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9・光る石ころ


 詰所を一歩踏み出した途端、女の足取りは鉛のように重くなった。


 先ほどまでの傲然とした態度は消え去り、その肩は落胆に震えている。手にした見たこともない大金は、高揚感をもたらすどころか、女の気力を根こそぎ奪い去っていた。


 張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。


 女を突き動かしていたのは、『幼き命を守らねばならない』という使命感と、あまりに冷酷な周囲への激しい『怒り』だった。泥にまみれてもあの子だけは――その決意に酔うことで、かろうじて自我を保っていたのだ。


 しかし、いざ『金貨』という解決策を突きつけられたとき、襲いかかってきたのは安堵ではなく、言いようのない自己嫌悪だった。


(私が挑もうとしていた困難も、絶望も、あっさりと金貨で片がつく)その事実は、女の自尊心を無慈悲に踏みにじった。自分を支えていたあの燃えるような怒りも、夜も眠れぬほどの悲愴な決意も、この光る金属の塊を前にすれば、何の価値もなかったのだ。結局、自分もこの汚れた世界の歯車に過ぎなかったのではないか。


 交錯する想いに翻弄され、我知らずのうちに、女は救いを求めるように再び地下へと足を進める。今や女にとって、守るべきはずの赤児こそが、唯一の心の拠り所となっていた。


 一段下りるたびに、周囲を威嚇していた眼光は失われ、強張らせていた肩の力が抜けていく。重い鉄扉を押し開ける頃には、女はただの、迷い傷ついた『少女』へと、立ち返っていた

 重い鉄扉を押し開けた先。懲罰房は変わらぬ冷気と静寂に包まれていた。わずかな月明かりが、部屋の隅で丸まる小さな塊を、かすかに浮かび出している。


 少女の足音が、心許なく響いた。その音に反応したのか、赤児が身じろぎをする。毛布の端から覗いた手が、無意識に誰かを求めて空を掻いた。


「――――っ」 その瞬間、少女は力なく石床に膝をつく。革袋を取り落とした。傾いた袋の口から金貨がこぼれ出す。チャリン、と。


 静寂には不釣り合いな、乾いた音が響いた。 金貨は、月明かりを冷たく反射しながら転がっていく。かつてはあれほど渇望し、そのためになら魂さえ売れると信じていた。しかし今、目の前に散らばるそれは、ただの『光る石ころ』にしか見えなかった。


 少女が感じたのは、拾い集めようとする焦燥ではなく、吐き気を催すほどの拒絶感だった。その黄金の輝きは、おぞましいほどに醜悪だった。


 少女は金貨をかき分け。這うようにして赤児に寄り添い、震える指先で柔らかな頬に触れる。金貨の冷たさとは対極にある、もろく、しかし確かな命の温もり。赤児は目を覚ますことなく、信頼しきった様子で少女の指に頬を寄せた。


 その無垢な仕草が、少女の胸を容赦なく締め付ける。庇護者として守っているつもりでいたが、本当にこの暗闇の中で守られていたのは、どちらだったのか。


 答えを求めるまでもなかった。


 少女は赤児を壊れ物のように抱き寄せ、その小さな胸に顔を埋めた。溢れ出した涙が衣を濡らしたが、拭おうともしなかった。ただの暗闇の中で、静かに、しかし激しく、むせび泣いた。


 嗚咽が壁に反響しては消えていく。その気配が伝わったのか、腕の中の赤児がむずがり、ゆっくりと瞼を持ち上げた。少女の肩がびくりと跳ねる。見られてはならない姿を見られた羞恥。己の弱さへの嫌悪。 慌てて顔を伏せようとしたその時、冷え切った頬に、温かな感触が触れた。


 赤児の小さな手のひらだった。涙の跡をなぞるような、おぼつかない指先。言葉を持たない赤児の純粋な『肯定』が、少女の強張った心を静かに解かしていく。暗い部屋の中で、反響していた嗚咽は止まり、代わりに重なり合う二人の鼓動だけが響き始めた。


 その純粋な優しさが、女の胸の奥に深く突き刺さった。もはや金貨の重みも自尊心も、何の意味も持たなかった。 堪えきれず、赤児の胸に額を押し当てる。


 庇護者という名の傲慢な鎧が、粉々に砕け散った。


「……ごめんね」誰に向けたものか分からぬ謝罪を口にし、少女はただ、赤児の背中に回した腕に力を込めた。 赤児は、ただ少女に向けて精一杯腕を伸ばし、小さな体温を分け与え続けた。床に転がった革袋は、もはやただの汚れた袋でしかない。


 境界は消えた。そこにあるのは、冷酷な世界に打ち捨てられた二つの魂が、互いの体温だけを頼りに震える、剥き出しの命だけだった。


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