レンズのむこう
理由もなく気持ちが沈んでしまう日というのはあるものだ。それも雨の日であれば、なおさら。
気分転換に部屋の片付けでもするかと体を起こせば、朝から家の中にたまった湿気のせいか、やたらと体が重く感じられた。
「おや」
片付けを始めてまもなくのこと、押入れに文字通り押しこめていた段ボールの中から、底の深い紙製の菓子箱を見つけた。手に取るとずっしり重みを感じる。中を見てようやく思い出したが、それはかつての私が宝物入れとして、大切に保管していたものだった。
親戚からもらった手作りのぬいぐるみ、お気に入りのカード、初恋の相手からむしり取った第三ボタン等々。思い入れたっぷりの品々が詰まっていたのだ。
そしてその中に、一本の万華鏡もまぎれていた。胴の部分が青っぽくつやつやとしていて、唐草模様が描かれている。一般的なものより少し高そうなつくり。これは確か、と記憶を辿れば、いつだったか家族と立ち寄った万華鏡の専門店で、記念に買ってもらった品であった。見た目だけではなく、見えるものも、普通とは違っていた気がする。
さっそく筒の端から覗いてみれば、いかにも万華鏡らしい極彩色の世界が広がった。けれどいくらそれを回転させても、目の前の模様が変化することはない。代わりに自分の体の向きを変えると、今度は多くの色がなめらかに回っていった。
この万華鏡は、筒の向こうに見える景色を鏡に反射させることで、美しい模様を生み出すという代物なのだ。
それまでどこかグレーに見えていた部屋も、レンズ越しに見ると案外カラフルに思える。これはいい物を掘り当てた、と万華鏡を覗いたまま、窓の方を向いてみる。雨に煙って色味を失ったはずの世界に、濃い赤色が点々と映えていた。あれは何かと自身の目で確かめれば、それは黒いアスファルトを辿りゆっくりとこちらへ向かう、一本の傘の色だった。
その傘の下に隠された顔は、どうやら何年か前に美術系の専門学校へ行ったきり、連絡を取らなくなった旧友らしい。あんなに、寂しい歩き方をする人だっただろうか。
「いい構図が、浮かばないんだ」
挨拶を交わし、お茶を挟んで一通り世間話に花を咲かせた後、やがて彼女は思い詰めたような表情で、静かにこう話しだしたのだった。
大切な展覧会に関わっているらしく、そこに出品するための版画が、どうしても完成しないのだという。
「今、周りに頼れる人があんまりいなくて。そんなとき、きみの顔が浮かんだ」
「頼ってくれたのは、嬉しいけど」
その悩みは絵の知識なんてさっぱりの私が、易々と助言できるものではないように思えた。
「それは?」
そう言って友人が指した先には、先ほど発掘したばかりの万華鏡がある。
「これは……世界がきれいに見える魔法の筒、かな。覗いてみる?」
彼女は「何それ」と笑いながら万華鏡に目を当て、私の方を向いてまた一つ笑った。
「万華鏡じゃん。ふふ、でもきみの顔がある」
「面白いでしょ」
「うん。あれ、何か嫌なことでもあった?」
不意にそんなことを言われ、私は不思議な気持ちでいっぱいになった。
「まあ、ちょっと落ち込んではいたけど、でもどうして……」
「いや、これできみを見たら、何となくね。そっか、落ち込むこと、あるのかあ」
顔を離し、ひとり嬉しそうにしている彼女が不満で、私は少しだけふてくされる。
「どういう意味」
「自分と違ってきみは行動派だったから、そういうのとは無縁なイメージがあったんだ。だから、ちょっと安心しちゃって」
いくらか穏やかな表情を取り戻した彼女は、しばらく万華鏡の青い胴体を見つめた後で、再び「ねえ」と口を開いた。
「これ、少しのあいだ貸してもらえないかな」
数ヶ月後、家に万華鏡と、お礼のメッセージが書かれた一枚の絵はがきが届いた。宝物の帰宅に喜ぶ一方で、私は小さな紙の片面に印刷されたイラストに、思わず目を奪われてしまう。それは、いつかの友人が展覧会に出品したという、大作の写しだった。
たくさんの色が鮮やかに散らばり、複雑に重なり合いながらも、まとまりを感じさせる繊細さはまるで、万華鏡を覗いた感動そのままのように美しい。
ところどころに描かれた人は、ひょっとして、私がモデルなのだろうか。笑っていたり悲しげだったりと、様々な表情を見せる同じ人間の顔。何やらくすぐったい気分になる。
あの日、万華鏡からこちらを覗き見た彼女の目には、こんなに多彩な私が映っていたのか。
これは、前にどこかの賞へ提出するために書いた作品でした。結局何の賞にもならなかったようなのでここにこっそり晒しておきます(笑)
確か、テーマが「万華鏡」で2000文字以内の小説、という条件だったはずです
実はこれに出ている万華鏡と全く同じ物を、すでに投稿した作品の中でも書いてしまっているのですが、まあ気にしない方向でいきましょう
それでは、ここまでお目通しくださりありがとうございました