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 6・地下の過酷な献身  


 少女の生活は過酷を極めた。


 正妻の悪意は、屋敷の隅々にまで行き渡り、地下へと続く空気さえも刃のように尖らせ、少女に向ける周囲の視線はどこまでも冷酷だった。赤児に与えられた居場所は、出生そのものを罪と見做し、罰するかのような地下の懲罰房のみ。そこに幽閉された『幼き命』の世話を命じられた少女は、日々の重労働の合間を縫って、幾度となくその底冷えする暗がりへと降りていかねばならなかった。

 

 正妻がこの役目を与えたのは、幼き命を生き永らえさせる為の慈悲などではない。忌まわしき者同士、地下の泥にまみれて共に朽ち果てさせるためだ。少女に与えられるのは、その日の命を繋ぐ最低限の食事と、わずかな身の回りの備品のみ。給金を貰えるほどの立場ではなかった。


 少女は夜も更けて、屋敷が眠りに落ちた後に、人知れず他者の雑用を肩代わりし、僅かばかりの小遣い銭を稼いだ。その金で薪を買い、湯を沸かし、わずかばかりの牛乳と、亜麻布を手に入れる。身を削るような献身によって、彼女はただ存在を許されただけの孤独な命を、かろうじて守り抜いていた。


 日々の雑務を片付けるたび、重い鉄扉を開けて地下へ降りる。疲労と空腹で眩む意識をこらえ、震える手で赤児の汚れを拭い、排泄物を処理していく。扉を閉めるたび、重厚な金属音が少女の背を打ち据える。通路の光が細い線となり、やがて消失する。そこは世界から見捨てられた二人だけの、あまりに冷たい聖域だった。


 やがて、厳しい冬が訪れる。


 少女の吐息が白く闇に消えるなか、震える手で手繰り寄せた古びた布。それを、赤児の肌へ幾重にも押し当て、ツギハギだらけの毛布でくるむ。胸の奥で燃え続ける『この命を絶やさない』という意志だけが、地下の暗がりに灯る唯一の光だった。


 冬が深まるにつれ、壁面は湿った冷気を孕み、薄氷のような結露が少女の体温を容赦なく奪っていく。水仕事と寒風に裂かれた指先から滲む鮮やかな赤色が、赤児を包む布をじわりと汚した。


「ごめんね」少女は、自身の傷の痛みなど忘れたかのように、荒れた手が赤児の汚れなき肌に触れることを、申し訳なさそうに詫びるのだった。

 

 正妻の監視は日増しに厳しくなり、少女が密かに得ていた僅かな『自由』も、文字通り塗り潰されていった。食料の備蓄も少なくなったのか、与えられる食事は家畜の餌と代わり映えのしない、硬いライ麦パンと、野菜の切れ端が浮かぶ、塩で味付けされただけのスープのみとなった。


 赤児が以前よりもしっかりと指を吸い、ただ乳を探すだけではなく、何かを求めるように口を動かすようになったとき、少女は気づいた。もう、液体だけではこの小さな命は満たされないのだと。わずかな食料が尽きかけ、希望が見えない地下の暗闇で、赤児の成長は喜びであると同時に、新たな困難の始まりでもあった。


「よし、待っててね。美味しいもの、作ってあげるから」少女は、自分が分け与えられたライ麦パンの切れ端を手に取った。スープの野菜を手に取った。そのままでは、もちろん赤児には硬すぎる。少女は覚悟を決め、それを自分の口に含んだ。飢えに耐えながら、自分の唾液で少しずつ湿らせ、奥歯で根気強く、丁寧に噛み砕いていく。胃が収縮し、今すぐにでも飲み込みたいという衝動に駆られるが、少女はその誘惑を押し殺す。


「私は、まだ大丈夫」


 少女は自分に呪文のように言葉を投げかけ、十分に柔らかく、赤児でも食べられる状態になったパンを、指先で注意深くすくい取る。暗闇の中、手探りで赤児の小さな、開かれた唇を見つけ、温かい粥状のそれを優しく押し当てる。最初は戸惑っていた赤児だが、本能的にそれが栄養であることを理解したかのように、小さな舌を動かし、懸命に飲み込み始めた。


「どうかな…美味しくないよね?ごめんね、これしかなくて…」自分の命を繋ぐはずだった栄養が、指先から赤児へと移っていく。それは、この過酷な世界で、少女がこの小さな命を育んでいる確かな証だった。離乳という、本来ならば明るい成長の過程が、この場所では、少女が自らの命を『幼い命』に譲り渡す静かで切ない儀式のように見えた。


 蝋燭を買う余裕すら失い、懲罰房は完全な漆黒に包まれた。視覚を奪われた世界で、少女の神経は腕の中にある赤児の重みと、その微かな呼吸音だけに集約されていく。己の輪郭が闇に溶け、消えてしまいそうな錯覚に陥った。


 ――その時、赤児の小さな手が少女の指をぎゅっと握り締めた。


 それは本能的な反射に過ぎなかったかもしれない。けれど、冷え切った指先に伝わる確かな温もりは、少女の魂を震わせるには十分だった。言葉を超えた『ありがとう』が響き、通い合った心の証。


 乾いた唇から、慈愛に満ちた感情が、吐息となって零れ出る。


 その瞬間だけは、空腹の疼きも、正妻への怯えも、凍てつく石床の冷たさも、すべてが霞んでいった。


『幼き命』の小さな指の力が、彼女の折れそうな心を繋ぎ止める、唯一の支えとなっていた。


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