスクジラの化石も出土している。
けれど、北部九州一帯は、古来から海の民も住み、クジラ漁が盛んだった場所だ。
見慣れていて、食べてもいるクジラを、人魚と誤認するかな? という疑問は捨てきれない。
内陸の海から遠い場所とは違うのだ。
当然、朝廷に報告を上げる前には、土地の古老から町で貿易を営む外国人までが実物を調べているわけで、もしかしたら本当に未知の生物だったのかもしれない。
今回の陥没事故は、不謹慎かもしれないけれど、地下深くそこが海だった時代から眠っている巨大生物が、ちょっぴり身動きをした───そんな気がしてしまうのだ。