第26話 価値観の崩壊
桐子は我が目を疑った。
何度も目をこすっては凝視する。だが、何度見直しても桐子にはイリアの身体が発光しているようにしか見えなかった。
高熱に浮かされるイリアは地面に座り込み痙攣した。
桐子はどうすることもできずに只それを見守っている。やはりイリアの姿は眩い。まるで、蛍光灯の明かりを至近距離で一身に浴びたみたいに彼女は光を発している。特に首の付近が最も明るい。まるで首輪が発光しているように思えた。
「あああああっ!」と、イリアが絶叫する。そして静かになった。身体からの発光も消え失せた。
桐子が恐る恐る声を掛ける。
「イリア……大丈夫か?」
その声が耳に届いたのか、イリアがゆっくり顔を上げる。汗で乱れた髪が彼女の頬から剥がれて輪郭から零れ落ちる。
それを見て桐子が驚愕した。
「イリア……君、その目……」
桐子の言葉にイリアが反応する。その表情は幾分か険しかったが、いつものクールな顔つきだ。しかし、決定的に違っていたのは、その目の色だ。イリアの黒目部分は赤かった。それは智世が能力を発揮する時に見せたあの鳩の血に例えられるルビーの色だった。
桐子が脱力したように一言。
「ピジョン・ブラッド」
それを聞いてイリアがハッとする。そして桐子の顔を見る。桐子も普通に目を合わせようとする。が、イリアと目が合った瞬間、桐子の身体が硬直する。
「うっ! イリア、やっぱりそれ……智世の……」
桐子は金縛りに遭いながらそう訴えた。イリアは鏡になるものをと思って周囲を見回すが草木しかない。そこで放置していたハルバードに目を付けた。それを手繰り寄せて手に取り、斧の部分に自らの目を映してみる。
「あっ!!」と、イリアが絶句する。
イリアにも覚えがあった。確かにその目は見慣れたものではない。放心したようにイリアは座り込んだ。
そこで桐子の金縛りが解ける。
「戻った……けど今のはやっぱり」
桐子は手の平を動かして金縛りが解けた感触を確かめる。そして、イリアのところに歩み寄ると、正面に座った。イリアの目は普通に戻っている。
「イリア。その目は智世の能力が移ったんじゃないか?」
その言葉にイリアは力なく首を振る。だがそれは否定の意味ではなく、諦めを表しているように見えた。
桐子は考える。そして、自らの仮説を唱える。
「智世を殺したのは詩織って子だ。あの子は鎌で智世に致命傷を与えた。そこでいったん、智世の武器と能力は彼女に奪われた。けど、その詩織にダメージを与えたのはイリア、君の武器だよね?」
イリアは放心したような様子で桐子の言葉を聞いている。
「ボクが思うに、やはりあの動画は本当のことを言ってた。時間差なんだよ。智世の死で能力が詩織に移り、詩織が死んだことでそれが君に移った。ということはきっと、詩織はさっき死んだんじゃないか?」
桐子の推測は信じがたいことだった。しかし、イリアにはそれを否定することができない。能力は殺した相手に移るという事実……。
桐子は大きくため息をついて首を振る。
「実はボク、能力の存在じたいに懐疑的だったんだ。でも、ヤツ等と戦った時に自覚したよ。ボクにも能力はあった。手の平から衝撃波が出る能力が」
そう言って桐子は茂みに向かって「はっ!」と、手の平を押し出す。だが、何も起こらない。桐子は苦笑いを浮かべる。
「やっぱりね。武器を持った状態でないと能力は使えない」
イリアは桐子の顔を見ながら何か言いたそうな表情を見せた。
桐子はイリアの視線に対して分かってるといった風に軽く頷く。そして「よっこいしょ」と掛け声を出して立ち上がと、石碑の側に横たわる智世の遺体を見て唇を噛んだ。イリアもフラフラと立ち上がる。そして桐子と同じように智世の方に目を向ける。
しばらくして桐子が呟く。
「弔ってやらないとな」
「うん……」
そう頷いたイリアの目には本来の強い輝きが戻りつつあった。
* * *
なかなか風呂場から出てこない利恵を心配して愛衣が脱衣所から声を掛ける。
「利恵さん。大丈夫?」
しかし返事は無い。シャワーの音とお湯が跳ねる音が聞こえるだけだ。愛衣はしばし考えてから軽く首を振ると、いったん脱衣所を離れることにした。
その間も利恵はシャワーを頭から浴びながら無心で身体をこすり続けた。何度洗っても返り血は落ちないような気がした。洗いすぎなのかもしれない。あるいはストレスのせいか、彼女の足元では抜け落ちた長い髪が大量に排水口に絡みついている。
利恵は思いつめていた。今、まさに彼女の価値観が崩壊しようとしている。
―― 人を殺してはいけない……なぜ? 誰かを傷つけてはいけない……なぜ?
幾ら考えても利恵を納得させる答えは浮かんでこなかった。根が真面目な彼女にとって、道徳の根幹ともいえるそれらの疑問は、単純すぎるが故に答えに窮するものだった。
利恵の両親は弁護士だ。その為、経済的にはかなり恵まれており、彼女は何一つ不自由することなく育てられてきた。両親は一人娘である利恵にお金をかける一方で、優等生であることを強く求めた。学業だけではない。皆の模範となるような行動を常日頃意識すること。それが弁護士である両親の最低限の要求だった。そして、当然のように利恵は司法の道に進むことを義務付けられ、また本人もそれを疑問に思うことは無かった。それは両親を心底、尊敬していたからであり、また、多忙な両親とのわずかな家族の団欒の時に褒められることを何よりの喜びとしていたからだった。
ところが2年前、両親のダブル不倫が発覚した。夜中にリビングで言い争う両親の会話を偶然耳にしてしまった利恵は、しばらくその場を立ち去ることが出来なかった。そして何日か悩んだ末に母親に問いただした。ところが、開き直った母親は自らを正当化し、挙句の果てに『離婚しないのは利害関係が一致しているから』と言い放った。父親も似たような物だった。不倫を咎める利恵に対して父親は逆切れ気味に婚姻関係と愛情は別物であること、離婚することのデメリットを強調した。そして、取り繕うように『娘であるお前のことは愛している』と付け足した。
そんな両親に利恵は失望した。理想の家族だと思っていたのは利恵だけで、両親の仲は十年以上前から冷め切っていたのだ。
自分が感じていた幸せは偽りだったこと。そして、弁護士である両親が平気で嘘をつき続けていたこと。そのせいで利恵は、何が正しくて何が間違っているのか分からなくなってしまった。そんな彼女の心に辛うじて安定をもたらせたもの。それが『ルールを守ること』だった。ルールの内容は何でも良い。それを盲目的に守ることが何より重要だったのだ。
しかし、それが今、崩壊しようとしている。和佳子を手にかけてしまった時点で、利恵の唯一の拠り所が完全否定されてしまった。そうなると、自我の崩壊を避けるためにはルールを変えるしかない。
「仕方がなかったんだ。ああするしか方法はなかった……」
自分を正当化するには相手を貶めなければならない。
「私は間違っていない……悪いのはあの子達……」
熱いシャワーを浴びながら利恵は思い出す。それは自分が和佳子に止めを刺した場面ではなく、和佳子を死に追いやった玲実達の姿だった。
ふと左肩に浮き出た痣に目が留まる。それは和佳子を死なせてしまった直後にできたものだ。猛烈な発熱と痛み。それが収まった時にこの痣が現れた。それは罪を示す刻印のように思われた。
利恵は無意識に痣を2度叩いた。すると『スパァン!』という音と共に目の前にトライデントが出現した。それはまさに和佳子が使っていたものだ。
突然の出来事に一瞬、利恵は身を引いた。だが、目は反らさなかった。それを見ていると玲実達との戦いが脳裏によみがえる。殺意が芽生える。それが形となってはっきり認識できるように感じられた。それと引き換えに、すっと肩の荷が下りるようにモヤモヤが去り、目的がクリアになった。
―― 義務感。それは必ずやらなくてはならないこと。
―― 復讐。それは和佳子の思い。
憎しみの連鎖だとか復讐は何も生まないだとか、そんなものはあの仮面夫婦の家族ごっこよりもずっと嘘くさい戯言だ。
利恵は湯にうたれるトライデントを拾い上げた。その重みには和佳子の願いが込められているような気がした。シャワーを止めて改めてトライデントを握り締める。が、それは無情にも『ボン!』と消失してしまった。
その時、愛衣が「利恵さん、大丈夫……」と、服をきたまま風呂に入ってきた。そして利恵の姿を見て「利恵さん!」と、目を見開いた。
愛衣の驚く様を見て利恵が首を傾げる。そして自らの異変に気付いた。
「え? 何これ?」
利恵の肩にはプロテクターのような防具が装着されていた。それは武器に施された装飾と対になっているように見える。
「利恵さん……それは……」
そう言って愛衣は利恵の裸に見入った。
確かにそれは奇妙な格好だった。裸なのに利恵の両肩には戦士のような肩当て、手首から肘にかけて剣道の籠手のようなものが装着されている。
あまりに愛衣が真剣に見るので利恵は急に恥ずかしくなってしまった。
「ちょっ! やだ! 愛衣さん!」
ところが利恵が素に戻ったところで不思議な防具はスッと色を失うように消えてしまった。それを見て利恵は訳が分からないといった風に首を傾げた。
愛衣も首を竦めて苦笑する。そして利恵に風呂を出るよう促した。
「湯冷めしてしまうわ。早く着替えた方がいい」
利恵は頷いて風呂から上がろうとした。そして先ほど自分に現れた変化について考える。おそらくあれは、和佳子のメッセージなのだろうと。そして、和佳子の能力を受け継ぐということは、彼女の無念を背負うことになるのだと。
* * *
玲実は梢が入れてくれた紅茶を飲みながら毛布にくるまっていた。室内は十分に暖まっているはずだが玲実の震えは止まらない。梢はソファの上で毛布を被って体育座りをする玲実を眺めながら困り果てていた。室内に望海の姿は無い。
「お姉ちゃん、どこ行ったんだろ……」
玲実に話しかけても返事は返って来ない。かといって望海はどこかに行ったきりだ。もともと小心者の梢にとって今日の出来事はあまりに酷すぎた。そのせいで罪悪感やこれからどうなってしまうのかという不安で精神的に参っている。あんなことがあっても平気な姉に対する不信感もある。本当は誰かと話したくてしょうがない。だが、玲実は夜になってもあの調子で話し相手にはならない。
その時、勢いよく玄関のドアを開ける音がした。梢が立ち上がって玄関まで姉を迎えに行く。そして雪まみれになった望海の姿を見て驚きながら文句を言う。
「お姉ちゃん! どこ行ってたのよう」
望海は片手で雪を払いながら「ゴメンゴメン」と、大して悪びれずに入ってくる。
「ああ、温かい」
そう言って望海はニッコリ笑う。
「もう。どこで何してたのよ? こっちは玲実ちゃんが塞ぎこんで大変だったんだから」
「そう。まだ駄目か……」
「ところで何? それ」
望海は左手に重そうな缶を持っている。直方体の缶は赤い塗色が所々剥げかかっていた。
「ああ。これね。ガソリンよ」
「ガソリン? なんでそんな物?」
「この辺りの家は結構、こういうのを持ってるんだよね。灯油でも良かったんだけど、やっぱりガソリンの方がいいから」
「ちょっと何言ってるのか分かんない。お姉ちゃん、何考えてるの?」
「それはおいおい話す。それと格好の場所を見つけたんだ。それを探してたから遅くなっちゃったんだよ」
それを聞いて梢は閉口した。話がまったくかみ合わない。というより、梢には望海の意図がまるで読めなかった。
「お姉ちゃん……よく平気だよね」
コートを脱いで髪の雪を落としていた望海がきょとんとする。
「え? 何が?」
「昼間の事だよ! 人が死んだんだよ? 何とも思わないの?」
そう問われて望海が一瞬、険しい顔つきを見せる。が、直ぐに口角を上げて答える。
「正当防衛だけど?」
「そ、そうじゃないでしょ?」
「殺らなければ、こっちが殺られてた。結果はともかくとして」
「でも! やっぱり良くないよ……こんなの」
望海はそれには答えず、無言で缶を床に置くと妹を押しのけてスタスタと歩きだした。。仕方なく梢がついていく。
望海はリビングに入ると、その暖かさに表情を緩めた。そして玲実に向かって声を掛ける。
「玲実ちゃん。今日はゆっくり休んでね」
望海の明るい口調に玲実が微かに反応する。梢も姉の行動に注目する。
望海はゆっくり椅子に腰かけながら言う。
「明日は忙しくなるから。みんな今夜は早く寝よ」
望海の言葉に梢は一抹の不安を覚えた。
「お姉ちゃん、忙しくなるって……何が?」
すると望海は得意気な顔をみせて答える。
「アイツ等を倒す為の準備よ。考えがあるの」
そう言って望海は何とも言えない微笑を浮かべた。




