7・凄絶なる覚醒
限界は、とうに過ぎていた。
追い詰められた少女に残された選択肢は、もう、底をついていた。身を持ち崩し、無垢な『少女』を捨てて『女』という武器を使い、泥まみれになって地を這ってでも生き抜くか。それとも、あの『幼き命』とともに罪人として果てるか。
薄暗い部屋の空気は重く沈み、微かな物音さえ響く。過去の自分を振り返り、現在の厳しい選択肢が目の前に立ちはだかる。
(夜に考え事をすると悪いことしか考えない……駄目ね)少女は、同室の者たちを起こさないように気を遣いながら、そっと寝床を離れた。
立ち上がった瞬間、心に芯が通ったような感覚があった。(泥を啜ってでも、生きてやる) 不思議なほど、感情の波は昂っていた。
少女は静かに、自分の中に残っていた『清らかな少女』を殺した。
少女は胸の奥で息づいていた過去の自分自身と決別した。その別れの痛ましささえ、今の少女には遠い日の出来事のように感じられた。
もはや、その瞳に迷いはない。板張りの廊下は、冬の夜気を吸って氷のように冷え切っていた。かつての少女なら、その冷たさに肩を震わせ、闇の深さに足をすくませていただろう。だが、今の少女、いや『女』は違う。冷たささえも受け入れ、音もなく闇を切り裂いて進む。その足取りには、怯えもためらいもなかった。
地下へと続く重い扉の前に立つ。錆びついた取っ手を握る手に、一切の澱みはなかった。鈍い金属音が静寂を乱すが、女は眉ひとつ動かさない。鍵を預かり、衛兵に声を掛ければ自由に出入りできるとはいえ、この時間だ。見咎められる恐れはあったが、今の女を支配しているのは、冷徹なまでの目的意識だった。
階段を一段下りるごとに、光が遠ざかっていく。 鼻を突く湿った石壁のカビの匂いと、逃げ場のない冷気。そこは死の気配が濃厚に漂う場所だったが、女にとっては今や、ただの通路に過ぎなかった。
鉄扉を開け、漆黒の懲罰房へと足を踏み入れる。 気配を察したのか、あるいはただ寒さに震えていたのか。微かな衣擦れの音が、部屋の隅から聞こえた。
女は膝をつき、迷うことなくその小さな命を腕の中に引き寄せた。 氷のように冷え切った彼女の指先が、赤児の柔らかな頬に触れる。
滑稽な話だった。女は、自分をこれほどにまでに苦しめ、自分を地の底に落とした元凶に、救いを求めようとしているのだ。かつては『汚れた手で触れること』を詫びていた女だが、今は違う。その腕に込める力は、慈しみというよりは、執着に近い強さを帯びていた。
「……もう、泣かなくていいのよ」暗闇の中で、女は低く、掠れた声で囁いた。
言葉の意味など解るはずもないのに、赤児は暗闇の中で、満面の笑みを浮かべると、その小さな手を精一杯のばして、女を抱き寄せようとする。自分を破滅させた元凶であるはずの命が、今この瞬間、自分を救う唯一の光になる。その皮肉な構図こそが、彼女に『女』として生き抜く歪な活力を与えた。腕の中の赤子を抱き上げる。その重みは、女が今しがた捨て去った『良心』や『誇り』よりも、ずっと重く、確かな感触だった。
女の瞳は、もはや光を反射しない。 ただ、この小さな温もりを守り抜くためだけに、女は地獄の底を泥まみれになって這いずり回る覚悟を、決めていた。
女は名残惜しそうに赤児の手を解き、寝藁にそっと戻す。赤児は彼女の意思を悟ったかのように、ぐずる様子もなく、静かに瞼を閉じた。
彼女は決意を込めて立ち上がる。「――――っ!」音にならない気合で、胸に渦巻く未練を圧し殺した。そうでもしなければ、この場を去ることはできなかった。踵を返したその横顔からは、幼さが完全に削ぎ落とされていた。
闇の中に浮かび上がるのは、業を背負った、凄絶なまでに美しい『女』の貌だった。




