サメハダ
サメハダ
当時私は大学1年生で大学に入学したばかりだった。私が住んでいた県には1校の国立大学と3校の私立大学があった。3つの私立大学はぱっとしない地方の私立大学でそこに進学したくない人は東京の大学に進む人が多かった。知らない土地で生活する気力もなければ一人で生活することもめんどうだと思った私は3つの大学のうち一番入りやすいA大学という学校に進学した。A大学は単科大学で家政系の大学だった。家庭科の教員免許や民間の被服や食事の資格を取ることが出来るというのが大学の売りであったが要は取り立てて何も特色のない普通の学校だった。ともかく毎年定員割れが生じていていつ廃校になってもおかしくない状態だったがどういうわけかA大学は今も存続していて今も一年に一回私が住んでいるアパートのポストにはA大学の白黒印刷の会報誌が届く。どうやら私が卒業してから数年後に栄養士の資格を取ることの出来る学科ができたらしい。それでA大学の入学希望者が増えたかは知らない。A大学の特色といえば大人しい学生が多いことだと今振り返ると思った。髪を派手に染め、奇抜なファッションをしている子もいたが、特に問題を起こすような子はほとんどいなかった。講義中に講師が学生に君たちはどう思う、と問いかけても皆お互いの顔色をうかがっていた。そのうち講師が君たちは反応が薄いのが困る、とすこしあきれたように言った。そうすると私たちはあいまいに笑うしかなかった。皆波風を立てるのを好まなかった。私も元々大人しい性格で人と足並みを揃える方が楽だと思っていた。だけど、そんな大学生活で一度波風を立てた人がいた。サメハダと呼ばれていた男の先輩だった。苗字が鮫島だったからそう言われていたような気がする。先輩といったがサメハダは一年留年していて私たちと同じ学年だった。私は大学に入学して入学式を終えて取得単位の届けを出して講義に臨んだ時にサメハダは私の斜め前の席に座っていた。席といえばA大学の講義室は私が想像した大学の講義室と違い、普通の高校の教室を2倍ほど拡大した場所に長机とパイプ椅子が並べられているだけの簡素な部屋だった。私の隣には美奈子が座っていた。美奈子は私の中学校からの友人で美奈子も私と似た大人しい性格であり、二人でひっつくようにいつも一緒にいた。友人、というと今でも私は美奈子以外の名前を思いつかない。
確か教養科目である家政系の授業の時だったと思う。そういえば私たちはあまり講義、という言葉を使わなかった。実際A大学の講義は人数が少ないせいか高校の授業の延長線に近かった。1年生の時は、教養だからそうなのかもしれないと思っていたがそれは4年間変わらなかった。家政の基礎の講義は外部講師の女の先生だった。よくしゃべる中年の先生で明るい人だった。家政系の講義となると話は家族観や結婚観に及ぶ。この先生の少し困るところは生徒を一人一人指名してあなたは何歳までに結婚したい?子どもは何人欲しいかしら。といった質問をするところだった。決して先生に悪意や嫌味はなく、ただ授業の一環として質問しているだけだ。ただ、人によってはセクハラにもとられかねない質問でもある。私たちは指名されるとびくびくしながら先生の質問に薄笑いを浮かべながら答える他なかった。3人の学生が指名されたが、皆結婚する、と答えた。それが先生の好む答えだったからそう答えた。彼女はよく結婚した方が良い。一人で生活することはリスクがある。と言っていたからだ。それは彼女自身が若いうちに結婚し、子どもを育てていたからだと思う。私は自分が指名されないことを願いながら、心の隅でもし誰かが結婚なんてクソ食らえ、と言ったら先生はどんな顔をするのだろう、と想像していた。その時、先生はサメハダに呼びかけた。えーと、あなた。そこのあなたよ。あなたは何歳までに結婚して子どもは何人ほしいかしら。そう問いかけた。私の席からはサメハダの黒髪の頭と痩せている割に広い肩幅しか見えなかった。サメハダは黙った。無視するつもりなのか、私は不思議とわくわくした。サメハダは頭を掻いた。先生はサメハダが話を聞いていなかったと思ったのかもう一度少し大きな声で同じ質問をした。するとサメハダはしません、と言った。それから続けて
「結婚するつもりはないです。子どももいりません。」
とはっきり言った。先生は特段怒った様子はなかったが、不思議な生き物を見るような目でサメハダを見た。教室の中に小さなさざ波が広がっていくのを私は感じた。隣に座っている美奈子もサメハダの方を見ていた。先生が今度は別の質問をサメハダにした。
「どうしてあなたは結婚したいと思わないの?」
サメハダは小さなため息をついてから答えた。
「結婚した方が離婚の時面倒かもしれないでしょ。それに何も考えないで子どもをつくるのは無責任じゃないですかね。俺には家族を養う自信も責任もって子どもを育てる自信もありません。」
サメハダはそう言った。先生は目を丸くした。後で聞いて知った話なのだがどうやらこの先生は子どもを妊娠してから結婚したらしい。それをサメハダが知っていたのかは分からない。ただ先生はそういう考えもあるわね。ただ、意外とどうにかなるものなのよ。と短く言ってから話題を変えて別の内容を話し始めた。さざ波は静かに収まって行った。ただ私の頭の中に、サメハダの後ろ姿と声がこびりついて、なかなか離れなかった。
それから私とサメハダはいくつかの講義で一緒になった。サメハダは講義室の前から二番目の席に一人で座る。そして黙々とノートを取っていた。こないだの一件でサメハダは目立ちたがり屋なのかもしれない、と思っていたがサメハダは先生に指名されなければ決して挙手することも反応することもなかった。指名されてもこの間のように斜に構えたような意見を言うことはなかった。私は黒板を見てノートを取る。隣には美奈子が座っている。私の視線は黒板から吸い寄せられるようにサメハダに移動する。サメハダがたまにぼりぼりと頭を掻く様子やあまりにつまらない講義だと頬杖をついてつまらなそうにしている様子を見ていた。そして私はいつもサメハダを見てしまうことを美奈子に悟られないか気になると視線を窓の外にそらす。窓の外には隣の棟の建物や木の緑、青い空が見えてそれは部屋によって異なる。それでもいつのまにか私の視線はサメハダの背に戻ってしまう。講義が終わり、サメハダが立ち上がるとサメハダの顔が見える。サメハダは人食いざめというよりも小型のネコザメのような鋭い目つきをしていて、少し前髪が長く伸びていた。そしてリュックを肩に掛けると背を伸ばして大股で歩いて行った。
5月に入った頃だと思う。中国語の講義の時だった。その時も鮫島は前から二番目の席に座っていた。私の隣には美奈子がいなかった。美奈子はドイツ語を取っているから私とは別の講義を受けている。講師は若い男の日本人の先生だった。それまでは先生のする中国語の発音を真似てまーまー言っているだけだった。よく覚えていないが中国語の教室には発音記号があり、数種類の発音があったような気がする。そして、いよいよ2人組になって中国語の会話の練習をする段階に入った。私やサメハダのように一人で座っている学生が多かったのを見て先生は誰もはみ出すことのないようにあなたとあなたで1組です、と言って2人組で座るように指示した。その時先生はサメハダと私を指して、1組です、と言った。するとサメハダは教科書を持ってさっと立ち上がり、私の左隣に座った。私は小学生の時に好きな男の子の隣に座った時の恥ずかしいようなどきどきした気持ちとは何か違う、わくわくする高揚感で胸がいっぱいになった。サメハダは教科書を開き、ニーハオと言った。サメハダの発音はどこかぎこちなく棒読みだった。サメハダと目が合った。サメハダはにらみつけるように私を見た。サメハダは目が悪いのか、物を見る時に睨むようにして見る癖があると後で気付いた。私もニーハオと返した。私の中国語もあまり上手くはない。それから自己紹介をした。先生が一人一人の名前での中国語の読みを教えてくれたので中国語の発音で自分の名前を呼んだ。しかし、肝心のサメハダの下の名前が分からなかった。多分サメハダも私の名前が分からなかったと思う。教室のあちらこちらで発音の悪いぎこちない中国語が聞こえた。その度に先生が優しく発音を直した。先生は日本人なのだが先生の発音は流暢で聞いていて心地が良かった。講義が終わりに近づくと私は心の中で葛藤していた。サメハダになにか話しかけてみようか。何と話しかければ良いのだろうか。でも、この機会を逃してはならない、なぜだかそういう風に警告されているような気がした。講義が終わり、サメハダが立ち上がった。私はそれにつられるように口を開いた。
「あの、どこに住んでいるんですか。」
サメハダは表情を変えずに、答えた。
「○町。」
それは大学のある市の隣の町だった。
「背、何センチ?」
サメハダは教科書をリュックに入れながら、そう言った。
「149㎝です。」
「低いな。」
サメハダはそう言い放つとリュックを肩にかけてすたすた歩いて行った。私は少しの間、そこに立っていた。しばらくすると、頭の熱が静かに引いて行くのを感じた。
6月に入り、私は相も変わらず一回も欠席せずに講義に出て美奈子と昼飯を食べたり、早く学校が終わった日などは連れたって市の中心部に出て買い物をしたりする生活を続けていた。あれからサメハダと言葉を交わしたことはなく、ただ前の方に座っているサメハダを眺めていた。美奈子は私のそんな様子に気付いている様子はなかった。その日は外は曇りで私と美奈子は空いている講義室で二人で食事をしていた。講義室には私たちの他に誰も居なかった。美奈子はスーパーで売っているミニアップルパイを食べていた。美奈子は最近よくこのアップルパイを食べている。私は母の作ってくれた小さい弁当を食べていた。
「あのさ、サメハダ先輩の話聞いたんだけどさ。」
私は美奈子からサメハダの名前が出たので思わず食べていたおにぎりを喉に詰まらせそうになったが水筒に入っているお茶を飲んで努めて平静を装った。
「何なに?」
「サメハダ先輩って留年して私たちと同じ1年生だよね。噂で聞いたんだけどあの人去年日本語の講義の前の先生殴って停学になったらしいよ。だから留年してるんじゃないのかな。」
サメハダが、先生を殴って停学になった。私はショックを受けるというよりも、サメハダの新しい情報に興味を覚えていた。5月に会話して以来私は自分のサメハダに対する思いが恋なのか好奇心なのか良く判らなかったのだがその時私はサメハダに対してなんの理想も抱いていないことを自分で悟った。サメハダが人を殴ったところで私は幻滅さえしないのだ。
「へえ、どうして先生を殴ったんだろうね。」
私は素知らぬ顔で美奈子にそう言った。美奈子はパックジュースのストローから口を離して
「さあ、どうしてだろう。でもサメハダ先輩そんなに悪い人に見えないんだよね。でも案外キレたらなにするか分からないタイプなのかもしれない。」
美奈子はそう言うとアップルパイをかじった。悪い人に見えない。やはり美奈子と私の見解はいつも大体似ている。好きな人も嫌いな人も大体同じなのだ。そう思うとなんだか少しおかしくなった。
「日本語の先生今年から来たって言ってたから前の先生だからよくわからないね。」
私はそう言った。そしてふと気づいた。日本語の先生が変わったこととサメハダが日本語の先生を殴ったこと。この二つの点に相関はあるのか。相関。教養の統計学で勉強した言葉をなんとなく使ってみた。
それから2週間ほど経った頃、私は図書館の自習室で課題のレポートを書いていた。美奈子は親戚に会う用事があると言って先に帰って行った。時刻は3時くらいだったと思う。である。とレポートの締めを書いて私は大学に入って初めて書いたレポートを眺めていた。レポートを書くとやっと大学生になれた気がして嬉しかった。今思うとそれはレポートというよりも高校生の感想文に限りなく近いものだった。半年前は高校生だったのだから無理もないけれど。その時ひそひそと話す声が聞こえた。私は反射的に耳をそばだてた。盗癖なるものがあるなら私には盗聴癖がある。私は人が話す言葉を盗み聞く癖が昔からあった。自分でも意地の悪いと思うがなかなか止められない。
「…Iさん。今どうしてるんだろうね。連絡取れた?」
「ううん。全然。去年はびっくりしたよね。まさかIさんがT先生とあんなことになるなんてね。」
Iさん。T先生。あんなこと。私の耳は鋭くなる。やめろよ、野次馬なんてさ。そう思うけれど、どうしても気になった。
「あんなことあればT先生大学辞めて当然だよ。だってIさんお腹の子、下さなきゃいけなかったなんて、酷すぎるよね。」
私は背筋が寒くなった。お腹の子を下す。私にも堕胎の意味くらい分かる。急に冷めたように怖くなった。
「あの先生の日本語面白かったんだけどね。まさかあんな人だとは思わなかったわ。」
「そういうのもみ消して素知らぬ顔してるんだもん。うちの大学のやり方も汚いよね、ほんと。」
会話はそこで終わった。どうやら二人の先輩は自習に戻ったらしい。日本語の先生であるT先生が学生であるIさんを妊娠させ、Iさんは何らかの事情があり、お腹にいた子どもを下してしまった。そしてT先生は大学を辞めた。そんな現実離れした話がこんな寂れた大学で起きたと思うと現実感がなかった。私はレポートを畳み、バッグに筆箱や教科書、レポート用紙をしまい、図書館を出てふと気づいた。サメハダが殴ったというのは去年の国語の先生、それはT先生なのではないか。何も考えないで子どもをつくるのは無責任じゃないですかね。俺には家族を養う自信も責任もって子どもを育てる自信もありません。家政学の講義の時のサメハダの言葉。子ども。私の脳裏で電子の回路が枝を伸ばして広がるような感覚があった。
それから電車の中で考えた。電車の中に人はまばらだった。大学から家に帰るためには、一時間に1本出ている電車に乗らなければならなかった。それは同じ地区に住んでいる美奈子も同じだ。サメハダとIさんには何らかの関係があった。仲が良かったのかもしれないしあるいは恋人に近しい関係だったのかもしれない。そして、T先生とIさんが関係を持って、Iさんは妊娠した。けれど、どういうわけかIさんは赤ちゃんを下さなければならなかった。そしてサメハダはT先生を殴った。T先生は学校を辞めて、サメハダは停学になった。あくまで私の妄想に近い考えだった。私は頭の中の引き出しを整理するように、静かに考えていた。そこには興奮も好奇心もなかった。
7月に入り、私の視線はまたサメハダに引き寄せられる。ただそこには罪悪感があった。サメハダを奇妙な生き物を見るような目で見ていた自分が恥ずかしかった。それは家政学のあの先生と同じ目だ。もし私の考えた説が正しいのなら、サメハダも悲しいことがあったのだろう。それなのに、私はおもしろがるようにして、サメハダのことを見ていた。黒板の前で先生がチョークで化学の亀の甲を描く。サメハダは静かにノートを取っていた。美奈子も黙々とノートを取っている。美奈子がシャーペンで文字を描く心地よい音が聞こえる。私もノートを取る。もうすぐ期末試験が近づいている。だけど、上手く集中することができないでいた。
試験が終わり、私は学校の図書館に居た。大学の試験は試験というのは名ばかりで今まで取ったノートや教科書類を持ち込んで良いものだったから私は拍子抜けをしていた。今思えば出席数さえ満たしていれば単位を取れるようになっているのだろう。出席が評価されるというのは決して悪い話ではない。私は図書館の2階に上がった。人は誰も居なかった。狭い本棚の間を歩いてなんとなく読んでも意味のよくわからない学会誌を手に取った。最後のページを見ても貸出カードが貼られていなかった。なんとなく読んでみた。どうやら固くなった肉を軟らかく調理する方法が書いてあるようだ。難しいたんぱく質の名前が並んでいた。その時、私は人の気配を感じて後ろを振り返った。すると一番奥の場所に、サメハダが座っていた。サメハダは私の方を見た。私は思わず身じろぎした。私はサメハダの方に近づいた。サメハダが私の顔を睨むように見る。サメハダの髪に光が当たる。
「あんた、そういえばどうしていつも俺のこと見てるんだ?」
私は心臓を鷲掴みにされたような気がして体が熱くなった。私がいつもサメハダのことを見ていたのを、サメハダは知っていたのだ。
「…どうしてか、わからないけれど、なんとなく、目が、離せなくて…ごめんなさい。」
私は喉の奥から声を振りしぼった。盗聴 盗み見 それをサメハダは全部知っていたのだ。するとサメハダは怒った様子もなく頭を掻いた。私は足が固まったように立っていた。
「あんたと似たようなこと言っている奴がいた。Iっていうやつ。去年、Iが俺のこと良く見てた。なんでって聞いたら同じような事いっていたよ。それからIは国語のTと子ども作って、下した。俺はTのことぶん殴って、留年した。TもIも大学辞めた。そんでなんでかわからないけどTは奥さんと別れて今Iと暮らしてる。こないだ手紙が来た。」
サメハダは吐き出すように、それでいて押し殺すような声で話した。私はサメハダの近くに腰を下ろした。
「俺がTのこと、教室で殴った時、真っ先にとめにはいったのがIだったよ。でも、良かったと思ってる。Iも今は幸せみたいだからな。」
サメハダはそう言って少し上を向いた。
「・・・悪いな、俺あんまり友達とかいないから、ついIに似てたあんたに話しちまった。背たけも、雰囲気も、似てる。」
「いいんです、いいですよ。」
私はそう言った。するとサメハダは声を殺して泣いた。サメハダはぐちゃぐちゃの思いを抱えて、毎日生きていたのだろう。私は自然とサメハダの隣にいた。背には本棚が当たる。サメハダの足に、私の膝が当たる。窓の外には紫のような、赤のような、紺色も混ざった空が広がっていた。なぜだか静かで誰もいないような気がする。泣いているサメハダの少し乱れた呼吸だけが聞こえる。もうすぐ夜になるかもしれない。空気は生温かくて、ぬるい。今はしばらくこのままでいよう。その時、そう思った。
ありがとうございました