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24・げんきになった!

 

「ほら、危ないわよ」


 女の腕の中で身を乗り出し、鍋の中を覗き込もうとする赤児。


 注意する女も、気づけば身を乗り出し、二人して鍋の中に顔を突っ込まんばかりだ。ついには頬を寄せ合い、我先にと中身を覗き込む。


 鍋の中身は、干し肉と牛骨、鶏ガラをじっくりと煮出して作られた、黄金色の澄み切ったスープだった。その鏡のような表面には、色とりどりの野菜が、宝石を散らしたようにたっぷりと浮かんでいる。


「もう、二人してそんなに身を乗り出しちゃって!」


 お玉を握りしめた少女の呆れたようでいて、明るい声が響く。さきほどまでのふくれっ面はどこへやら、頬を赤らめて笑いを噛み殺している。


「だって、良い匂いに誘われて、この子ったら、私の腕をすり抜けて飛び込もうとするのよ」女がおどけて肩をすくめると、赤児も調子を合わせるように「ねぇね!あうー!」と力強く拳を突き出した。


「ふふっ、今日のお野菜は、どれもこれも瑞々しい上物ですから。美味しいですよー!」


 少女は誇らしげに胸を張り、自分たちの器を並べ終えると、小さな白い乳鉢を手にした。鍋から柔らかく煮込まれた野菜をそこへ入れる。


「すぐに作るからね」


 少女が乳棒を手に取り、具材を擦り潰し始めた。乳鉢から心地よい硬質な音が、部屋に響く。少女の指先は驚くほど繊細で、時折スープを足しながら、赤児の喉を通りやすい滑らかさになるまで、いっさいの妥協も許さず練り上げていく。


(なんだか離乳食を作っていると言うより、薬剤調合をしているみたい?)その間、女はまさに『お預け』を食らっていた。

 

 赤児を膝に乗せている手前、行儀よく座ってはいるものの、その視線は乳棒を動かす少女の手元と、寸胴鍋の間をせわしなく行き来している。ふわりと鼻腔をくすぐる、濃厚な香り。女は無意識のうちに喉を鳴らし、慌てて居住まいを正した。


 だが、赤児が「まぁま。ああうー!」と催促するたび、心の中で(そうよ、早くしてちょうだい)と密かな同意を繰り返す。


 少女はその視線に気づいているのか、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべたまま、ようやく乳棒を置いた。そのまま席を立ち、女の腕の中から、今にも鍋に飛び込みそうだった赤児をひょいと抱き上げて、抱っこ紐で包み込む。

 

 少女が木製の深皿を手に取る。お玉が鍋の底をさらい、黄金色の液体を掬い上げた。とろりと柔らかく、小さく刻まれ、煮込まれた野菜が、滑り落ちるように皿へと注がれ、最後に黄金色のスープが器の縁までたっぷりと満たされた。


「はい。冷めないうちに召し上がれ」


 差し出された木皿を受け取る女の指先が、心なしか浮き立っている。まるで宝物を授けられる様に恭しく器を受け取り、目を細めた。


「ありがとう。……あ~本当に、良い香り」


 少女はその横顔を見つめると、満足そうに微笑んだ。続けて、スプーンを手にして、丁寧に作られた離乳食を掬って、そっと赤児の小さな口に差し入れた。


――と、その時。


「カチッ」


 静かな部屋に、場違いなほど硬く、明瞭な音が響いた。


「カチッ!?」「カチッ!?」


 少女と女の声が重なる。二人は弾かれたように顔を見合わせ、目を見開いた。


「今の、聞こえましたか!?」「早く、口の中を確かめて頂戴。もう歯がはえたの!?」


 女が急かすが、当の赤児はといえば、スプーンを咥え込んで離さない。むにむにと頬を動かす仕草に、少女は困ったように眉間にしわを寄せた。


「おかしいですね……。噛み癖どころか、口の中をむずがる様子なんて、これまで一度も見せていなかったのに」


「……どうしてそんなことを知っているの?」女の問いに、少女は不思議そうに小首を傾げた。


「え? それは、日頃からこの子をよく見ていますから」


「そうじゃないわ。私だってよく見ているわ。何故、そんな『知識』があるのかと聞いているの」女の言葉に鋭い色合いが混じる。少女の洞察が専門的すぎるのだ。


 少女は、女の詰問するような視線に、声音に、言葉を詰まらせ、視線を泳がせた。


「ええと……それは、その。ほら『医学書』でしたっけ。以前読んだ本に、歯が生え始める頃の兆候が書いてありましたから。あはは……」


 乾いた笑いで誤魔化されるような女ではない。


(私が揃えた本の中に簡単な育児書なんて一冊もなかった。あったのは、かなり高度な、専門用語や難解な文字が羅列してある『医学書』だけ。それをこの娘は読み込むだけではなく。いつでも取り出せる『知識』として身につけているというの?……この娘は)


 女は再び思考の迷宮に引きずり込まれそうになり、思わず頭を抱えて俯いた。だが、その時、脳裏をよぎったのは、もっと恐ろしく、もっと切実な予感だった。


(いけない。このまま私が暗い顔をしていたら……また、『妹ちゃん』に叱られる!)


 ここで暗い雰囲気にして食卓を台無しにすれば、少女を悲しませ、赤児の機嫌を損ねてしまう。


 女は勢いよく顔を上げた。迷いを振り切るようにスプーンを握り直し、まだ熱い木皿を掴む。


 行儀作法も、猜疑心も、すべて黄金色のスープと一緒に喉の奥へと流し込んだ。熱い液体が胃の腑に落ち、内側からじわリと体温を押し上げる。


「はぁーっ! ……そうね、具合が悪いときは、美味しい物を食べるに限るわ!」


 空になった器をテーブルに置き、女は憑き物が落ちたような顔で笑った。


 その様子を間近で見ていた少女は、一瞬だけ驚いたように目を丸くしたが、すぐに満面の笑みを浮かべて、声を弾ませ、言った。


「 げんきになった!」

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