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 8・ご苦労さま!

 

 女は懲罰房を後にした。


 扉を閉じ、鍵を掛ける鈍い音は、女の過去を封印する弔いの鐘だった。


 地下の階段を上る足取りには、迷いの欠片もない。一段ごとに鼻を突くカビの臭いが薄れ、代わりに詰所から流れてくる安煙草の煙と、男たちの獣じみた体臭が混じり合う、現実の空気が近づいてくる。かつての少女なら嫌悪に顔をしかめたであろうが、今の女にとっては、これから利用すべき世界の匂いに過ぎなかった。


 階段を上り切り、地上階の石造りの廊下に出る。壁に掛けられた油灯が不規則に揺れて、彼女の影を壁に長く、歪に引き延ばした。詰所の角を曲がると、磨りガラスの向こうから漏れ出す橙色の光が、廊下の闇を中途半端に切り取っていた。中で談笑する衛兵たちの低い笑い声と、時折響く硬貨の触れ合う音。女は一度だけ足を止め、深く息を吸った。冷えた冬の空気が肺を満たす。


 詰所の前を通りかかる際、扉が開いた。交代のために出てきた一人の衛兵と、正面から視線がぶつかる。

「……あ?」衛兵の声が、驚きにかすれた。


 そこにいたのは、いつも怯えた瞳で影のように存在を消していた、あの『懲罰房の小娘』ではなかった。濡れたような瞳に宿る、底知れない冷ややかな光。顎の線を引き締めるのは、揺るぎない決意。油灯の灯りが影を落とす、その容貌に、男は言葉を失った。


 女は立ち止まらず、ただ、すれ違いざまに視線だけを男に絡ませた。


「おい、待て……」背後からかかった呼び声は、規律違反を咎めようとしたものではない。変貌を遂げた女の『存在感』に、本能が警鐘を鳴らしたのだ。このまま行かせてはならない、何かが取り返しのつかないことになる――。


 衛兵は己の震えを誤魔化すように、強引な手つきで女の肩を掴もうとして、その指先が触れる直前に止まった。女の眼光に、喉がせり上がる。彼はたまらず、仲間がいる詰所の中へと彼女を促した。多勢の中に引きずり込まねば、自分の形勢が保てないと直感したのだ。


 詰所の中には五人ほどの衛兵が車座になり、寒さしのぎの酒をあおっていた。 だが、扉が開くと同時に下品な笑い声は止み、博打の札を繰る手も止まる。誰が言い出すでもなく、視線は一点――女へと注がれた。 そこにいたのは、かつての『懲罰房の小娘』ではない。その存在感に男たちは気圧され、ただ目を見開く。


  沈黙を破ったのは、最古参の衛兵だった。彼は吸い寄せられるように立ち上がると、腰の古びた革袋を震える手で外した。

「……今度あんたに会ったら渡せと、そう頼まれていたんだ」


 女は革袋を受け取った。ずっしりとした重みが掌に残る。手垢で黒ずんだ革からは、すえた匂いが漂った。革紐を解けば、中には鈍く光る金貨が詰まっている。


 最古参の衛兵は聞かれてもいないのに言い訳がましく、「俺は、くすねてないからな。中身は、そのまま手付かずだ」


 女はその言葉を聞き流した。誰が渡してくれたのか訊ねもしなかった。 これが子爵夫人からの慈悲か、子爵本人の罪滅ぼしか、あるいは夫人を疎む側室の意趣返しか。そんなことはどうでもよかった。


 神様が奇跡を起こして、施しを授けてくれたなどとは、欠片も思わない。神様にしては救いの手を、差し伸ばすのが、あまりに遅すぎた。


「ふんっ!」女は不満げに小鼻を鳴らす。


 これは不幸な境遇に置かれた『幼き命』が持つ、当然の権利なのだという思いしかなかった。


 女は革紐を締め直し、その袋を無造作に懐へねじ込んで、何の感情もこもらない声音で放り投げるように、ただ一言。


「ご苦労様」

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