1.
男は走った。まだ夜も明けぬ暗い暗い森の中を、ただ一心に走り抜けた。先ほどから、焼け爛れた右の顔がじくじくと痛み、赤い血がその肩にこぼれ落ちていく。歪む視界と靄のかかった頭で、それでも男は走りつづけた。
自分の人生はまだ長い長いはずなのだ。こんな何処とも知れぬ場所で朽ち果てるなど、男にはそれこそ耐えられなかった。
男は戦場から逃げ出して来ていた。自分の暮らしていた村と隣町は、長い間小競り合いをしていたが、とうとう人死にを出す程にまでに問題が発展してしまい、村の壮年の者たちを中心に、若い者まで息咳ききって戦に加わった。このような内乱自体は、自分たちの住む『秋』ではよくあることだった。諍いの理由はそれぞれあるものの、大概は皆、今より肥えた豊かな土地が欲しかったか、隣の奴らが気にくわないというだけだった。
男は背も高く、体格に恵まれてたので、戦場に到着するまで仲間たちに、お前がいれば必ず勝てると口々に励まされていたが、実のところ男はさっさと逃げてしまおうと考えていた。土地も驕りも男にはどうでもよく、こんなつまらない諍いよりも、ただ毎日を安寧に過ごしたかっただけなのであったのだ。
しかし、戦いが始まると皆一様に高揚しながら相手に襲い掛かっていってしまい、巻き込まれた男には逃げる暇もなかった。温かな血の臭いと怒声に酔った者たちは、男にも刃をかざし、男は仕方なく、相手の頭を叩き割ったり、脚を飛ばしたりしながら、何とか誰もいない森を目指して走っていった。
しかし、後もう少しという処で、興奮した誰かが野に火を放ち、多くの者たちが炙られながらその炎に舐められていった。悲鳴と奇声がつんざく中で、男は炎をよけて走る。と、男は倒れていた者に足首を掴まれ派手に地に転んでしまう。苛立たしげにその者を斬り伏せ立ち上がろうとすると、目の前の火がひときわ大きく爆ぜた。顔にまともに受けた火花に強い痛みを覚え、うずくまっていると、頭を上から押さえつけられ思い切り炎に顔を炙られた。例えようのない熱さ、痛みとじゅう、と焦げる肉の臭い。そして血生臭い吐息に男は絶叫を上げた。
半狂乱のまま茫々(ほうぼう)戦場を後にし、男はふらふらと森の中をさ迷った。何処を歩いたかも分からず、転げ落ちるように脚を進ませた男は遂にその膝を折る。地に伏せていると、ばたばたと遠くから足音が響いていた。もう、敵に追いつかれてしまったのだろうか。それとも、おいて逃げた味方が、自分に復讐をしに来たのだろうか。男は力なく地を拳に叩きつける。溢れるほどの涙が左目に溜まる。顔をひきつらせ、ふるふると身体の震えが止まらなかった。思わず、情けない悪態をこぼす。
「くそう…ちくしょう…、」
ふと、生臭い塩の臭いがした気がして視線を巡らせてみると、木々の間から、見たこともないほどの大きな川が横たわっていた。男は息をのみ、残された左目を大きく広げた。
その水面に映る黄金色の星々たちは、憎らしい程に美しかった。