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第1話 草売りと覇侯

冷たく湿った風が、鬱蒼と生い茂る針葉樹の隙間を縫うように吹き抜けていく。

陽の光さえ満足に届かない薄暗い黒暗谷の斜面は、前日からの止まない雨によってひどくぬかるんでおり、足を一歩踏み出すたびにズブズブと泥が足首まで飲み込もうとしてくる。腐葉土と獣の死骸が混ざり合ったような独特の饐えた匂いが鼻を突く中、常人であれば歩くことすら困難なこの悪路を、一人の青年が軽やかな足取りで駆け上がっていた。

青年の名はジンといった。

年齢は二十歳に届くかどうかといったところだ。着ているものは泥と樹液で汚れきった粗末な麻の単衣のみで、足元はすり減って切れかかった草鞋。背中には、彼自身の背丈の半分ほどもある巨大で使い古された竹籠を背負っている。体格は決して大柄ではなく、むしろ過酷な生活を物語るように痩せぎすに見えるが、まくられた袖から覗く腕や、泥に塗れたふくらはぎには、厳しい自然環境と飢えの中で研ぎ澄まされた鋼のワイヤーのような筋肉が密に詰まっていた。

「……よし、ここにはまだ手つかずの群生があるな」

ジンは急斜面の途中でピタリと足を止めると、苔生した巨大な岩の陰にひっそりと生えている、紫色の葉を持つ植物を見つけ、満足げに口角を上げた。彼が腰に提げた、刃こぼれだらけの錆びた小刀を引き抜き、根を傷つけないように手早く、かつ慎重にそれを刈り取っていく。

それは止血と鎮痛に絶大な効果をもたらす『紫痕草』と呼ばれる薬草だった。戦傷者に飛ぶように売れるこの草は、険しい山の奥深くにしか自生しておらず、ジンにとって最も割のいい飯の種であった。手に入れた分だけ、今日の、そして明日の命を繋ぐことができる。

ジンは手慣れた動作で薬草を籠に放り込みながら、ふと視線を上げて、木々の隙間から覗く鈍色の空を見つめた。

彼が生まれ育ったこの世界は、果てのない戦乱の只中にあった。

街の古老たちが焚き火を囲んで語る伝承によれば、今からおよそ二百年前、この世界は得体の知れない悪魔の手によって一度破滅の危機に瀕したという。その絶望の淵から人々を救い、世界を一つに統一へと導いたのが、伝説に謳われる『白き王』と無数の『赤き天使たち』であった。

しかし、彼らが歴史から姿を消して以降、世界は再び無数の勢力に分裂した。かつて存在したとされる、空を飛ぶ鉄の塊や、夜を昼のように照らす光といった高度な文明の知識や技術は完全に失われ、今や人々は弓を引き、剣を振るい、槍を突き合わせるだけの、野蛮で血生臭い時代へと退行していた。

力こそが全て。己の覇道をもって領土を支配する国主たちは『覇侯』と呼ばれ、終わりのない領土争いを繰り広げている。昨日まで平和だった村が、今日は他国の軍勢に踏みにじられ、灰燼に帰す。それがこの世界の当たり前の日常だった。

だが、そんな大層な歴史や覇侯たちの高尚な野望など、最下層の民であるジンにとっては路傍の石ころほどの価値もなかった。

「白き王だの覇侯だの、偉い奴らがどれだけ高尚な理念を掲げて殺し合おうが知ったことじゃねえ。俺は今日の飯が食えて、明日も息ができればそれでいいんだ」

ジンは鼻を鳴らし、再び薬草積みに専念しようとした。

その時だった。

風に乗って、微かな音がジンの耳を打った。

硬いものがぶつかり合う音。甲高い金属の摩擦音。そして、獣の咆哮にも似た人間の怒声と悲鳴。

ジンは即座に身を低くし、周囲の気配を探った。野生の勘が、この先に致命的な危険が潜んでいることを告げていた。戦場に近づくことは死を意味する。しかし、音の出処は谷のさらに下、ジンが登ってきた獣道の入り口付近からだった。このまま山を登っても行き止まりだ。ジンは竹籠を背負い直し、足音を完全に殺しながら、音のする方へと斜面を慎重に下り始めた。

巨大な岩の陰から眼下を見下ろしたジンの目に飛び込んできたのは、赤黒い血に染まった凄惨な殺し合いの光景だった。

「あれは……煌州の兵か。となると、追われているのは最近しゃしゃり出てきた黎州の連中だな」

ジンは目を細め、状況を冷静に分析した。

谷底で包囲され、絶望的な防衛戦を強いられているのは、ジンが暮らす一帯を最近になって支配し始めた新興勢力『黎州』の小部隊だった。数は二十にも満たない。装備は粗末で、各々がバラバラの武具を手にしており、統率も乱れかけている。

対するは、黎州の隣に位置する大国『煌州』の兵たちだ。数は五十以上。彼らは煌州の覇侯であるギエンの軍であり、伝統と格式を重んじるその軍装は見事に統一され、動きの練度も高かった。

「ちぃっ……! 怯むな! ここで抜かれれば、本陣の側面を突かれるぞ! 意地でも押し返せ!」

黎州の部隊長らしき男が槍を振り回し、顔面を血まみれにしながら部下を鼓舞しているが、多勢に無勢であることは誰の目にも明らかだった。煌州の兵たちは巨大な鉄盾を構え、じわじわと黎州の兵たちを谷の奥、つまり逃げ場のない死地へと追い詰めていく。陣形を崩さず、確実に敵の体力を削っていく正攻法。大国の余裕すら感じさせる戦いぶりだった。

(このままじゃ、黎州の連中は一刻もたずに全滅だな)

ジンは岩陰で顎に手を当てた。

黎州の兵が死のうが生きようが、ジンには一切関係のないことだ。むしろ、戦が終わった後に転がった死体から金目のものを剥ぎ取るチャンスですらある。しかし、問題はその後だった。

煌州の覇侯ギエンは、古き良き戦の作法を重んじるがゆえに、敵対勢力の拠点周辺の山野を「伏兵が潜む可能性がある」という理由だけで、徹底的に焼き払う悪癖があった。もしこの部隊が突破され、煌州の軍勢がこの黒暗谷を制圧すれば、間違いなくこの山にも火が放たれる。

「冗談じゃねえ。俺の大事な畑を燃やされてたまるか。明日からのメシの種がなくなるだろうが」

ジンは忌々しげに舌打ちをすると、背中の竹籠を音を立てずに下ろした。そして、その中から幾つかの奇妙な植物を取り出した。

一つは、乾燥してカラカラになった茶色い球状のキノコ『煙玉茸』。衝撃を与えると強烈な刺激臭のある粉末を撒き散らす厄介な代物だ。もう一つは、触れるだけで皮膚に激しい炎症と痒みを引き起こす『火喰い蔓』。そして、先ほど採取したばかりの、強い痺れをもたらす毒草の根である。

ジンはそれらを素早い手つきで一つの麻袋に詰め込み、さらに懐から火打ち石を取り出した。

「風向きは……上から下。谷底へ一直線に吹き下ろしている。完璧だな」

ジンはニヤリと笑うと、足元の湿っていない枯れ葉を集めて小さな火種を作り、そこに麻袋を放り込んだ。

シューッという不気味な音と共に、麻袋の中から猛烈な勢いで黄色く濁った煙が噴き出し始める。ジンは煙を少しでも吸い込まないように口元を布で固く覆いながら、その発煙筒と化した麻袋を、思い切り谷底の煌州兵たちの頭上へと蹴り落とした。

斜面を転がり落ちた麻袋は、煌州軍の中央、盾を構えて密集していた部隊のど真ん中に落下した。

「なんだ、あれは!?」

「上から何かが落ちて……ぐわっ!?」

「ゲホッ、ゴホッ! め、目が……! 息ができないッ! なんだこの煙は!」

谷底に落ちた麻袋から噴出する毒煙は、谷に吹き下ろす強風に乗って、あっという間に煌州の部隊全体を飲み込んだ。

煙玉茸の強烈な刺激臭に加え、火喰い蔓を燃やしたことによる化学物質が兵士たちの目と鼻の粘膜を容赦なく焼き、さらに毒草の成分が呼吸器から入り込み、彼らの四肢から自由を奪っていく。

先ほどまで整然としていた煌州の陣形は、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。鉄盾を放り投げて両手で目を掻き毟る者、地面を転げ回って胃液を嘔吐する者、互いにぶつかり合いながら盲目的に逃げ惑う者。完全なパニック状態だった。

「今だ! 反転攻勢! 敵の陣形が崩れたぞ! 一気に押し込め!」

状況を正確には理解できないまでも、この千載一遇の好機を逃すまいと、黎州の部隊長が枯れた声で叫んだ。毒煙の影響が薄い風下にいた黎州の兵たちは、混乱の極みにある煌州兵たちに一斉に襲いかかった。

先ほどまでの圧倒的な優劣は完全に逆転した。目が見えず、息もできず、手足が痺れた状態では、いかに練度の高い兵士であっても案山子と同然である。次々と刃に倒れる仲間を見て、残った煌州の兵たちは軍の規律も忘れ、算を乱して谷の入り口へと敗走していった。

「ふう、上手くいったな。さてと……お宝の回収といくか」

ジンは煙が完全に晴れるのをじっと待ってから、ゆっくりと斜面を下り始めた。

彼の目的は、逃げ遅れて息絶えた煌州兵たちが残していった質の良い武具や、革袋に入った水筒、あるいは懐の小銭を回収することだった。大国煌州の装備は質が良く、これらを闇市で売り捌けば、しばらくは危険な山に入らずとも遊んで暮らせるほどの金になる。

黎州の兵たちは追撃に向かったのか、その場にはもう誰の姿もなかった。静まり返った谷底には、雨の音と、倒れた兵士たちの血の匂いだけが立ち込めている。ジンは鼻歌交じりで、倒れている恰幅の良い兵士の腰から、見事な装飾が施された短刀を拝借しようと手を伸ばした。

その時である。

「――こそこそと死体の身ぐるみを剥ぐとは、随分と底意地の悪いネズミがいたものだ」

背後から掛けられたその声は、決して怒鳴り声ではなかった。むしろ静かで、落ち着きすら払っていた。しかし、その声はジンの全身の産毛を総毛立たせ、内臓を冷たい手で鷲掴みにされたかのような異様な威圧感を放っていた。

ジンは弾かれたように振り返り、そして息を呑んだ。

そこには、一人の若い男が立っていた。

年齢はジンとそう変わらないだろう。しかし、その存在感は、辺りの空気を支配するほどに圧倒的だった。

漆黒の無骨な軽鎧を身に纏い、肩には巨大な狼の毛皮を羽織っている。長く伸ばした黒髪は無造作に後ろで束ねられ、雨に濡れて額に張り付いている。その下にある双眸は、まるで眼下の獲物を品定めする猛禽類のように鋭く、底知れない深く暗い光を宿していた。

何よりもジンの目を引いたのは、男が右手に無造作に提げている武器だった。

それは、通常の剣の概念を根底から覆すような、男の身の丈ほどもある巨大な鉄の塊――大剣だった。刃は分厚く、無骨で、斬るというよりは対象の骨と肉を鎧ごと粉砕するための攻城兵器のように見えた。常人ならば両手で持ち上げることすら不可能であろうその鉄塊を、男は片手で、まるで木の枝でも扱うかのように軽々と持っている。

(やべえ……こいつは、絶対に関わっちゃいけない類の人間だ。目が違う。俺たちみたいな這いずり回る虫を見る目じゃねえ。もっと高いところから、世界そのものを見下ろしてるような目だ)

ジンの本能が、心臓を早鐘のように打たせながら激しく警鐘を鳴らしていた。逃げろ、と全身の筋肉が叫んでいる。だが、男の放つ重圧に縫い付けられたように、足が一歩も動かなかった。

男はゆっくりと歩み寄り、ジンの足元に転がっている不自然に焼け焦げた麻袋の残骸に目を落とした。

「我が軍の小隊を救ったのは、貴様か。あの奇妙な色の煙、一体誰の入れ知恵だ?」

地を這うような低い声で問われ、ジンは冷や汗をかきながらも、必死に平常心を装い、努めて飄々とした態度を取り繕った。ここで怯みを見せれば、一瞬で命を刈り取られるという確信があったからだ。

「誰の入れ知恵でもねえよ。俺はただのしがない薬草売りだ。山で飯を食うための知恵を、ほんの少し使っただけさ。あんたらの小隊を助けたのは偶然だ。俺の仕事場をあいつらに燃やされちゃ、明日からのメシに困るからな。それだけのことだ」

「ほう」

男は興味深そうに目を細め、ジンの泥だらけの姿を上から下まで嘗め回すように見た。

「身分も剣術もない最下層の民が、山野の知識と地形の利だけで、大国煌州の正規兵を蹴散らしたか。……兵法ではなく、生き汚い生存術というわけだ」

「生き汚くて悪かったな。俺たち下民は、そうやって泥水啜ってでも生き延びるしかねえんだよ。伝統だの格式だの、小綺麗なことをほざいてる暇があったら、明日の飯を探すのが俺たちの戦なんだ。あんたらみたいに、無駄な血を流して領土遊びをしてる連中とは違うんでね」

ジンは相手が何者であろうと、自分の生き方を否定されることだけは我慢ならなかった。思わず鋭く言い返してしまった直後、ジンはしまったと後悔した。相手のあの大剣で、脳天から真っ二つにされる光景が脳裏をよぎり、ジンは咄嗟に身構えた。

しかし、男は怒るどころか、その口元を三日月のようにつり上げ、腹の底から響くような声で笑い始めた。

「クックック……ハハハハハ! 良い! 実に良いぞ! 伝統、格式。そんなカビの生えた虚飾に塗れたこの腐った世界に、貴様のような泥臭い執念こそが必要なのだ!」

男の笑い声が、雨の降る谷底に雷鳴のようにこだまする。ジンは困惑しながら、その狂気すら孕んだ様子を見つめていた。

「白き王が遺したというこの停滞しきった乱世。血筋や身分だけでふんぞり返る豚共が支配するこの大陸を、俺は力で叩き潰し、全てを更地にする。実力のみがモノを言う、新たな世界を創り上げるためにな」

男は巨大な剣を肩に担ぎ上げ、ジンを真っ直ぐに見据えた。

その瞳に宿る圧倒的な野心と、周囲を焼き尽くすような強烈なカリスマ性に、ジンは思わず息を呑んだ。恐怖とは違う、魂を揺さぶられるような感覚だった。

「俺の名はソウガ。黎州を束ねる覇侯だ」

その名を聞いて、ジンは目を見開いた。

最近になってこの一帯を圧倒的な暴力で平定し、古いしきたりを次々と破壊しているという新進気鋭の若き覇侯。それが、目の前にいるこの男だというのか。覇侯自らが、こんな辺境の戦場に単身で現れたというのか。

「泥まみれの薬草売りよ。貴様のその腐肉に群がるような生き汚さと、常識に囚われない発想。俺の覇道にはそれが必要だ」

ソウガはジンの足元に、どこからか拾い上げた一本の粗末な足軽用の槍を放り投げた。泥水が跳ね、ジンの頬を打った。

「選べ。このまま一生、山で草を摘みながら、いつか他国の兵に殺される日を怯えて待つだけのネズミとして生きるか。それとも、俺の足軽となり、この腐った世界を喰い破る狼となるか」

覇侯からの直接の勧誘。それは、最下層の民であるジンにとって、普通ならば天地がひっくり返ってもあり得ない出来事だった。

足軽になれば、最前線で命を落とす危険は常につきまとう。今までのように逃げ回るだけの人生では済まなくなる。しかし、少なくとも飢え死にする心配はない。何より、目の前のこのソウガという男が放つ、熱病のような強烈な引力に、ジンは抗い難い魅力を感じていた。この男について行けば、退屈で惨めなこの日常が、根本から覆るかもしれない。

ジンはゆっくりとしゃがみ込み、泥にまみれた冷たい槍を手に取った。

その重みと感触を確かめるように強く握り締めると、不敵な笑みを浮かべてソウガを見上げた。

「……狼って柄じゃねえよ。俺はどこまで行っても、泥まみれの雑草だ。だが、雑草の根っこがどれだけ深くしぶといか、偉い奴らに教えてやるのも悪くねえな」

「ふっ、ならばそのしぶとさ、存分に示してみせろ」

ソウガが踵を返し、雨の降る谷の出口へ向かって歩き出す。

ジンは背中の巨大な竹籠をその場に惜しげもなく投げ捨てると、手にした槍を杖代わりに立ち上がり、新たな主君の巨大な背中を追って歩き始めた。

二百年続く絶望の乱世。

名もなき最下層の薬草売りが、後に世界を統一する覇王へと至る、果てしなく泥臭い覇道の幕開けであった。

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