5・漆黒の瞳、運命の交錯
「………黒髪」
その一言が、触れれば砕け散る氷のような冷たい静寂を広間にもたらした。正妻の眉間には、もはや感情すら凍りつかせたような鉛色の深い縦じまが刻まれている。緊張で満たされた空気の中、居並ぶ衛兵たちの額からは、冷たい汗が、一筋また一筋と伝い落ちた。
ただ、その張り詰めた気配をどこ吹く風と、まるで嘲笑うかのように、給仕服姿の少女に抱かれ、おくるみに包まれた『小さな命』は、春の陽だまりのような笑顔を浮かべている。少女が思わず、指先でその頬をつつけば、無邪気な笑い声が凍りついた広間に、春の訪れを告げるかのように、響き渡った。
少女は知らない。この赤児の運命の帰趨が、全て正妻の掌の上にあることを。
正妻が首を横に振る、ただそれだけの動作で、この小さな命のあまりにも短い人生は、唐突に閉幕を迎えかねないのだと。
「それに奥様、赤児の瞳をご覧頂きたい。濃褐色ではなく、なんと漆黒でございます」年嵩の衛兵が一歩前に出て進言し、赤児を抱く少女に目配せを送った。
少女はきょとんと目を見開く。どうやら段取りを忘れてしまったらしい。
「え、え~と? あ!そうだ」少女は軽やかな足取りで正妻の前に進み出ると、「ほ~ら」と言って、赤児を高い高いとあやすような仕草で抱え上げ、正妻に赤児の瞳を見せつける。周りの衛兵は、少女の無礼な態度に肝を冷やした。
「――っ!」正妻は、声にならない悲鳴を喉の奥で噛み殺した。わずかに体を震わせたのも束の間、すぐに気を取り直す。張り詰めた空気が流れる中、ことさら高慢に、冷え冷えとした声で言い放った。
「……穢らわしい。妾の前に、そのような物をひけらかすでない」
正妻の視線が赤児に向けられる。赤児からも漆黒の瞳で見つめ返された瞬間、彼女は、赤児そのものではなく、その存在が自らにもたらすであろう厄災を拒絶するように、激しく手を振り払った。
「あぶないなぁ!」少女は咄嗟に身を引いて、赤児を守るように抱きしめた。場違いなほど単純な、怒りの衝動が、少女に叫び声を上げさせた。
少女には、この場の重圧も、正妻の嫌悪感も届かなかった。世界は少女にとって、善と悪の二元論で成り立っている。正妻が単なる雇用主ではなく、生殺与奪の権利さえ握る、畏怖すべき存在だという現実などお構い無しに、ただ目の前の『あぶないことする悪い人』に、純粋な怒りを覚えていた。
正妻だけでなく、周囲の衛兵たちからも冷ややかな目を向けられ、少女は首を傾げた。どうにも腑に落ちない様子だ。
抗議の声を上げようと、口を開きかけた――その時。
腕の中の『幼き命』が、まるで(大丈夫だよ)となだめるように、その小さな手を、少女の唇へと伸ばした。
これには少女も形無しだった。強張っていた肩の力がふわりと抜けていく。険しかった眉尻もゆるりと下がっていった。先ほどまでの怒りは消え去り、少女の顔にはいつの間にか、赤児に引けを取らない、花のつぼみがほころぶような笑みが、こぼれていた。
(こんなに可愛らしい子に、何で、あんなに冷たい目を向けるんだろ、みんなおかしいよ)少女は不満に思うが、広間に集う者たちが抱く、黒髪の赤児への認識には決定的な齟齬があった。
正妻はその出生の事情から憎悪を募らせ、胸にあるのは『断罪せよ』という確固たる決意であり、この場は正妻にとって、いわば儀式なのだ。ただ一言、命じれば済むはずだった。しかし、声が出ない。極寒の地へ放り出されたかのように唇が震え、言葉が喉の奥で凍りつく。
目の前の赤児が宿す『黒髪黒瞳』それは貴族社会にのみ語り継がれてきた伝承だった。魔女の生まれ変わりであり、仇なす者に厄災をもたらすという不吉の象徴。これまで「子供だましの迷信だ」と、意にも介していなかった伝承が、今や呪縛となって彼女を縛り上げる。処刑の宣告が、自らへの呪いの引き金になるのではないか。その恐怖に射すくめられ、彼女は一歩も動けぬまま、ただ立ちすくんでいた。
対して、衛兵たちが抱いたのは現実的な畏怖だった。黒髪は東方蛮族の勇猛さの象徴だが、とりわけ『黒髪黒瞳』は伝説の戦士の証であり、戦場に佇むその姿は、涼やかでありながら、まさに『死神』の名にふさわしい圧倒的な威圧感をたたえていたとされていた。ただの赤児だというのに。いつか自分たちの前に立ちはだかり、死を振りまく化物へと変貌するのではないか。その予感が、彼らの足をすくませていた。
だが、少女は、そんな闇深い事情など知る由もなかった。この愛らしい『小さな命』に恐れる要素など何一つなかった。和毛の柔らかさを持ちながら、黒く艶やかに波打つ髪も、見つめれば吸い込まれそうになる漆黒の瞳も、ただひたすらに愛おしい。
この『幼き命』が、その存在にとって、最もふさわしくない場所である、懲罰房などに閉じ込められていたのか。そもそも、自分がなぜ、この場に引き出されたのかすら、少女には分かっていなかった。
正妻は、迷うことなく、この『厄災』の生贄として少女を選んだ。
自らは優雅に幕引きを図るのが最善であり、育児という名の地獄を他人任せにしてきた彼女とて、その過酷さを知らぬわけではない。だからこそ確信していた。この年端もいかない小娘が、子育てという重責に、無惨に押し潰されるであろうことを。
それは、仕組まれた破滅であった。




