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 4・懲罰房の赤児と少女の運命     


 少女の足音が石段を刻み、石壁に吸い込まれるように遠ざかる。やがて闇に溶け、残されたのは耳鳴りがするほどの静寂だけだった。


「うぅ~、何だか怖いなぁ。何でこんな……」


 懲罰房の住人が既に冷たくなっているとも知らず、凍てついた地下牢をさまよう少女。吐く息は白く、その身を包むのは、いかにも場違いな、少しだぶついた給仕服だった。


「あ、ここ、かな?」最奥にある、分厚い鉄扉の前に立った。


「ひぃや~ぁ! 何!?」少女の手から黒パンと水差しが滑り落ち、乾いた音が響き渡る。


「え……この音、何?」それは弱々しく、しかし魂の底から絞り出されたような、切実な響きだった。地下牢の凍てついた空気が、歪む。途切れ途切れのその声は、張り詰めた静寂のなかを木霊する。


「どこ、どこにいるのよ!」震える唇から絞り出した悲鳴にも似た声とともに、氷のように冷たい鉄扉に耳を押し付ける。地下牢を満たす鉛色の空気は、もはや冷たさとは違う、奇妙で生々しい熱気を帯び始めていた。声はますます鮮明に、すぐそこから、鉄扉の向こう側から聞こえてくる。


「ねえ、誰か! 誰かいるんでしょう!」少女は鉄扉を叩き、喉も張り裂けんばかりに叫ぶ。だが、返事はない。


「何これ……誰かがここに!、赤ちゃんを?」鍵のかかった鉄扉の前で、少女は無力に立ち尽くす。開ける術など、ない。


「どうしよう、このままじゃ、中にいる赤ちゃんが、死んじゃう!」恐怖、驚愕、使命感――あらゆる感情が混然一体となり、純粋な憤怒へと化した。少女は足元の黒パンと水差しを蹴散らし、叫ぶ。


「ふざけんな! 鍵! 鍵を持ってこい!」


 少女は階段を息せききって駆け上り、衛兵詰所の扉を蹴り上げて開き、

「鍵、鍵を貸して!」血相を変えて叫んだ。


 車座になって茶をすすっていた衛兵たちは、何が起こったのか理解できず、呆然として固まる。


「おい、どうした? 何の鍵だ?」年嵩の衛兵が、重い腰を上げた。その声には、まだ弛緩が残る。


「地下牢の! 懲罰房の扉の鍵!」少女は荒い息をつきながら、衛兵たちの輪の中に躍り出た。その顔は怒りと焦りで真っ赤に染まり、普段の少女からは想像もつかない、鬼気迫る形相だった。


「だから、どうしたって聞いてんだ。飯は置いてきたんだろうな?」別の衛兵が気だるげに尋ねる。その呑気な態度が、少女の怒りの炎に油を注ぐ。


「それどころじゃない! 中に、人が、赤ちゃんが閉じ込められてるの!」


 衛兵たちは顔を見合わせた。次の瞬間、抑えきれない嘲笑が起こった。

「ははっ、『赤ちゃん』がだとぉ?」

「おいおい、ついに頭がおかしくなったか?」

 

「ふざけないで! 本当にいるのよ!」少女は笑い飛ばす衛兵たちの中、一歩も引かない。


「本当よ! 確かに声が聞こえたの! このままじゃ死んじゃう!」少女の悲痛な絶叫は、しかし、彼らの冷え切った耳には届かなかった。

 

 希望が、ガラガラと音を立てて崩れ去る。(彼らに訴えても無駄ね。ここにいる連中は、ただ自堕落に過ごしているだけ)


「お前さん、その若さで耳が遠くなったか?幻聴でも聞いたんだろ? 懲罰房にはなぁ………」


 最古参の衛兵が鼻で笑い飛ばそうとした、その瞬間。彼の顔色が一変した。車座になっていた何人かが立ち上がり、彼と無言で目を見合わせ、頷きあう。そのうちの一人が、手にした茶碗を床に投げつけると、壁際へと走り寄り、鍵の束を鷲掴みにした。


「くそ、どの鍵だ」鍵の束をじゃらつかせながら、衛兵は苛立ちを隠せない。

「ええぃ、面倒だ」吐き捨てて、彼は一目散に懲罰房へと走り出した。その後を、他の衛兵たちも我先にと押し合いながら追う。

 

 ごった返すように懲罰房へたどり着くと、むせ返るような男たちの荒い息遣いの中、確かに赤ん坊の鳴き声が聞こえた。鍵が乱暴に開けられる。恐る恐る房の中を覗き込む衛兵たちに続いて、少女も懲罰房のなかに足を踏み入れようとしたが、入口に立ちふさがった衛兵に阻まれる。


「きゃっ!」少女は尻餅をついた。


「おい、小娘。お前は俺と一緒に来い」少女は抗うこともできず、腕を掴まれて引きずられるように連れて行かれる。


 「……?」少女は、すごい違和感を持った。衛兵の言葉には『何が何でも俺の言う事聞け』という威圧感のなかに、安堵感が見え隠れしていたからだ。

 

 その理由は懲罰房内にあった。虚ろな目をして、重なり合うようにして立ち尽くす、衛兵たちの姿があった。


 血と傷にまみれ、引き裂かれた衣服を纏った遺骸が、満足げな笑みを浮かべて横たわる。石壁にはおびただしい血痕が染み付いていた。その傍ら、鮮血に濡れた麦藁の上で、母親の衣服であろう、引き裂かれた布切れにくるまれた赤子が、母親にしがみついて、安らかな笑顔で眠っていた。


 生と死が、あまりにも鮮烈に交錯する光景だった。 


 ここで何があったのか、想像するのはあまりにも容易で、そして、あまりにも苦痛であった。


「子供には見せられねぇよな」頭を抱えて呟く衛兵に、年嵩の衛兵が、「ほらさっさと後片付け……は、まあいいか。赤ん坊を連れて行くぞ」と、命令というにはあまりにも弱々しい声で、言った。


 少女が理由も分からず、言われたままに走り回って、持てるだけの亜麻布リネンを抱え、衛兵詰所に戻ってくると、既に衛兵たちが輪になって、何かを覗き込んでいた。


「奥様に報告しない訳にはいかないだろう」

「いや、しかしだな……」

「俺達でなんとか出来る問題じゃないだろ」

「でも見ろよ、この子の和毛にこげ。黒じゃないか」

「おまけに瞳の色も濃褐色じゃねえ、漆黒だぜ」

「おっかねえ。俺達大丈夫か?」


 漏れ聞こえる話し声に、(一体何を?あ!分かった。赤ちゃんだ!)と、少女が輪の中に喜び勇んで首を差し伸ばすと、


 ニッコリ笑う、赤児の姿があった。


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